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2009年8月26日 (水)

陽水とは何者か?

 NHKが夜中に井上陽水(以下、敬称は略させて頂く)を特集している。本日は第三夜。アカショウビンは若い頃に陽水の作品と出会った時の衝撃を未だに忘れられない。下世話な話で恐縮だが学生時代か社会人になりたての頃かに場末のストリップ劇場で「人生が二度あれば」という曲が流れた。それは意表を突かれた気がしたが全く違和感がなかった。踊り子の姿と呼応して作品が響いているように思えたからだ。

 デビューした時の陽水の声と曲と歌詞は、世を風靡したヴェトナム戦争・反戦フォーク・ソングとは一線を画していた。アカショウビンは高校から浪人時代、大学、社会人になってからも関心を持ち続けたヴェトナム戦争にコミットした「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)の小田 実、鶴見俊輔ら知識人たちの活動、論考を介して、当時広く耳にした「反戦」フォークと陽水の作品は明らかに異なっていることに興味を惹かれた。放送で陽水は反戦運動を「ムーヴメント」と話していた。3年浪人しても父親の仕事を継ぐための大学に入れなかった陽水は大学生たちを中心に盛り上がった「ムーヴメント」とは異なる場で生きるしかなかった。そういう場で生きていた陽水の世界が痛烈に残されているのが「もどり道」というアルバムである。それはレコードで購入し繰り返し聴いた。そこで陽水は自らの境地を真率に表現している。少し捻くれて言えば、心の姿を独自の裸形として表出し得ている。それは同時代を生きていたアカショウビンには本当に新鮮で痛烈な体験だった。

 デビューから40年。その間の陽水の変化は鮮やかで面白かった。あのセンチメンタルの塊みたいな歌い手が実に軽やかにシュールとも疑われる世界へ脱皮していく。それは驚きと感嘆で、さすがだね、という印象だった。

 北九州の炭鉱町・筑豊の全盛期から陰りが見えだした頃に少年期を過ごし、テレビに夢中になった少年は受験の挫折も経験する。しかし天性の声が独自の歌詞を通して新たな世界へ活路を開く。戦後日本は石炭から石油へ。高度成長で生活は向上していくが画一化も進む。テレビの普及は大量消費を促進し消費は美徳となる。敗戦時には予想もできなかった勢いで経済は復興した。しかし古き良き日本はサラリーマン社会のなかで欧米を模し奇妙な姿で画一化していく。

 井上家は父親が歯科医で生活は安定し恵まれていたほうだと思われる。親の仕事は継げなかったが歌の世界で生きる場所を得た。偶然と運も幸いしたのだろうが独特の世界は多くの若者の感性を挑発し共感させ次々とヒット曲を産み出していく。先に引いた「人生が二度あれば」という作品は親の姿を作品化したセンチメンタル・ソングだ。それがその後、鮮やかに変貌していく。そこに陽水という歌手のしたたかさを垣間見る。

 そこで問うてみよう。井上陽水とは何者か?

 放送で紹介された友人や知人の陽水評と、それに対する陽水の語りが面白かった。それらを綜合すると、井上陽水とは若き頃のセンチメンタルを後に換骨脱胎し鮮やかに変貌した歌い手である、と回答することもできるだろう。それは若き頃に手にした収益と、反語的には負債とも見做せる財産を、その後、消費しつつ返済し続けている歌い手とも言えるだろうか。還暦を迎えたといっても昭和の中頃にそこらで見かけた同年代の人々の姿ではない。若者たちからは「変だけど凄いオジサン」と不可思議と親しみを込めて評される存在は実に愛でたい、と言祝ぐしかない。

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2009年8月22日 (土)

あぁ、映画

 あれこれ詳細に書いてみたい気もするが、そうすると何やら感銘が薄れつまらないものになってしまいそうだ、という作品がある。この場合、映画というジャンルだが、「その木戸を通って」という市川 崑監督作品だ。16年前に制作され国内の劇場では上映されなかったらしい。昨年、監督が亡くなられたのを契機に追悼上映されたようだ。何の前情報もなく、たまたまレンタルDVDで観ただけだが、上記のような感想である。

 モノクロームがカラーになりクロサワもオズも苦心して新しい技術に対応していった。業界用語で“写真”と呼びならわされていたらしい映画という新たな「芸術」は日本では戦後しばらくまでモノクロームが当たり前だった。その後、巨匠と奉られた監督たちは先進国・米国のカラー作品を羨望しながら敗戦国の悲哀と負けん気で“写真”を撮り続けていたのだ。

 巨匠で、それに第一作で成功したのは恐らく小津で黒澤は失敗した、というのがアカショウビンの見立てである。最初に作品に仕上げたのは木下恵介監督の「カルメン故郷へ帰る」(1951年)。それは色を表現する喜びに満ち溢れている作品だ。「その木戸~」は映画がカラーになりつまらなくなったことを反省し陰翳の究極を改めて追求しようと企んだ秀作と思う。

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2009年8月19日 (水)

老いと病の日々

  自宅療養していた母親が自分で起き上がれなくなり、昨年手術した病院へ再入院させることになった。初めて救急車というものにも乗った。乱暴な運転にはヒヤヒヤした。担当者にもよるだろうが、患者の車への搬送と搬出の動きは、もう少し丁寧にやってもらいたいとも思った。症状を訊ねる若い人は丁寧すぎるくらいの対応で、ありがたかったけれども。

 奄美は殆どが旧盆だが一部の地区と母の故郷の徳之島では月遅れ盆らしい。地元紙の記事によるとブンムケ(盆迎え)と呼ばれていると書いてある。「そうなの?」と聞いたら肯きながら微笑んだ。アカショウビンが子供の頃は名瀬(現在の奄美市)に住んでいたから父の故郷の奄美大島北部の笠利町・赤木名の墓参りには何度か行った。子供心にも近親たちの先祖の死者たちとの交流は都会にはない親密なものであったと記憶している。末っ子だった父の遺骨は慣わしにより故郷の墓に埋葬できず都下の墓所に納めた。奄美の墓地に比べれば実に無味乾燥な墓所であるけれども。

 昔と違い都会に住む現代人の死は多くが病院での治療の末であろう。父も京都の病院だった。呼吸補助のチューブを喉に入れられている姿は最新の医療器具によって生かされているだけという風情だった。母の入院している病院を1年ぶりに訪れ、改めて医療の現場というものは戦場のようなものだと思った。時々刻々、状況は変化する。医師や看護師たちは臨機応変に対応しなければならない。さいわい入院した病院の対応は好感が持てる。食事も母は美味しいと喜んでいる。身体は思うように動かず忸怩たるものがあるだろうが、看護される方々や見舞いの方々への感謝は人一倍感じているようで安心もする。対面のベッドには手術を終えて搬送された中年の女性患者がいらっしゃる。看護師さんたちに痛みを訴える姿を見れば病の苛酷さを改めて痛感する。

 余命がどれくらいあるか医師も知る由はない。しかし老いと晩節を生き抜く者の苛酷には出来る限りのことはしたいのが人情というものだ。埼玉から大阪に移り住んで4ヵ月が過ぎた。その間、心がけた気持の如何ほども出来ていないけれども最期へ向けて粛々と怠りなく日々を過ごしたいと思う。

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2009年8月15日 (土)

64年前

 夜のテレビでは「硫黄島からの手紙」を放映していた。C・イーストウッド監督によって制作された二部構成の一作は公開された時にアカショウビンは2006年12月17日、期待して劇場に出向いた。感想は少し複雑で、それはブログに書いた。本日はCMでズタズタにされながらの鑑賞で感想を書くどころではない。しかし敗戦の日に米国人の手によって制作された作品をテレビで見る日本国民の感想はどんなだろうか?

 64年後の大阪で初めて迎えた本日、感慨は新たでもある。テレビの各局は追悼ばかりではなく、お笑い番組や何よりも料理番組、温泉番組の多さに唖然となる。戦後の復興から日本は見事に再生した。そして何かを失った。その失ったものとは何か?それを再考することでしか、見かけの繁栄と、自殺者3万人超という、国民の心に巣くう病巣の実態を理解することはできない。

 日本の敗北の盾となり、この世の地獄が現出した沖縄の地の声を別ブログから拾ってみた。先のブログでも引用させて頂いた『悲劇のサイパン』(三ヶ野大典)も併せて熟慮したい。

 >11日には環境アセスメント「準備書」の県審査会に参加し、今日14日には久辺三区の下水処理整備事業をキャンプ・シュワブと一体化して行うという名護市の方針に抗議して、市役所に申し入れを行った。17日にはこの件をめぐって名護市臨時議会の傍聴が午前10時からある。

 >沖縄戦を体験した70代、80代のお年寄りたちが、子や孫のために戦争と軍事基地に反対すると、連日のように行動している。このことを多くの人に知ってほしい。

 >北西部の水際陣地にいた歩兵第五十連隊第三中隊と海軍陸戦隊は上陸前のすさまじい砲爆撃でほとんど全滅し、米軍は午前8時すぎには早くも一部が第一、第二飛行場まで進撃して来た(『悲劇のサイパン』p190)と記している。

 >トーチカの中にいた兵士たちは、どのような最期を迎えたのだろうか。テニアン守備隊の緒方守備隊長は、その日の夜に夜襲を行うが、サイパン戦で日本軍の夜襲の性格と方法を把握していた米軍は、迎撃体制を整えていた。日本軍は25日午前1時を期して三方面から突撃した。日本軍の夜襲のやり方を熟知している米軍の備えは固かった。橋頭堡前面に鉄条網を張りめぐらし、集音器を設置し、真昼のように照明弾を打ち上げていた。前面には戦車を並べ、突撃する日本軍に銃砲火を集中した。

 >日本軍は4時間にわたって突撃を繰り返したが、最前線を突破できず、夜明けとともに2500人の戦死体を残して後退せざるを得なかった(同書p192)。

 >日本がポツダム宣言を受諾して降伏して以降も、多くの人が戦争の犠牲になっている。渡嘉敷島の赤松隊による住民虐殺や久米島の鹿山隊による住民虐殺は、8月15日以降にも行われている。米軍の記録では、沖縄島の北部を中心に、9月以降も山中でゲリラ戦を行ったり、逃亡する日本兵を殺害したという記述がつづく。 

 >各地の捕虜収容所や焼け跡のバラックで、怪我や病気、衰弱で亡くなった人々。戦争が終わったことを知らず、あるいは敗戦を認めずに戦って死んだ人々。日本やアジア、シベリア、太平洋などの各地で、8月15日以降も多くの人々が死んでいったことを忘れてはならない。そして、戦争の恐怖によって精神を病み、そのあと正気に返ることなく亡くなった人たちのことも忘れないでいたい。

 ブログ氏は石川逸子詩集『千鳥ヶ淵へ行きましたか』(影書房)の一節を引用する。

  2 名のない人たち
 
 愚かな私は思っていました
 「墓苑というからには一人一人の墓があって
 ずらあっと並んでいるのだろう」
 フランスの無名戦士の墓
 写真で見たのだったか
 見渡すかぎり累々と十字架が立ち 一つ一つに花が供えられ

 千鳥ヶ淵は小ぢんまりとしたものです
 死者の占める場所は僅か
 三十二万一千六百三十二体の かつて人間だった骨は
 地下室の壺の中に押しこめられています
 六室に分けられた壺のなかに
 「大君のために」強盗の戦争に出かけ
 撃たれ 千切れ 飢え 病み
 一片の骨となった あなた方がいます

 「軍人軍属のみならず戦闘に参加した一般人のものも含まれており
 いずれも氏名の判明しないものであります」
 名がなければ
 一枚の赤紙で狩られることもなかったろう
 名があったから
 父を失い弟妹を養う長男でも
 田の草を取りかけていても フランス語を学びはじめていても 
 容赦なく 兵にされたのだ

 大君にとって 国にとって
 生きている間はなにがなんでも必要で
 骨になったら 名も求められない
 かなしい あなたたちよ

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2009年8月13日 (木)

アジアのナショナリズムとヒューマニズム

 永井荷風は日記に「現代日本のミリタニズムは秦の始皇坑儒焚書の政治に比すべし」(1944年1月25日)と記している。また竹内 好は1964年の「思想の科学」8月号で、「小林秀雄は、日本人の戦争体験は平家物語や方丈記を越えることはできない、と云う。小林に名をなさしめてはなるまい。季語化した戦争体験から抜けでるために国家批判の原点を発見することが、われらの任務だろう」と自らの意志を表明した。「季語化」した戦争体験は新聞報道やテレビ映像で年を経る毎に色濃くなってくる。

 竹内はその9年前、1955年8月25日の東京朝日新聞に次のように書いている。

 「毛沢東を経過することによってアジアのナショナリズムは、西欧への反抗と諦念の段階から、自由、平等など、西欧近代の生み出した価値遺産の継承発展の段階へと論理的に進む。それは一口にいって、ヒューマニズムを貫徹せしめるそれ自身新しいヒューマニズムであるという意味で今日の思想として重要なのである。しかし、そのような評価は、おそらく西欧側からは出まい。それはおそらく、一度は西欧に追従することによってアジアのナショナリズムを見失った日本が、再生の途上で発見すべき課題であろう」。

 竹内の言説の有効性は現在でどのような喫緊性を持ちえているのか?竹内の言うヒューマニズムとは戦後にサルトルらが用いた用語と同様の意味だろうが、これにはハイデガーが異議を提示している。日本は戦後の焼け跡から十分過ぎるくらいに再生した。しかし失ったものも多いのは現在の論説家が喋々している。「アジアのナショナリズム」を竹内の指適から54年後の日本は発見できたであろうか?

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2009年8月12日 (水)

混沌のなかの選択の難易度

 毎日新聞の夕刊に週に一度、寄稿している羽生名人(以下、敬称略)の文章が面白かった。冒頭でアルビン・トフラーを引いている。懐かしい名前だ。アカショウビンが高校の頃に著作が評判になった未来学者である。曰く。「現代の変化の速度は、企業=時速100km、社会団体=90km、家族=60km、官僚機構=25km、法律=1km」。なるほど含蓄ある喩えだ。羽生は、この変化の速度という喩えを本職に置き換え、昔に比べ現代将棋での戦法の流行廃れの速さを指適する。その変化に遅れをとると勝敗につながる、と。また「人は似たようなミスを繰り返す」という教示を引いて、「その時は後悔したり、反省したりするのですが、しばらくすると忘れてしまうのです。こう書いている自分も同様のことが多くあって、自己嫌悪に陥ります」と書く。そうか、羽生でも自己嫌悪に陥るのか、と自己嫌悪の塊のようなアカショウビンは少し安心する。羽生は更に続ける。

 ―― ミスをすると次もミスしてしまう原因は二つあります。一つは「しまった」と思って動揺し、冷静さを失ってしまうこと。もう一つは、ミスのあとは状況がより複雑で混沌としており、(次の手を指す)選択の難易度が格段に上がってしまうことだと思っています ――

 混沌のなかの選択の難易度。なるほど。勝負の機微を現し言いえて妙である。後悔や反省を人は忘れる。忘れない人が人に抜きん出るわけだ。その努力が羽生という棋界の第一人者の強さの証ということか。深く肝に銘じたい名言である。

 先のブログの話題に繋げていけば、忘れない存在へと己を修練と精進で向上させる。それが出来れば他の人に抜きん出ることが可能ということか。ところが、あくまで「かもしれない」というのが我が身を振り返り溜息をつかざるをえないところだ。

 歴史に関してもそうであろう、と思う。過去のミスを後悔し反省すれば混沌のなかに妙手を発見することもできる「かもしれない」ということだ。歴史に学ぶことも、それが難しい。

 羽生は最後にマーク・トウェインの言葉を引く。「“歴史は繰り返す”はよく使われる表現ですが、私はそれよりも“歴史は繰り返さない、ただ韻を踏むのみ”というマーク・トウェイン言葉の方が好きです」。同意である。アカショウビンも歴史は繰り返さないと確信するからである。ところが、そこで反照する言葉がある。「等しきものは永遠に回帰する」。なかなか含蓄ある見解と思えるが如何であろうか?恐らく歴史は「等しきもの」ではない。何が等しきものなのか?秋も立った時節に暫し愚考を重ねていきたい、と思う。しかしながら暑さにそれどころでもなくなる。そこが羽生あたりの頭脳と異なる凡夫の情けなさである。

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2009年8月10日 (月)

時と死

 戦後64年を経た現在に棲息していて“今”という時は何だろう、と思うのである。我々の日常は街に出れば見るからに平穏だ。かつて大阪空襲で地獄の様相を呈した街に傷跡は殆どない。アカショウビンが棲んでいる近くに神社がある。鳥居は元禄年間と刻まれている。恐らく建て直したものと思われるが、そこには地霊とでもいう時空がある。その空間に我が身を置く。蝉時雨が周囲に満ちる。その時とは何か?また、この地で地獄が現出した空間と時とは?

 長崎や広島で一瞬にして殺戮された人々や、その後の後遺症で苦しみながら死に果てた人々の存在とは何か?先の大戦の南方戦線で戦闘や敗走しながら戦うこともなく怪我や餓死で死んだ兵士たちの死とは何か?

 やがて忘却されるだろう死者たちの生きた時間と私たちの現在、今に暫し止まり思いを馳せることは新しい次元を切り開いてくれるだろうか?

 昨夜観たNHKの日曜美術館でメキシコ美術が紹介されていた。先週アカショウビンも途中から観て面白く、感想はブログに書いた。その前半は未見だったので昨夜観た。それによるとメキシコでは毎年11月1日と2日を「死者の日」と定め、夜は家族で墓所を訪れ死者たちと交流するらしい。それは鳴り物入りの賑やかなものだ。メキシコの文化は死と同居しているとも語られる。ディエゴ・リベラや妻のフリーダ・カーロを介して先住民族を描く作品を興味深く見た。

 先住民がスペインの侵略で殺戮され国民の多くが混血という人々のアイディンティティとは何か?というのが番組の主題だが、そのような主題はリベラの作品に辿れるけれども現在の若い画家達が壁に描く作品は驚くべき質の高さを呈し、そのような問いとは無縁のようにも見える。リベラや若い画家たちは何故、壁画に作品を残すのか?リベラは、それは誰の眼にもとまるから、と答えた。つまり作品は美術館に収監されるのではなく大地に晒される。街中に溢れる作品群は壮観だ。或る思索者は、芸術とは何か?と問い次のように答える。

 「芸術の本質は、芸術家が可能的なものに対する本質視を持ち、有るものの隠れた可能性を作品へもたらし、それによって初めて、その内で人間が盲目的にうろつき生きる現実的に-有るものを、人間に見さしめる、ということの内にある」

 本質視というのが思索者の独特な用語だが、芸術家というのはそういう人々であろう。ところが死者たちと語る能力を持つ民族や庶民がいる。我々の間で死者たちと現在また死ぬ往く人々は果たしてメキシコ人たちのように共生しているのだろうか?表面上はそう見えない。しかし一年の中で私たちは夏に収斂して暫し死者たちと言葉を交わす。それは我が国の習わしを越えて人間という生き物の独特の在り方である。やがて来る個々人の死も視据え、夏を過ぎて往きたいと念ずる。

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2009年8月 8日 (土)

「忘れる」から「忘れない」への可能性

 8月6日も8月9日も8月15日も早ければ数十年後に遅くとも数百年後には忘れ去られるだろう。日本国家が存続していれば日本史に、そして人類が存続していれば世界史に、それは記録されるだろうが「記録」としてである。あの歴史事実の衝撃は後の世代ほど薄れていく。それは確かに、伝承される。口述の録音や文字や映像で。先日からテレビやラジオで報道される録音のナマの声やドキュメンタリー映像は人々の「真実」を伝える可能性はある。しかし遠い未来に私たちがテレビで楽しむ「時代劇」のような昔のものとしてしか機能しない可能性もまたある。

 あの破壊力の隔絶さは人間が獲得した「技術」の或る到達点を示している。それを果たして人間たちはどのように操作できるのだろうか?それを操作するのは科学者であり政治家である。しかし、この「民主主義」の時代に科学者達や政治家達のの「暴走」に歯止めをかけるのは有権者としての「選挙民あるいは国民」であり「市民」である。国民や市民は様々な人々から構成されている。そこにはかつて「民度」と称された文化程度が存する。それは世界各国で千差万別である。これを上げるとは「進歩する」と言う事柄だろうか?産業革命で格段に発達・発展した「技術社会」は人々の日々の糧を得るための労働に便利をもたらした。それは歴史的に「近代」とも称される。

 ところで私たちが生きるということは「生存競争」とも称されたが「共生・共棲」とも見做される。果たして現在の日本人は生きる、生活するということをアフリカや中米・南米、アジアの貧しい国々で生活している人々と同様に生活をしていると言えるだろうか。

 生活が便利になり金銭的な貯えが多くなることで人間は自分の人生を生き生きと生きられるようになったのだろうか。そうかもしれない。しかし、この世界で最も「豊か」な国家に変貌した我が国で自殺者3万人超という現実は如何なる「意味」を発しているのか?

 近代に形成された「国民国家」は「国史」を作る。それは国民を構成する多民族の個々人の生き方の規範あるいは様相を示すものとなる。内外の「憲法」は対外的に国家の基本構造を示すものである。それを堅持するのか改悪するのか改善するのかは選挙民によって「国民」が選択する階梯を踏む。ここでアカショウビンは差し迫る国政選挙のことを論じようというのではない。国民国家として豊かになった我が国で「異変」が生じていることの内実を血肉化して自らの知と精神に転移させねばならない、と焦慮するのである。

 それは人間という生き物に「忘れる」ということが生物学的に組み込まれているということにも立ち入らねばならない。人間は自分が生き残るためには都合の悪い事柄は忘れる生き物なのだ。それは同様に「国家」にも波及して言えることである。その径庭は国民各自と国家の運営者たちで埋める作業が必要である事は忘れるべきではない。更に踏み込んで言えばギリシア以来の西洋で進展してきた「技術」の植物的な繁茂の如き繁殖が、どのような到達点に来ているのかということも。現在に生きる我々は言ってみれば「忘れる存在」が「忘れない存在」へと、逆にどのように変貌していけるか?という可能性を問われている地点に立っているのではないか?

 かつて日本という国の二つの都市を「非人道的」に殲滅した兵器の本質を探究しなければならないだろう。一瞬にして広島市民と長崎市民は消滅した、という事実に何度でも立ち返り考えなければならない。それは古典的な「戦争」概念を覆す衝撃を有する歴史事実であるのだから。

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2009年8月 7日 (金)

遠方より朋来る

 お昼過ぎに都内在住の高校の同窓生M永君から携帯に電話が入った。何と大阪へ来ていると言う。アカショウビンが埼玉の寓居を去る数日前に突然やってきて餞別を頂いて以来である。

 最寄の駅まで行くというのでお待ちして再会を喜んだ。会うなり、大阪へ来たのだから本場のお好み焼きが食べたい、と言う。ところが駅前に店がない。暫し探し歩き、駅から少し離れた所にやっと見つけた。夏ばて気味のアカショウビンはヘロヘロで食欲はなかったけれども、大阪に転居してから、あちらこちらにあるタコ焼き屋は訪れても、お好み焼き屋は未訪。せっかくの機会でもあるな、と付き合った。M永君は昨日来阪。本日は用事も終えて後は帰るだけと言う。ビール党のM永君はやっとビールが飲めると早速生ビールを注文。お好み焼きと焼きウドンで談笑した。

 M永君は実は都内の区議会議員さんであらせられる。3年前くらいであろうか乞われて立候補するというので在京の同窓の諸氏にも伝え支援し見事に当選した。何度か恩師のK先生もお招きし後輩や同窓生で祝賀会を開いたのだった。

 本日は在阪の同窓生にも携帯電話で連絡したけれども帰京するのでは仕方がない。声だけで旧交を温めた。また会えるのは、いつかわからぬけれども元気でね、M永君!区民のために精進し立派な区議さんになることを心より祷る。再見!

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2009年8月 6日 (木)

黒木和雄作品を想い起こす

 無職の生活というのは確かに不安に支配されながら時に暗澹たる思いで溺れそうになるということだが、時間の切り売り労働にあくせくすることなく自分だけの時間に浸れるということでもある。この日から15日までアカショウビンも歴史に思いを馳せながら過ごす。日々の労働に追われないことは或る意味で貴重だ。その時間に幾ばくかの充実を込めることが出来るかもしれない。

 この日を迎えると「父と暮せば」(2004年)という作品を想い起こす。2006年4月12日に亡くなった黒木和雄監督作である。原爆で殺された父親が幽霊となって現れ生き残った娘の人生を気遣い会話を交わすという仕掛けである。原作は井上ひさし。アカショウビンは原作を読んでいないが映画を見れば、その完成度の高さから原作の骨格が想像され映像を何度でも視てみたい。それは核廃絶!とシュプレヒコールを叫ぶのではなく、日常生活に非日常を持ち込むことで新たな世界を生み出している。「TOMORROW  明日」(1988年)以来16年ぶりに原爆をテーマに据えた作品である。静かに、かつ饒舌にあの事実に翻弄された親子の姿を映像化している。原田芳雄の熱演、宮沢りえの秀演が胸を打つ。黒木監督の執念の如きものを感ずる作品だ。

 遺作となった「紙屋悦子の青春」(2006年)も先の大戦を生き抜いた鹿児島の或る家族の日常を淡々と描きながら自ずと「戦争」が炙りだされている。ホームドラマのような映像の裏には戦死した家族や戦争で死んでいった亡霊たちが充満している。このような静謐なトーンで最後の作品を撮り終えた黒木和雄という映画監督の生き様にアカショウビンは共振する。

 

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2009年8月 4日 (火)

無職の不安

  アカショウビンは移民ではないが長らく棲んだ首都圏から大阪という異郷へ転居して3ヶ月以上過ぎた、まぁ、国内移民のようなものだ。ところが未だに職に就けない。企業の景況感は底を打ったという報道もあるが失業率は先日5%を越えたと報じられた。職安に行けば人が溢れている。もっと現実をちゃんと取材しろよ、と舌打ちしたくもなる。しかし言葉が通じない外国人に交じって苦闘された海外移民の皆さんの困窮からすれば、それは未だ甘いものだろう。ブラジル移民の困苦と苦闘は現在はまだしもこれから徐々に忘れ去られていくだろうけれども。 

 仕事にありつけない不安は心身を疲弊・消耗させ精神を萎えさせる。このような経験は20年ぶりだ。その頃はまだ若かったから心身共に耐力があった。ところが50を過ぎた身にはきつい。しかも病後の老母を抱える生活は経済的にも心身も磨り減らす。前々前職はマンネリと仕事の過剰負担、それによる体調不良、年収の大幅削減等の会社方針に堪えられず辞職を決意したのだが現在からすれば経済的にはまだマシだった。後悔先に立たず。しかし座して死を待つわけにもいかない。活路を開かねば。

 それにしても現在の我が国の政治の混迷と経済の低迷は一人の国民として他人事では済まない。毎年3万人以上の自殺者という異常は国家の根幹に異常をきたしているということだ。本来なら怒りが心身に満ちてくるべきだろうが求職に忙殺されてままならない。しかし世に苦しまれている人々は数知れない。仏教で説くように現世は苦に満ちているのだ。広島と長崎の日を前に、一瞬にして死に果てた人々の無念にも思いを新たにせねばならない。先日はエノラ・ゲイに搭乗した科学者の原爆投下が日本の降伏を早め、それ以上の惨禍を抑えたという、これまで米国で何度も繰り返された常套コメントも報道されていた。彼は科学者として新型爆弾が通常の爆弾とは違う性質のものであることを認識していて言う発言である。そこには確信犯的な国家への忠誠と科学者の技術信仰の妄信と一瞬にして亡くなられた無辜の民の死への想像力に欠ける恨みも感じた。

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2009年8月 2日 (日)

移民と芸術

 NHKの日曜美術館でメキシコ美術をテーマに今福龍太氏がゲストで話していた。そこで紹介されている街の壁に描かれた作品は我が邦のスプレー壁画とは質を異にしている本格的な水準である。メキシコ人の民族としてのアイデンティティはネイティヴと侵略者スペイン人との混血で単一ではない。それを今福氏は「他者性」を受け入れて成り立つ文化と評する。司会の姜 尚中氏はそれを受けて韓国では「正体性」という言い方をする、と話す。

 アイデンティティとは何か?日本人は単一民族という言い方をした政治家がかつて痛烈な反発を受けたことを想い起こす。日本人といえども先住民であるアイヌや半島から移住した在日韓国・朝鮮人たちが同居する現実は、米国ほどではないにしろ単一民族の国家ではない。

 番組では、メキシコからヨーロッパに渡り生活した画家が故国に戻り絵画から彫刻のような造形美術に没頭する。彼が住んでいた頃には多くの村人がいたが、その殆どが故郷を捨てて米国に移住し村は過疎化している。画家は、その今はいない人々の2千人余の姿と自分自身を彫像した。それは芸術のための芸術ではなく、現在に生きる作者の抱く現実感を投影した作品である。その思想性を作者は移民の悲哀と説明する。移民を誰も助けてはくれない、と自らのヨーロッパでの体験を通し語る。米国へ移住した移民たちの困窮を彼は伝え聞いているだろう。成功者もいるだろうが多くは差別のなかで刻苦している同胞が多い筈だ。その苦しみを彼は芸術家として表現した。

 アカショウビンが訪れる美術館で出会う多くの作品は芸術のための芸術といえる作品である。しかし芸術の本質とは何か?と問うと、決して静的なものではないように思われる。移民たちの生の悲哀に突き動かされて形にした作品から伝わる磁場の如きものは作者の現在を反映している。それは静的でなく動的なものだ。芸術のもつ力とは一様ではない。テレビ番組で放映されるそのような映像がどれほどの視聴者の精神を触発するのか定かではないけれども、その幾らかはアカショウビンのようなもの好きを確かに挑発する。

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