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2009年9月21日 (月)

修行が足りん!

 不在の母の喪失感は時に虚無感、虚脱感を伴う。これをどう凌ぐか。経済的にも精神的にも、現在の苦境から逃れ脱却する方途を見つけなければならない。「死に至る病」(@キルケゴール)に絡め取られないように。

 「私たちの日常は、落ち着きがなく、日々新たに驚きや不安、希望や恐れが交錯する。日夜にわたり仲間の支えがなくては、到底ひとりではもちこたえられない。仲間と支えあっても、やはり大変だ。おりおりの一つの重荷の下で千の肩がふるえている(@カフカ)。

 母の死は次のような思索家の考察を想起させる。

死ぬとは、死をはらんでその本質まで耐え抜くことである。死ぬことができるとは、このはらんで耐え抜くことを能くする、ということである。われわれがこのことを能くするのは、われわれの本質が死の本質をよしとするときだけである。 しかしながら、数えきれないほどの死のただなかでは、死の本質は立てふさがれたままである。死は、空無でもなければ、有るものが別の有るものへ変わってゆくだけの移行でもない。

  (以下の文は強調されている)死は、元有の本質から出来事として本有化される人間の現有に属する。このように死は元有の本質を守蔵している。死とは、元有それ自身の真理を守蔵する最高峰の山脈である。この山脈は、元有の本質の隠されたありさまを内部に守蔵し、この本質の守蔵を集成する。それゆえ、人間が死を能くするのは、元有それ自身がその本質の真理にもとづいて、人間の本質を元有の本質のうちへゆだねて固有化するときだけであり、またそのときにはじめてである。(以下の文も強調されている)死とは、世界という詩のなかで元有を守蔵する山脈にほかならない。死をその本質において能しとするとは死ぬことができるということである。死ぬことができる人々こそが、「死すべきものども」というふうに、この語の含みに見合った意味においてはじめてそう呼ばれるのである。無数の恐るべき、死ともいえぬ死の偏在から大量の困窮がこだましてくる。にもかかわらず、死の本質は人間に立てふさがれてしまっている。人間はいまだ死すべきものになっていない。

 

  以上のような考察と母の死は交錯する。病院の手厚い看護のなかで母は「死を本質において能しとするとは死ぬことができるということである」ように死んだと確信する。何年か前に「私は死ぬのは怖くないよ」と、それは甲斐性のない倅たちへの不満でなく自らに言い聞かせるように漏らしたことがある。それは母の信仰によるものだろう。しかし、その声は子に痛切に響いた。死に至る過程で母は自ら範を示し実証したと思う。アカショウビンに、それは果たして可能だろうか?実に心もとなく思うのである。「修行が足りん!」と彼岸から両親が一喝しているようでもある。

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