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2009年7月26日 (日)

Seynとは?

 先週と本日の夜は再放送でNHKの「日曜美術館」はマーク・ロスコ(本名はMarkus Rotkovich)という画家を特集していて面白く見た。アカショウビンには未知の人だ。ロスコは1903年、ロシア・ラトビアのドヴィンスク生まれ。そのユダヤ人一家は1913年に米国オレゴン州ポートランドへ移住する。1940年頃から抽象画を描くようになり晩年の作品は抽象度が極限にまで達した感がある。それは「絵画」というより「デザイン」というようなものに変化を遂げている。

 今回のゲストは作家の髙村 薫さん(以下、敬称は略させて頂く)。彼女が賛嘆する晩年の「シーグラム壁画」と称される作品群はロンドン、ワシントン、千葉県佐倉市の川村記念美術館にそれぞれ「ロスコ ルーム」として所蔵されているようだ。髙村は、その作品の発するオーラというか磁場というようなものは画集や図録では看取できない、と言う。それを高村は「生命」とも語っていた。優れた芸術作品に共通するものだろう。

  アカショウビンが面白いと思うのは、それはハイデガーがSeynとして思考したものと通底しているのではないか、と感じたからだ。優れた芸術作品のもつ磁場というものが有る(存在する)。それはギリシアの哲学者たちの著作や手稿を通じてハイデガーが展開する独特の思考だ。全体の構想は示されながら尻切れで完成されなかった『有と時』(通常は『存在と時間』と訳されている)を補完するように著作の公刊後にハイデガーは講義や講演、メモで洞察したものを残した。それは実に緻密で一種の神秘性さえ帯びた思索と言える。『哲学への寄与論考 (性起から[性起について])』(2005年 創文社)にも、それが読み取られる。ハイデガーは冒頭で「ここには、長いためらいのうちに 慎み控えられていたものが、ある形成展開の定規として示唆的に書き留められる」と記している。この創文社版の翻訳者たちは仏教の華厳思想の漢訳語を用いてハイデガーの独特の言葉遣いを訳している。「自性」とは他訳では「本来的」であり、「現成」とは「生成」である。

  仏教哲学とハイデガーの思索が底で通じている感のあることは同時代でハイデガーの著作に接した西田幾多郎はじめ京都学派で試みられている。それは創文社の語句に典型的に現れている。seinというドイツ語を用いハイデガーは有ることを忘れた(有に立ち去られた)ギリシア哲学のプラトンのイデア論以降、キリスト教神学や中世のスコラ哲学にも引き継がれ、デカルト、カント以降ニーチェに至る西洋近代哲学・思想に染み込んでいる事態と考察・主張する。それは要約して伝え理解される思索・思考とも思えない。手がかりとなるのはギリシア語のピュシス(φύσις)という「自然」と訳される語と思われる。その語に込められている意味が西洋の古代・中世を経て近代哲学まで貫通する逸脱としてハイデガーは指適する。この語は日本の古語では現在の「しぜん」という読みではなく「じねん」と読まれていることにも注意すべきと思われる。

 それはともかく、ロスコの作品を評する髙村の言葉の端々には、ドストエフスキー作品に影響を受けた様子やハイデガーが思索する独特の言葉選びの風情が共通したものと感じられた。ロスコは晩年、動脈瘤の破裂で病床に伏し家族とも離れ自死(殺)したというのが哀れだ。しかし残した作品が作家や多くの若者たちに霊感を与え続けているようなのは芸術家冥利に尽きるというものだろう。

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コメント

断片的な論考と感想のためになにを伝えたいのかがよくわからない文章です。

まずハイデガーの実存論定義を簡単に説明するべきではないだろうか。
そしてフッサールの現象学やサルトルの想像力の問題、メルロ・ポンティの知覚の現象学を踏まえたうえでハイデガーの実存的論考のベクトルを明らかにしていただかないと、いったい芸術や想像力のなにが本質的に明らかにされているのか、または暗示されているのかがさっぱりわからないのです。

投稿: スタボロ | 2009年7月27日 (月) 午前 12時42分

 スタボロさん

 恐縮、恐縮。たまたま読み続けているハイデガーの著作の難解さと不可解さが、髙村さんのロスコの作品について述べる言葉と微妙に反響しているように聞こえたのです。それは髙村さんの語りを通さないと説明は不能です。
 「実存的論考のベクトル」というご指摘自体がハイデガーの思索をどのように言語化したらよいのか、というところで困ってしまう、というのが正直なところです(笑)。

 >断片的な論考と感想のためになにを伝えたいのかがよくわからない文章です。

 ★「なにを伝えたいのか」と特に考えて書いたわけではないからでしょう(笑)。敢えて言えば、思想・哲学や絵画・美術、映画・音楽などに関して感想を書きとめるなかで、私のこれまでと今後の思索・考察を継続する切っ掛けとしてこのブログは公表している、とご理解ください。以前にも同様なご指適を受けてコメントしたように、このブログは特定のテーマに絞って書くものではありませんから独断と偏見(笑)に満ちているのはご容赦ください。
 
 >芸術や想像力のなにが本質的に明らかにされているのか

 ★それは同書の中でも引用されている「芸術作品の根源」(創文社版では「杣道」所収、文庫では平凡社ライブラリー2008年 関口浩訳)をお読みください。そこにはゴッホの作品やヘルダーリンの詩を通してハイデガーの考察・思索が展開されています。「本質」という用語もハイデガーは独特の使い方をしています。その他、サルトル、メルロ・ポンティの思考を介して、これを要約することはアカショウビンの知力では無理というものです(笑)。ただサルトルがハイデガーの哲学を「実存主義」と定義したことをハイデガーが明確に否定したことは注意を要すると思います。フランス人からするとハイデガー哲学はナチズムと関連して政治的に喋々されるのですが、ニーチェ読解にも見られる鋭い思考と『存在と時間』以降の同書を契機に継続しているギリシア以来の西洋哲学史を見晴るかす「存在問題」への執拗な思索・考察は時に晦渋、時に先鋭で、その底なしのような深淵さに眼が眩む思いなのです(笑)。

投稿: アカショウビン | 2009年7月27日 (月) 午前 02時20分

アカショウビンさん

ハイデガーを読み解く困難と楽しみは哲学の醍醐味でしょう。

ただハイデガーが提起した実存の未来的可能性は、その後につづく哲学者、思想家、殊にフランスではさまざまに実存の諸相の分析と開示へと発展していきました。
これは現在世界への積極的働き掛けを目指すものと了解できます。

哲学がもはや厳密な学としての解釈学にとどまる孤絶性を打破していかねばならないという、時代の要請を敏感に感得した思想家たちの試行錯誤の行動はやはり検証する価値があると思います。

投稿: スタボロ | 2009年7月28日 (火) 午後 12時44分

 >ハイデガーを読み解く困難と楽しみは哲学の醍醐味でしょう。

 ★それは殆ど立ち眩みならぬ、読み眩みの如きものです(笑)。

 >殊にフランスではさまざまに実存の諸相の分析と開示へと発展していきました。

 ★おっしゃる通り、サルトル・ポンティ・レヴィナス・デリダ・フーコー・ラバルトと連綿と続き、ドイツでは、友人(ライバル?)のヤスパース、アドルノ、ハーバーマスが批判的考察を展開しています。

 >これは現在世界への積極的働き掛けを目指すものと了解できます。

 ★まったく同意です。

 >哲学がもはや厳密な学としての解釈学にとどまる孤絶性を打破していかねばならないという、時代の要請を敏感に感得した思想家たちの試行錯誤の行動はやはり検証する価値があると思います。

 ★同感です。

投稿: アカショウビン | 2009年7月29日 (水) 午前 12時24分

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