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2009年6月 3日 (水)

戦争の記憶

 NHKテレビで沖縄のひめゆり部隊の生き残った女性たちが80歳を超える歳になり語り部達が年々少なくなっている様子を報じていた。沖縄だけでなく先の大戦を経験された方々は少なくなってくる。また人間の記憶は曖昧なもので事実は変形する。現在も進行中の慶良間諸島での集団自決裁判も真相は次第に判明してきているようだが「解釈」や思い込みが横行している。その中で、あの地獄のような沖縄戦の記憶は国の歴史事実の継承でもある。戦後生まれのアカショウビンは映画や書物や新聞・雑誌の論説で考察していくにすぎないけれども。

 先日、ミクシイで橋川文三の西郷隆盛論が話題になっていた。「西郷隆盛紀行」(1981年・朝日新聞社)の中で島尾敏雄と橋川の対談が掲載されているというので図書館で借りて読んだ。それはどうもかつて読んだ記憶がある。橋川文三の一連の西郷論としてでなく、島尾敏雄の発言が知りたくて抜き読みしたと思われる。島尾が20年間棲み続けた奄美の名瀬市を去り鹿児島の指宿に移住する十日くらい前の対談だ。奄美からすれば異郷人の島尾が軍人として、またミホ夫人の故郷として奄美や沖縄の南島文化の独自性と特異性に注目することは、かつて読んだときも新鮮だったが改めて読んで啓発された。それは橋川の西郷観に絡めて応答されたものである。西郷は果たして巷間流布している征韓論者で拡張・侵略主義者だったか?という疑問についての考察による。

 島尾の南島観はヤポネシア・琉球弧という概念になって提出されているのは周知の通りである。それは奄美で暮らした生活体験と資料渉猟からくるもので通常の歴史家や郷土史家のものとは何か決定的に異なる視野と視角をもつものとも言える。橋川が「島尾敏雄と奄美の島」という論考で引用している島尾の感想が興味深い。

 「・・・私は名瀬を手がかりに、ほかの奄美の島々へも足をのばした。奄美の島々だけでなく、沖縄や先島へも目を広げた。おお、琉球弧。私はこのあたりの南島をそう呼び、また東北にも思いをつないでいった。この二つの似ても似つかぬ場所が、日本花列島の両端の支え綱でもあるかのように。なぜか相寄るこの二つの地方は、列島のまん中で長い歴史の流れの中途から栄え驕ってきた倭の、進入をまるで拒むかのように見えてきたのだった。すると似ても似つかぬのはただ距離が離れているだけのこと、底流するものの根深い似通いが見えてきた。長い時の流れをふまえて、我々の列島はヤポネシアとでも言うべき太平洋中の島嶼群にちがいないと思えてきたのも、奄美大島での生活からであった」

 アカショウビンには、このような島尾敏雄の視線が、奄美で人生の最後の画業を終えた田中一村という画家の視線とも交錯して幻視されるのである。

 東北と南島を倭・大和からは疎外された辺境として自覚する考察は新鮮だ。島尾は蝦夷・倭・琉球(奄美と南九州の隼人も含めて)という三つの異文化が合わさって「日本」という国家が形成されていると説く。それは沖縄の激戦の音を聞きながら己の死を覚悟して先の大戦を経験した人の戦中・戦後の作品として読むことができるのは幸である。戦中派の橋川文三、島尾敏雄、吉本隆明氏の作品・論考や保田與重郎、丸山眞男、竹内 好を読みながら夏に向けて歴史を辿ることは年来のアカショウビンの習慣である。母の体験ともあわせて先の戦争の記憶を辿っていきたいと思う。

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