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2009年8月10日 (月)

時と死

 戦後64年を経た現在に棲息していて“今”という時は何だろう、と思うのである。我々の日常は街に出れば見るからに平穏だ。かつて大阪空襲で地獄の様相を呈した街に傷跡は殆どない。アカショウビンが棲んでいる近くに神社がある。鳥居は元禄年間と刻まれている。恐らく建て直したものと思われるが、そこには地霊とでもいう時空がある。その空間に我が身を置く。蝉時雨が周囲に満ちる。その時とは何か?また、この地で地獄が現出した空間と時とは?

 長崎や広島で一瞬にして殺戮された人々や、その後の後遺症で苦しみながら死に果てた人々の存在とは何か?先の大戦の南方戦線で戦闘や敗走しながら戦うこともなく怪我や餓死で死んだ兵士たちの死とは何か?

 やがて忘却されるだろう死者たちの生きた時間と私たちの現在、今に暫し止まり思いを馳せることは新しい次元を切り開いてくれるだろうか?

 昨夜観たNHKの日曜美術館でメキシコ美術が紹介されていた。先週アカショウビンも途中から観て面白く、感想はブログに書いた。その前半は未見だったので昨夜観た。それによるとメキシコでは毎年11月1日と2日を「死者の日」と定め、夜は家族で墓所を訪れ死者たちと交流するらしい。それは鳴り物入りの賑やかなものだ。メキシコの文化は死と同居しているとも語られる。ディエゴ・リベラや妻のフリーダ・カーロを介して先住民族を描く作品を興味深く見た。

 先住民がスペインの侵略で殺戮され国民の多くが混血という人々のアイディンティティとは何か?というのが番組の主題だが、そのような主題はリベラの作品に辿れるけれども現在の若い画家達が壁に描く作品は驚くべき質の高さを呈し、そのような問いとは無縁のようにも見える。リベラや若い画家たちは何故、壁画に作品を残すのか?リベラは、それは誰の眼にもとまるから、と答えた。つまり作品は美術館に収監されるのではなく大地に晒される。街中に溢れる作品群は壮観だ。或る思索者は、芸術とは何か?と問い次のように答える。

 「芸術の本質は、芸術家が可能的なものに対する本質視を持ち、有るものの隠れた可能性を作品へもたらし、それによって初めて、その内で人間が盲目的にうろつき生きる現実的に-有るものを、人間に見さしめる、ということの内にある」

 本質視というのが思索者の独特な用語だが、芸術家というのはそういう人々であろう。ところが死者たちと語る能力を持つ民族や庶民がいる。我々の間で死者たちと現在また死ぬ往く人々は果たしてメキシコ人たちのように共生しているのだろうか?表面上はそう見えない。しかし一年の中で私たちは夏に収斂して暫し死者たちと言葉を交わす。それは我が国の習わしを越えて人間という生き物の独特の在り方である。やがて来る個々人の死も視据え、夏を過ぎて往きたいと念ずる。

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