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2009年7月29日 (水)

ドストエフスキー体験

 毎日新聞の27日夕刊で髙村 薫(以下、敬称は略させて頂く)と亀山郁夫が新しく翻訳し終えた「罪と罰」の話題で「共苦する喜び」という見出しで対談している。

 アカショウビンは高校1年の夏休みに初めて読み、その後どっぷりドストエフスキーに浸かっていった。小林秀雄や埴谷雄高の評論にも触発されながら、その後、何度か部分的に読み直した。髙村は中学1年のとき、亀山は中学2年というから早熟だ。中学生や高校生がドストエフスキーに夢中になるという文化土壌は世界でも珍しいことではないだろうか。批評家としてドストエフスキーを読み込んだ小林秀雄は、それだけドストエフスキーに化かされている読者も多いだろう、と皮肉っていたけれども。

 髙村によると彼女がかつて読んだ訳には「暗い熱気があふれていた」と話す。新訳は「その感じが薄まり、風通しがよくなりました」と述べている。亀山は登場人物の名前を名字で統一しているらしい。亀山は『罪と罰』は「人間が読む最後の童話なのではないかと思います。我々は幼いときに童話を読み、その主人公と同一化するなかで、善悪や美醜、倫理の観念を本能的に区別してゆく。『罪と罰』は、まさにそれができる小説です」と述べる。

 髙村は登場人物のなかではポルフィーリとラズミーヒンが好きらしい。「予審判事の立場に甘んじず、自分を斜めに見るあの感じの裏にも、やはりロシア正教がある。みんなが、とてつもなく暑い夏のペテルブルクの路地裏で、息を殺して抜け出したがっている。この非常に重苦しい空気がすっと晴れるのが、シベリア流刑地の最後の場面。そういう印象ですね」と話す。ポルフィーリはラスコーリニコフに「あなたは金貸しのおばあさんを殺しただけだからよかったが、もしも他の哲学を考え出したら、一億倍も醜悪なことをしでかしたかもしれないんですよ」と語りかける。亀山は「当時、死刑判決は皇帝一家の命を狙わなければあり得ませんでした。つまり、2人の女性を殺すより一億倍も醜悪なことといえば、皇帝暗殺しかない」と応える。

  「皇帝暗殺未遂事件」はドストエフスキーはじめ小説家や知識人、それより多くのロシア国民を震撼させたことだろう。ドストエフスキーの後の長篇にもそれは形を変えて現れる。ラスコーリニコフが殺人を犯した1865年7月9日は年間で一番気温が高かったそうだ。

 髙村 は『悪霊』の登場人物たちのなかで自分に一番近いのはスタヴローギンだと話す。「ドストエフスキーの中にいる観察者は、スタヴローギンであり『罪と罰』のスヴィドリガイロフです」。

  歳をとると若い頃のように長篇を読み通すことが億劫になるけれどもドストエフスキーを珠に読み直すことは面白く愚考を誘発する楽しみでもある。

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2009年7月26日 (日)

Seynとは?

 先週と本日の夜は再放送でNHKの「日曜美術館」はマーク・ロスコ(本名はMarkus Rotkovich)という画家を特集していて面白く見た。アカショウビンには未知の人だ。ロスコは1903年、ロシア・ラトビアのドヴィンスク生まれ。そのユダヤ人一家は1913年に米国オレゴン州ポートランドへ移住する。1940年頃から抽象画を描くようになり晩年の作品は抽象度が極限にまで達した感がある。それは「絵画」というより「デザイン」というようなものに変化を遂げている。

 今回のゲストは作家の髙村 薫さん(以下、敬称は略させて頂く)。彼女が賛嘆する晩年の「シーグラム壁画」と称される作品群はロンドン、ワシントン、千葉県佐倉市の川村記念美術館にそれぞれ「ロスコ ルーム」として所蔵されているようだ。髙村は、その作品の発するオーラというか磁場というようなものは画集や図録では看取できない、と言う。それを高村は「生命」とも語っていた。優れた芸術作品に共通するものだろう。

  アカショウビンが面白いと思うのは、それはハイデガーがSeynとして思考したものと通底しているのではないか、と感じたからだ。優れた芸術作品のもつ磁場というものが有る(存在する)。それはギリシアの哲学者たちの著作や手稿を通じてハイデガーが展開する独特の思考だ。全体の構想は示されながら尻切れで完成されなかった『有と時』(通常は『存在と時間』と訳されている)を補完するように著作の公刊後にハイデガーは講義や講演、メモで洞察したものを残した。それは実に緻密で一種の神秘性さえ帯びた思索と言える。『哲学への寄与論考 (性起から[性起について])』(2005年 創文社)にも、それが読み取られる。ハイデガーは冒頭で「ここには、長いためらいのうちに 慎み控えられていたものが、ある形成展開の定規として示唆的に書き留められる」と記している。この創文社版の翻訳者たちは仏教の華厳思想の漢訳語を用いてハイデガーの独特の言葉遣いを訳している。「自性」とは他訳では「本来的」であり、「現成」とは「生成」である。

  仏教哲学とハイデガーの思索が底で通じている感のあることは同時代でハイデガーの著作に接した西田幾多郎はじめ京都学派で試みられている。それは創文社の語句に典型的に現れている。seinというドイツ語を用いハイデガーは有ることを忘れた(有に立ち去られた)ギリシア哲学のプラトンのイデア論以降、キリスト教神学や中世のスコラ哲学にも引き継がれ、デカルト、カント以降ニーチェに至る西洋近代哲学・思想に染み込んでいる事態と考察・主張する。それは要約して伝え理解される思索・思考とも思えない。手がかりとなるのはギリシア語のピュシス(φύσις)という「自然」と訳される語と思われる。その語に込められている意味が西洋の古代・中世を経て近代哲学まで貫通する逸脱としてハイデガーは指適する。この語は日本の古語では現在の「しぜん」という読みではなく「じねん」と読まれていることにも注意すべきと思われる。

 それはともかく、ロスコの作品を評する髙村の言葉の端々には、ドストエフスキー作品に影響を受けた様子やハイデガーが思索する独特の言葉選びの風情が共通したものと感じられた。ロスコは晩年、動脈瘤の破裂で病床に伏し家族とも離れ自死(殺)したというのが哀れだ。しかし残した作品が作家や多くの若者たちに霊感を与え続けているようなのは芸術家冥利に尽きるというものだろう。

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2009年7月25日 (土)

この百年

 毎日新聞に掲載されている存命なら今年で百歳になる作家の特集記事が面白い。これまでに登場したのは大岡昇平、中島 敦、太宰 治、シモーヌ・ヴェイユ。先週は花田清輝だった。アカショウビンは「復興期の精神」や吉本隆明氏(以下、敬称は略させて頂く)との論争で記憶している人だが、そのユニークな言説で西洋ルネサンス時代まで照射する才覚は見事に思えた。ルネサンスへの言及は林 達夫の論考と共に面白く読んだ。評者の川本三郎が指摘しているように映画評論も面白く、ゴダールやアンジェイ・ワイダの「灰とダイヤモンド」(1958年)評が花田らしい。黒澤 明の「椿 三十郎」(1962年)で主役の三船敏郎より脇役の奥方、入江たか子や団 令子に注目するのも共感する。

 花田の持ち味は「道化の精神」というものである。吉本の「直球」より花田の「変化球」の柔軟性は今改めて読み直す価値があると思うのである。1909年(明治42年)から百年という歴史的時間は大正・昭和・平成と先の大戦を経て日本国にとって大きな「転形期」(@花田清輝)となった時代である。この時代にレトリックを駆使し真面目をからかう精神は大切である。

 昨日の毎日の夕刊で研究のため西アフリカで9年間を過ごした川田順造へのインタビューも面白い。1960年にフランスから独立したブルキャナファソという国はモシ王国として栄えた。モシの民は文字を持っていない。表現やコミュニケーションが優れているから文字を必要としない、と川田は言う。彼らには「今生きている私は、祖先や、これから生まれてくる者たちも含めた人間の一部だ」という感覚がある、とも。私個人で完結せず、「私たち」で共生する。

  個人の優位を主張する近代人は、この感覚を失ったのではないか。ニーチェの言う「生」の感覚。ハイデガーの説く「有」(存在)から「立ち去られた」ギリシア以降の西洋の運命という告発が、そこに反響している。百年の変化は更に200年、300年と遡り、人類の歴史の中で文字を持たなかった頃まで「起源」として考察し、我々が生存している現在を反照し思考しなければならない。

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2009年7月22日 (水)

若杉氏を悼む

 今朝の朝刊で若杉 弘氏の死が報じられた。74歳。1967年にワーグナーの「パルジファル」を初演し「ラインの黄金」も日本初演で「初演魔」と称されたらしい。ワーグナーの名作「パルジファル」初演が1967年とは少し遅すぎるのではないかと思うが、日本人の西洋音楽の受容とはそんなものかもしれない。ヨーロッパ進出が1977年からだとは思わなかった。小澤征爾さんらと同じく、もっと早くから海外へ招聘されていたと思っていた。ケルン放送交響楽団の首席指揮者に就任したという報には我が事のように悦んだ。海外での活躍を知り、かつて名門ドレスデン・シュターツカペレを指揮したCDも購入し聴いた。日本人がドイツの主要オーケストラで活躍されていることを誇らしく思った。2007年には新国立劇場の芸術監督に就任したばかり。これから日本の音楽界の充実に腰を据えて取り組まれることを期待したが突然の訃報に接し残念だ。遺志を継ぐ後輩が少なくないことを信じたい。

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2009年7月20日 (月)

小林秀雄の講演をCDで聴く

  先のブログでも引用したが、ここのところ図書館から借りてきたCDで小林秀雄の講演記録を繰り返し聴いて飽きない。第4巻は「現代思想について」と題された1961年8月15日に長崎県の雲仙で学生たちに講演した小林59歳のもの。第5巻は1972年10月25日、名古屋中日ホールと1977年11月14日大阪毎日ホールで行われた二つの講演を収めている。テーマは「本居宣長をめぐって」。最初の講演のとき小林は70歳。『本居宣長』を書き継いでいた頃だ。後のものは同書を書き上げ、新潮社が著書の広告を兼ねて依頼した75歳のもの。小林の最後の著作『本居宣長』については多くの賛辞のなかで寺田 透や桶谷秀明氏の批判もある。保田與重郎の殆どオマージュと読める賛辞に逆に小林批判を読み取る寺田の批評は寺田らしくて面白かった。

 小林は寺田の批判を読んでいたのか不明だが「ドストエフスキーを讀む」(1978年・筑摩書房)で当時のソ連でドストエフスキー論を著したバフチン(寺田はバクッチンと表記しているが)のドストエフスキー論を介して新たにドストエフスキーを読み込んだ寺田の小林に対するライバル意識は熾烈なものがある。アカショウビンは若い頃に寺田の『道元の言語宇宙』(1974年・岩波書店)という著作を面白く読み道元は以来現在まで断続的に読み続けている。戦争中に小林が訪れた中国で道元を面白く読んでいるという記述を読み何か得心したことがある。小林の道元論はついに書かれなかったはずだが寺田の道元読解を小林が読んでいたのか興味あるところだ。

 先日ネットで宣長について書かれた西尾幹二氏のHPを面白く読んだ。小林の読者が西尾氏の著作『江戸のダイナミズム』の宣長論についてコメントし、その宣長を論じて小林の『本居宣長』に言及しないのはおかしい、というコメントや小林ファンのコメントを含めて西尾氏は反発する。小林秀雄の見方で世界を見ようとする人は未だに多いが、そういうことはもう止めたほうがいい。私(西尾氏)は宣長については同時代のカントに小林が言及したとは聞いていないけれども、私はそのような視野で宣長や江戸期を考えている。日本という国に閉じこもり、そこからしか日本を見れない狭い料簡(これはアカショウビンの解釈だが)からは脱却(これも同じ)したほうが宜しい、という内容である。以前、西尾氏の小林秀雄論は著作で面白く読んだ。最近の若者たちはともかくアカショウビンの世代や更に前の吉本隆明氏の世代では小林秀雄の読者はもっと多かった筈だ。

 70歳のときの講演のなかで小林は宣長の源氏読解に関して与謝野晶子の他に文壇の主流を形成した作家達の中で漱石も鷗外も源氏にはまったく無関心だが、宣長以外で源氏を手放しで誉めているのは正宗白鳥だけですね、と言う。周知の通り小林と白鳥はトルストイの家出をめぐって論争している。何か噛み合わない、多くの論争に共通する不毛さも感じた論争だったが小林が畏敬した白鳥という作家に対する反発が面白かった。その白鳥が源氏を原文や晶子訳でなくアーサー・ウェイリーの英訳で読み面白さを理解した、という逸話が面白い。白鳥は源氏物語を読み「無限大の人生の起伏を感じた。高原にあって星の煌く広漠たる星空を仰ぐ思いがした、というのですよ」と小林は語る。「小説の社会(世界)というのは広いもんだ。小説というものはバルザックでもドストエフスキーでも、そんなもんじゃない」と白鳥は感嘆したのですよ、とも。ここで小林はバルザックを翻訳した寺田 透を揶揄しているのかどうか不明だが、かつてドストエフスキー論を書き継いだ自らをも省みて白鳥の源氏激賞に驚いているわけだ。

 宣長の若い頃の「もののあはれ」論での源氏への傾倒を通じ、それに触発されて小林が源氏を読みながら『本居宣長』を書き継いでいった過程が、この二つの講演で語られていて面白い。

 小林は「諸君も円地さんの訳などで源氏を読まれたらどうですか」と語りかけ「イマジネーションをはたらかせれば源氏は本当に面白いですよ」と話し宣長の源氏観を披露する。寺田や桶谷氏、西尾氏の批判を読んでも、小林の語りは繰り返し聴いて啓発され挑発されることは確かである。

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2009年7月18日 (土)

音の快楽

 たまたまテレビの電源を入れると画面にランランというピアニストがメンデルスゾーンの第1番のピアノ協奏曲を弾いている。この作品が高名なヴァイオリン協奏曲ほどには演奏される機会はないだろう。ところがソリストと指揮者が絶妙の掛け合いで演奏する音楽の何と楽しいこと!指揮のR・シャイーもN響アワー以来久しぶりに姿を見た。しかし何と生き生きと楽しそうに指揮していることだろう。演奏終了後はランランも快心の演奏と見えてガッツポーズ。会場はスタンディング・オベーションで悦びを伝えていた。何と幸せな空間と音がそこにあったことか。その後は交響曲第3番「スコットランド」だ。そういえば今年はハイドン没後200年でメンデルスゾーン生誕200年なのだ。何ヶ月か前はC・アバドの若い頃のCDで交響曲全集から幾つか聴いたばかり。

  しかし素晴らしい演奏だった。それにしてもライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の何といういう柔らかで馥郁とした響きだろう!アカショウビンが若い頃に聴いた音はもっと渋く燻し銀のような響きだったのではなかったか。特にピアノ協奏曲のピアノとの掛け合いの軽快さの中で響く音の奥深さは昔の響きが微かに幻聴のように聴けたが思い入れのせいかもしれない。木管の表情も豊か。アンコールは交響曲5番の3楽章という選曲もメンデルスゾーンの作品の楽しさと好対照の深い祈りのような音楽に心安らぐ。もう一曲は「真夏の夜の夢」から結婚行進曲。指揮者のサービス精神というものだろう。

 これで終わりかと思ったら何と次は長らく同オーケストラの常任を務めたクルト・マズアの登場である。曲はアンネ・ゾフィー・ムターを迎えてヴァイオリン協奏曲。出だしはソリストも指揮者も少し小難しく構えるところがシャイー、ランランのコンビと好対照だ。それでもアカショウビンが西洋音楽にのめりこんだきっかけの一つとなったこの名曲を久しぶりに聴いてメンデルスゾーンという音楽家の才能と才覚の素晴らしさを痛感する。ハイドンにしろ200年以上も演奏され続ける作品は幸せであり、聴衆の表情からは、それを支える文化風土の音楽への愛情の深さも伝わる。

 さて我々が生きるこの時代に、これからさき200年間聴かれ続ける音楽はあるだろうか?あるかもしれない。しかしクラシック音楽というジャンルの音楽が人間の歴史の中で持つ命もたかが知れている。いつか異なる響きが人間達を魅惑するだろう。しかし、アカショウビンの生きる時間の中でこのような音楽に没頭し何やら悦びと「崇高」な音楽に出会い楽しめることはさいわいである。

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2009年7月16日 (木)

苛酷な夏はヨロヨロ走り

 走るといっても自転車で駅や近くの区民会館の「自習室」へ。ここは何と50円で静かな部屋を借りられるのだ。個室ではないけれども、ありがたい空間だ。関東以外の土地で初めて暮らす夏である。職安(このブログを始めた初心に還りハローワークというカタカナの異国語は極力使わないようにしたい)通いにも疲れ気味。余生を生きるオヤジ(これは国語の今風表記で仕方なく使う)の意固地な性(さがと読む)である。

 先日、高校の同級生と数年ぶりに歓談。近況の窮状を説明し、あれこれと新たな情報も入手。恩師の一人が昨年急死したことを遅まきながら知る。60代でまだ若い。前立腺ガンだったという。カメラ好きで軽快な語り口が印象に残っている現国(現代国語)の教師だった。また二人の同級生がガンの手術をしたらしい。それぞれ十二指腸と膵臓。入院・手術したが退院し職場復帰しているようなのでひとまず安堵。皆さん50歳を越えると身体のあちらこちらに不調は生じる。それがガンと聞くと心穏やかではない。

 求職で履歴書を送れば悉く書類審査で落とされる。大阪の景気と仕事状況は東京よりも確かに酷い。このうえは老骨に鞭打ち肉体労働に従事するしかない。一週間ともたないのは明白だから比較的楽な仕事を探すのだが、これがない!我が詩人の、ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ、の一節が脳裏に明滅し不安が心身を支配する。夜中に悪夢で奇声も発しているようだ。余生は加速度的に短くなっていることだろう。衝動的にマンションから飛び降りるかもしれない。自殺は好みでない、と自覚しても精神はいつか病んでいるものである。そこまでの自制心があるかどうか自信はない。

 先日から円生や枝雀、三枝の古典・創作落語を聴きながら困窮をイナそうと画策。ゲラゲラ、アハアハ、ワッハハと過ごした。それでも無職の身の不安は容赦ない。嗚呼、艱難辛苦は我をボロボロにする。アカショウビンは繊細なのである。

 このブログは上記のような愚痴を垂れ流す主旨で始めたわけではない。今生に思い残すことなく、余生を後悔なきよう我が生と思考の足跡を記述することを目的としている。たまには映画やCDの感想も書き留める。本やCDを購入する余裕がないため転居後はもっぱら図書館を利用する。先日はCDで小林秀雄の講演集を聴いた。弛緩した精神に小林の声は座禅の痛棒のように響く。今回のは昭和36年、小林59歳のときのもの。長崎県の雲仙で学生達を聴き手にしたものだ。

 曰く。魂は実存する。何処に?というのは正しい問いではない。魂は空間的に存在しているわけではない。むしろ空間は魂の存在を遮るはたらきをする。魂は心に実在する。私はそれを信じている。諸君、どう思われる?ベルクソンやフロイトはそれを証明した。それが彼らの思想・哲学のもっとも大事な点だ。しかるに世間には、彼らの抹消の知識のみが横行・流通している。彼らの弟子たちが引き継いだ知識を喋々するベルクソニスムやフロイトニスムの悪弊である。以上はアカショウビンの理解した話の要約である。正確ではない。後に講演を聴き取り文字にする機会があるかもしれない。確約はできないが。

 最近はCDで音楽を聴いていない。精神衛生上まことに宜しくない。本も読み進まない。保田與重郎も読んでいない。ハイデガーものろのろとしか読み進まない。時間はあっても求職活動で忙殺されるのだ。しかし少し冷静に考えると、宮仕えでない時間が持てるありがたさを暫し忘却している。そうだ!ビールや焼酎、ウィスキーで時を紛らわせないで運動し規則正しい生活をすれば本も読めるしCDも聴ける筈だ。先ずは怠惰な生活を改めよ!天の声は正しくそう響いているのではないか?ところが酔って朦朧とした脳裏にその声はまったく届いていない。自らそれを聴き取る感度を上げることから始めよう。明日から始めよう。しかしたぶん、蒸し暑さと熱波でヨロヨロと自転車で走りまわるだけなのだろうな。

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2009年7月11日 (土)

A・タルコフスキーの「鏡」を久しぶりに観直す

 先日、引っ越して以来たまに通っている大阪府立図書館へ借りていたビデオとCDを返却し、コーナーを見ていたら何とアンドレイ・タルコフスキーの「鏡」(1975年、日本公開は1980年)のビデオがあるではないか!ミクシイでタルコフスキー・ファンの若者と応答していて、アカショウビンが若い頃に池袋の文芸座でS・キューブリックの「シャイニング」を観に行った時に二本立てのこちらの方に驚愕したことを想い出す。A・タルコフスキーは「惑星ソラリス」という今ではS・キューブリックの「2001年宇宙の旅」と同様にSF映画の古典となっている作品を観ていらい関心を持ち続けている映像作家なのである。その後はイタリアで撮影された「ノスタルジア」(1983年)にも深く挑発された。巷間、難解な作品が多い監督として敬遠されてもいる人だが虚心に作品と正面すれば映像は殆ど詩的映像とも思える奥深い映像が満ち溢れているのに驚嘆する。

 さすがにロシアの監督らしく「鏡」にはチェーホフやドストエフスキー、プーシキンの作品や手紙が引用される。同作で回想される監督の母親を友人の女性が「あなたは女王気取りでマリーヤのようね」と詰るシーンがある。「それは誰?」と訊ねると彼女は「悪霊」のレビャートキン大尉の妹で兄を口汚く罵る、スタヴローギンの口うるさい妻よ、と答える。これはタルコフスキーが聞いた母親の実際の話なのかどうか詳らかではないけれども、母親の友人がドストエフスキーを持ち出して口喧嘩するのが実にロシア映画であるな、と感心した次第。その母親は監督の父である亭主に愛想をつかされ離婚している。それはタルコフスキー少年のトラウマとなって刻まれたのであろう。この自伝的作品にはタルコフスキー作品のキーワードとも言うべき水音や雨滴の雫の映像がそこここに挟まれている。

 その映像は「物語」を語るのでなく記憶の断片を映像化する詩的映像とでも言えるような映像に溢れている。水音に代表される繊細な音と映像と共に多用されるバッハの受難曲の奥深い音楽が観る者をタルコフスキー・ワールドに引き込む。その中ではプーシキンが友人のチャダエフに宛てた祖国愛に満ちた手紙を監督の少年時代と思しき子役が老婆に命じられ朗読する内容も実に面白かった。その部分は次のように翻訳されている。

 「疑いもなく 教会の分裂は 欧州からロシアを引き離した 欧州を揺るがした出来事に我々は関与していない しかしロシアにはロシアの使命があった その広大な大地は 蒙古の浸入をのみこんだ タタール人は 西の国境を越えようとせず やがて退いた かくしてキリスト教文明は救われたのだ その使命のため ロシアは特異な在り方を強いられ 故に他のキリスト教国とは全く異なるキリスト教世界を形成した ロシアが歴史的に無価値であるという意見 それには断固 異を唱える ロシアの状況をよく見れば 後世の歴史家も目を見張るはず 私個人は皇帝の忠実な民です しかし 現状に満足しているとは言い難い 文学者として苛立ち 人間として屈辱を覚える しかし誓って申し上げる 私は祖国の変革も 他のいかなる歴史も望みはしない 神がロシアに授けた歴史以外・・・チャダエフ宛て プーシキンの手紙 1836年10月19日付」

 これはドストエフスキーはじめロシアの知識層が共有していた祖国ロシアへの、複雑な、と注釈すべき愛国心というものだ。しかし、その後、欧州ではニーチェが「神は死んだ」と託宣しユダヤ・キリスト教文化に染め上げられた西洋の歴史に違和を唱える。それはまた異なる文脈で論じなければならない論点であるけれども。

 この作品には、第二次世界大戦の時の実写フィルムや水爆実験の映像、毛沢東語録を振りかざす紅衛兵の子供たちの映像も挟まれていて作品を構成する時代背景も想起され興味深い。

 この実に詩的映像に満ち溢れた作品を支えている力があるとしたらハイデガー的に言えば有(存在)や現有(現存在、人間)の震えが発する磁場の如きものとでも言えるだろうか。

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2009年7月 7日 (火)

今宵は曇天

 七夕で久しぶりに空を見上げる人も多いだろうが、歴史を振り返れば本日は1937年7月7日、日中15年戦争勃発の端緒となった盧溝橋事件から72年目の日でもある。

 日本陸軍省の発表によれば午後11時40分ころ盧溝橋北側で演習中の日本軍に中国側が突如数十発の射撃を行った。日本側は演習を中止し応戦。8日深夜から早朝にかけて両軍代表は事態の掌握に交渉を重ねる。しかし交渉中に、集結中の日本軍に対し中国軍が迫撃砲等で攻撃を仕掛けた。事態は翌8日に全面衝突となる。激戦はいったん収束したが事件の一報を受けた日本政府と軍上層部は、これを機に中国に「一撃を加えて」事態の解決を図ろうとする拡大派と対ソ軍備を優先させようとする不拡大派のせめぎ合いとなる。結果は参謀本部の実質的な責任者である石原莞爾少将により不拡大方針が打電された。事態は停戦交渉から終息に向けて動き出したかに見えた。しかし近衛内閣は北支派兵を決める。有力紙の論調も「強硬論」が主流となる。これに対し蒋介石は抗戦を明らかにし28日に日中両軍は全面衝突が開始される。以後、両国は15年にわたるドロ沼の戦争状態となる。

 72年後の本日の大阪の空は昼間は晴れていたのだけれども、夜になり厚い雲が空を蔽った。天の川を見ることができず残念。

 天気を気にしながら、先日入手したDVDを見ていると吉本隆明氏(以下、敬称は略させて頂く)が花田清輝との論争の経緯を語っている。その中で1933年に中野正剛が結成した「東方会」に言及する。氏によればファシズムとは資本主義と結びついた民族主義である。当時の日本でそれをイデオロギーとして活動したのは「東方会だけなんです」と語る。一般的に「右翼」と称される勢力には吉本によれば2種類ある。農本主義的ウルトラ・ナショナリズム的勢力と欧州のナチズムとイタリア・ファシズムのように資本主義と結びついたナショナリズム・民族主義である。その後者に該当するのは日本では「東方会」だけと吉本は強調する。花田清輝はその東方会に属していた。そして戦後、共産党に入党し転向する。吉本は花田が戦前・戦中のその事実を隠していることを突き「戦争責任」論を展開した。

 吉本や井上光晴は花田が戦前・戦中に東方会で発刊する雑誌を主宰し書いていた論文を読んでいた。だから花田清輝の変わり身を痛烈に難詰したわけだ。論争の結末は吉本の勝ちとする見物が多いが吉本の激しい罵倒より花田の冷静な対応に軍配をあげる者もいる。

 軍国学生だった吉本は花田と同様に欧米列強の中国分割に異を唱える大東亜共栄権思想に激しく共鳴する。そして敗戦後、その非を求めるとすると一つしかみつけられない、と語る。それは、われわれ日本人は「自分も含めて、いい調子になると、すぐ威張って、それは日本人のクセだ、と思っていました。それは国外でもやったのだろうな、と。相当悪いことをしたのだろうな、と。自分も乱暴なところがあるから、(兵隊たちは戦地の)行く先々で畑を荒らしたり、場合によっては脅かして殺したり、やったんじゃねぇか、と思うんですけど、それが何で悪いのか、ということが僕にはないのですよ」と語る。その率直さが吉本隆明の真骨頂である。そして吉本は石川啄木を引き合いに出し、啄木が肺結核で亡くなる前に杖をついて盛岡中学の先輩だったアイヌ学者の金田一京助を訪ない、今の私の思想は「帝国主義的社会主義だ」と話した事を金田一が著作で明かしていると述べる。帝国主義的社会主義とは矛盾しているけれども「あの人たちは、そのように苦しんだ」と続け「右翼と左翼が区別できないのは、そこなんですよね」と聞き手の笠原芳光に語りかける。その啄木の心情に学生だった吉本隆明は激しく共感した。その言や好し。満州国は欧米の浸入に対抗する日本の抵抗であり主張だ。それを中国側から見れば、それに抗戦する中国の戦いは正義の戦争だと毛 沢東は言う。しかし、「そんなのは嘘っぱちであって、ぼくらは戦争に正義の戦争と侵略戦争なんてものはないんだ。戦争自体が悪なんだ」と語る。

 その語りは止まることなく続くが編集者は、それを遮り笠原氏は吉本隆明に若者へのメッセージを求めてDVDは終わる。その語りの続きは吉本の著作にあたれば詳細は読める。アカショウビンも旧著を読み直し、未読の著作にもあたり「思想界の巨人」の全貌の一端なりとも咀嚼し感想・共感・批判を試みよう。

 本日の毎日新聞を開くと盧溝橋の文字は見当たらず国際世界は戦略核兵器の縮小で合意し米ソ雪解けの様相を批判も含めて伝えている。しかし北朝鮮など火種は世界のあちらこちらに燻っている。過去の歴史を辿れば、核武装によって根本的に武力による国家間の拮抗の仕組みは変化したといっても武力に訴える国家間の軋轢は現在もそれほど変わっているわけでもなく共通した骨組みが形を変えて現象しているようにも見える。

 それはともかく。22日は皆既日食だ。鹿児島の離島や奄美では何やら天文ファンが殺到し日食フィーバーの様子も伝え聞く。アカショウビンが奄美の夏の夜空を対物レンズ6㎝口径の赤道儀で観望したのは中学生の頃だ。木星のガリレオ衛星や月面を望遠鏡で魅入っていた頃が懐かしい。そのころ土星の輪は地球から見えなくなっていた。15年に一度の現象である。今また土星の輪は消えかかっているだろう。先日は書店で久しぶりに中学時代に愛読していた「天文ガイド」を手にとった。誌面は昔と違いカラフル。詳細な皆既日食情報が満載されていた。23日はインターネットに日食の様子が溢れることだろう。当日の空が晴れることを陰ながら天に祈ろう。

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2009年7月 3日 (金)

成熟するピアニスト

 金曜日の昼にNHKでポルトガルのピアニスト、マリア・ジョアン・ピレシュ(昔はピリスという表記だったが)が若いピアニスト達に指導する番組をたまに見ているけれども本日もチャンネルを変えながら見ていると演奏する姿に思わず魅入らされた。あの若き頃の少年のような短髪のピアニストも今や円熟の境地だ。専門的な指導内容はわからなくとも紡ぎだす音に耳を澄ませば奥深い音が癒しとも挑発ともなってこちらの精神を刺激する。若き頃のモーツァルトのピアノ・ソナタ全集は以後もアカショウビンの愛聴盤である。最近の録音盤は未聴だけれども吉田秀和氏の詳細な批評は先日専門誌で通読した。

 若いピアニストへの評言を聞いていてピレシュの志向する音楽がどのようなものなのかの一端も垣間見る思いだ。最近は落語や古い映画ビデオばかり楽しんでいるアカショウビンだが音楽CDにも耳を澄まさなければ心身によくないと反省する。

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「赤とんぼ」を歌う吉本隆明

先日、ネットのご縁で京都精華大学創立40周年記念事業の一環で笠原芳光氏が吉本氏にインタビューしたDVDを入手し興味深く見た。

そのなかで氏が60年安保闘争のころ全学連主流派の学生と共に総評、共産党と立場を異にし品川駅の線路に座り込み強硬な姿勢で臨んだときに期せずして「赤とんぼ」の歌が涌き起こり「ぼくも一緒に歌いだしましたですけど」というエピソードを初めて知った。鶴見俊輔氏や他の「市民主義者」たちと立場は異にしながら何やら如何にも「日本的な」状況に身をおきながら思わず口ずさむ「赤とんぼ」の歌に抗いがたい心情を率直に述べられた氏の熱弁に思わず引き込まれてしまった。

かつてアカショウビンは「吉本隆明25時」という1987年の9月12日から13日に品川の倉庫で行われたイベントを見る為に仕事を終えてイベントの途中から明け方まで友人のN君と会場に駆けつけた。そのときに司会をしていた中上健次がゲストで招待された都はるみさんと氏をデュエットさせようと画策した。これは見ものだ、とアカショウビンは興味津々で眼を凝らしたが氏はそれを頑なに固辞し、さすがの中上も諦めた様子を想い起こす。

このDVDは吉本隆明の戦後の生き様が、ご本人自ら真率に語っておられる貴重な映像である。先日、このブログで紹介した鶴見俊輔氏との遣り取りの一端も語っておられる。今年の正月にNHKで放映された氏の講演映像を、従姉宅のテレビでホロ酔い気分で垣間見ることしかできなかったアカショウビンにとって丹念に氏の訥々として饒舌な語りを見聞きし新鮮な刺激を受けた。戦後64回目の真夏に向けて他の同時代者の書物にも眼を通し、今後のブログに、このDVDから引用することもあるだろう。

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2009年7月 2日 (木)

戦争の記憶③

 1944年7月6日午前10時、サイパンでは南雲司令長官、斉藤師団長、井桁軍参謀長が自決。7日の零時に総攻撃をかける。

 孫引きで恐縮だが、「悲劇のサイパン」(三ヶ野大典著)によると、日本軍は午前3時を期して“バンザイ突撃”を敢行する。事前に察知していた米軍は絶え間なく照明弾を打ち上げ、砲火を浴びせる。しかし、怒号や歓声を上げながら死体を踏み越えて押し寄せる日本軍の勢いを止められず、陣地に突入されて650人の死傷者を出している。米軍は150ミリ曲射砲数門を水平射撃し、海上からは艦砲が集中砲火を浴びせ、海岸と道路には日本軍の死体が折り重なる。“バンザイ突撃”は翌日も続き、7日と8日の二日間で米軍の数えた日本軍の死体は4、311人に達したという。

 1年後の1945年6月に沖縄戦が終結したあと日本は二つの原爆に止めを刺され、敗北を受け入れる。

 ネットを遊弋、散見していると、年々少なくなっているのだろうけれども、今年で65回目を迎える8月15日を前に戦争の記憶を甦えらせている人々が少なからずおられることを知る。それを読ませて頂くとアカショウビンの夏も書物や映像で遅まきながら歴史に推参しよう、という気持ちがムラムラと湧き起こるのを抑え難いのである。

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