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2009年6月 7日 (日)

我等は何して老いぬらん

人がこの世で老いと死に向き合う姿は千差万別である。その一つの例を新書で読んだ。詩人の伊藤比呂美さんが「苦界浄土」の作者である石牟礼道子さんにインタビューしたものだ。「死を想う われらも終には仏なり」(平凡社新書 2007年 5月10日)。

 石牟礼さんに伊藤さんが梁塵秘抄の一節「我等は何して老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ、今は西方極楽の、弥陀の誓ひを念ずべし」を介して、人という生き物の「絶望感」を語る。同郷の若い詩人(といっても50代になっているけれども)が酸いも辛いも味わい尽くした仏様のような一人の女性に死を正面に据えて問いかけた問答である。

 以前、職場の年配の方がインタビューのことを「問答」と言ってナルホドと感心したことがある。お二人のお話は親子の世代間の、死という人間にとって避けては通れない運命についての問答になっている。外国人と結婚し米国在住の伊藤さんの問いには米国流のドライさがある。しかし、やはり日本人なのだ。お二人が中世の書物を介して共感しあう様子が微笑ましい。それにしても石牟礼道子さんの「達観」といってもよい境地には感銘するしかない。老母の姿を見ながら日々を過ごすアカショウビンにとって、人という生き物の老いの苛酷と崇高さにも思い至る。

 一読して刺激された箇所をメモしておこう。

 そのころはたいがい、「生きることは、この世に用があって生きている」という感じをもっていた。何か小さな仕事でも、この世に用がある。用を足していたと思います。(p48)

 次の世というのはあると思いますよ。「次の世は良か所に、行かれませ」って、言いますよ。亡くなったあとで、体を清めてあげるときに。(p60)

 五島かなんかの島におばあちゃんたちを訪ねていったとき、お別れのときになって、「お世話になりました。また、いつか来るときもあるかもしれませんけれども・・・・・」って私が言うたら、お相手をしてくださったおばあちゃんたちが、「お名残惜しゅうございます」っておっしゃいました。涙が出た。「この次、、おいでるときは、私たちはおりません。お名残惜しゅうございます」とおっしゃいました。「さようなら」じゃないの。(p95)

 石牟礼 人間というのはね、願う存在だなと思いますね。

 伊藤  「願う」とは「祈る」とは違います?

 石牟礼 似てますね。 

 伊藤  「呪う」も同じでしょう。

 石牟礼 逆に言えば、人間はそれほど救済しがたいというか、救済しがたい所まで行きやすい。願わずにはいられない。(p142)

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