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2009年6月25日 (木)

小沢昭一の語り

 不眠の夜にラジオの深夜放送のスイッチを入れると若いアナウンサーが小沢昭一さん(以下、敬称は略させていただく)にインタビューしている。アカショウビンはブログのご縁で今年のはじめ頃、氏が都内の明治大学で講演に来られるという情報を美術家の若生さんのサイトで知り、悪天候のなかだったけれども会場を訪れた。テーマは阿波・徳島の門付け芸。この芸を継いでおられる二人の女性を招待し実際に芸をお見せ頂くという楽しいものだった。第二部がシンポジウムで小沢氏が参加してお話された。その話芸の一端を初めて生で体験した。 

 小沢昭一の仕事に最初に出会ったのは映画館のスクリーンだった。「エロ事師たちより 人類学入門」(1966年)の今村昌平監督作品では真面目な役者として、その後では喜劇映画の俳優として楽しませて頂いた。その後は日本の放浪芸や話芸の研究に取り組まれておられることはテレビの放送大学の講師として拝見した。

 そういった敬意と理由で会場に駆けつけたわけである。生のご本人を客席の遠くから眺めていると、さすがに若かりし頃の印象と比べてお歳をとられ耳も遠くなっていらっしゃる。ところが興にのると、その語りは実に面白く短い時間だったのが惜しまれた。

 深夜、といっても既に明け方に近い時間だったが、氏の語りのなかで氏が昭和4年のお生まれだったことを初めて知った。また先の大戦では海軍兵学校で長崎へ行っておられ戦地に赴くこともなく、長崎から山口県の防府で敗戦を迎えたことも初めて知った。お生まれは下谷根岸。4歳のときに現在の大田区の蒲田に移られ、そこで生き生きと楽しい少年時代を過ごされたことを話しておられた。近くには松竹映画の撮影所があり俳優さん女優さんも眼にして、俳優座の試験を受けたら合格。早稲田の学生と俳優のかけもちの青年時代をおくり、少年時代にレコードで聞き好きになった落語の興味が再燃し上野の鈴本に通い名人達の落語に接した話はかつて何度もテレビなどで聞いた。学校には週に一度、他の日は俳優業で収入を得て家計を支えたらしい。大学仲間の間での綽名が「週刊誌」というのも可笑しい。その頃は家庭教師を7つも掛け持ちし、夜は駅の近くで煙草のおまけを付けて宝籤を売っていたという話も面白かった。

 戦後の蒲田は氏が帰京されると一面の焼け野原。歌人が「見渡せば花も紅葉も~」と詠んだどころではなく見事に焼け尽くされていた。お父上は空襲では幸いに生き残ったものの空襲の爆風で病気がち。小沢氏が俳優座の試験に合格したことを報告した時に「河原乞食」と蔑称されていた職業に就いたことをガッカリしたのか安心したのか翌日、息を引き取った、と話された。

 夏がきて日本国民も歴史を振り返りしばし感慨に耽る。沖縄では慰霊の行事の様子もネットで散見する。あの苛烈な地獄の戦場の記憶は忘れたくても忘れられるものではないにちがいない。先のブログでも紹介したひめゆり部隊の生き残りの女性たちもご高齢になり戦場の民衆の経験を語る声は地上から消失していく。

 将棋名人戦も終わり新聞で余韻を楽しみながらアカショウビンの夏も時熟していく。どれほどの果実が得られるかわからないが国の歴史と己の現在を書物や映像で反照させながら現在の苦境と困窮を凌いでいきたいと思う。

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受信: 2009年6月25日 (木) 午後 05時33分

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