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2009年9月15日 (火)

死に向かう姿②

 母の現在の姿は「赤ひげ」(黒澤 明監督 1965年)で藤原釜足(以下敬称は略させて頂く)演じる六助を想い起こさずにはいられない。あの作品で黒澤は病で死に往く二人の人物を執拗に造形し描いている。六助と山崎 努演じる佐八だ。この六助の姿が母の姿と重なるのだ。人が病で死に往く姿を、黒澤は映像で描き挙げ描き尽くそうと意図したと思われる。この作品には瞠目するカットが幾つもあるけれども六助の死がその一つだ。黒澤はライトをキャメラの向こう側から藤原にあて横顔をモノクロームの究極と言えるほど見事に映像化した。それは最期の闘病を耐える母の姿にもっとも近い映像だ。

 9月15日、母にとっては82年と2カ月を生き抜き、新たな月の15日目の朝を迎えた。お疲れ様である。娑婆での病の苦しみと昔の楽しかった思い出と生活の苦労も残り少しで終わる。祖父母も父も叔父も若くして亡くなったお兄さんと妹も迎えに来ていることだろう。

 午前7時20分、女性の看護師さんが昨日移った個室の病室に来る。小水をしたようでオムツを換え腰のクッションの位置を替える。お二人が退室して母は大鼾。

 そのあと別な看護師が来て少し熱があるようなので氷枕に換えてくれる。そのあとには男性の看護師さんが来て母の口の中を綿棒に湿らせて重曹水とハッカ水、ゴマ油で拭いてくれた。それから「おトイレを見てみます」とオムツの世話をしてくれる。病室に母の糞尿の臭いが漂う。大変な仕事である。作業を終えた両人に深く頭を下げる。

 午後2時、再び「おトイレ」。この糞尿の臭いをアカショウビンは時と場所が移れば忘れる。それが人間の愚かで、いい加減(これは仏教用語の意味でつかうのだが)なところである。誰もが嫌がる作業を彼らは仕事として笑顔で優しい言葉をかけながら粛々と行う。そこで「仕事」と何か?賃労働に拘束された奴隷労働なのか?という疑念も起こる。しかし今は母の傍に付き添うことがアカショウビンと弟にできる母に報いる行為なのだ。

 近くから讃美歌のコーラスが聴こえてくる。このホスピス・フロアの患者達とシスターたちが歌っているのだ。看護師さんにエアコンを弱にしてもらう。朝夕は肌寒くなった。これから秋は深まるけれども母の命の火は幽かになってゆく。人や親子という存在は何なのだろう?アカショウビンの前に朦朧とした意識で横たわる母という存在は?人は死に向かう存在だと思索家は洞察する。しかし死に往く母を前にして、それだけでは納得することはできない。アカショウビンという存在は目の前の存在から産まれ生存し現存している。言わば母はアカショウビンの創造者である。仏教徒であるアカショウビンと母に、この病院の理念と理想でもある父なる神の信仰はない。しかし無縁とも思えない。

 「赤ひげ」で六助は苦しみながら、しかし娑婆での家族や周辺の人々との苛酷な葛藤も終える安らかさで死んでいく。佐八も女房との苛酷な別れを想い出しながら苦しみから解放されるのだ。母もまた同様と思う。

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