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2009年7月29日 (水)

ドストエフスキー体験

 毎日新聞の27日夕刊で髙村 薫(以下、敬称は略させて頂く)と亀山郁夫が新しく翻訳し終えた「罪と罰」の話題で「共苦する喜び」という見出しで対談している。

 アカショウビンは高校1年の夏休みに初めて読み、その後どっぷりドストエフスキーに浸かっていった。小林秀雄や埴谷雄高の評論にも触発されながら、その後、何度か部分的に読み直した。髙村は中学1年のとき、亀山は中学2年というから早熟だ。中学生や高校生がドストエフスキーに夢中になるという文化土壌は世界でも珍しいことではないだろうか。批評家としてドストエフスキーを読み込んだ小林秀雄は、それだけドストエフスキーに化かされている読者も多いだろう、と皮肉っていたけれども。

 髙村によると彼女がかつて読んだ訳には「暗い熱気があふれていた」と話す。新訳は「その感じが薄まり、風通しがよくなりました」と述べている。亀山は登場人物の名前を名字で統一しているらしい。亀山は『罪と罰』は「人間が読む最後の童話なのではないかと思います。我々は幼いときに童話を読み、その主人公と同一化するなかで、善悪や美醜、倫理の観念を本能的に区別してゆく。『罪と罰』は、まさにそれができる小説です」と述べる。

 髙村は登場人物のなかではポルフィーリとラズミーヒンが好きらしい。「予審判事の立場に甘んじず、自分を斜めに見るあの感じの裏にも、やはりロシア正教がある。みんなが、とてつもなく暑い夏のペテルブルクの路地裏で、息を殺して抜け出したがっている。この非常に重苦しい空気がすっと晴れるのが、シベリア流刑地の最後の場面。そういう印象ですね」と話す。ポルフィーリはラスコーリニコフに「あなたは金貸しのおばあさんを殺しただけだからよかったが、もしも他の哲学を考え出したら、一億倍も醜悪なことをしでかしたかもしれないんですよ」と語りかける。亀山は「当時、死刑判決は皇帝一家の命を狙わなければあり得ませんでした。つまり、2人の女性を殺すより一億倍も醜悪なことといえば、皇帝暗殺しかない」と応える。

  「皇帝暗殺未遂事件」はドストエフスキーはじめ小説家や知識人、それより多くのロシア国民を震撼させたことだろう。ドストエフスキーの後の長篇にもそれは形を変えて現れる。ラスコーリニコフが殺人を犯した1865年7月9日は年間で一番気温が高かったそうだ。

 髙村 は『悪霊』の登場人物たちのなかで自分に一番近いのはスタヴローギンだと話す。「ドストエフスキーの中にいる観察者は、スタヴローギンであり『罪と罰』のスヴィドリガイロフです」。

  歳をとると若い頃のように長篇を読み通すことが億劫になるけれどもドストエフスキーを珠に読み直すことは面白く愚考を誘発する楽しみでもある。

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