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2009年6月30日 (火)

深夜の妙音

 ここのところ夜中に目覚め、眠られぬままにラジオの深夜放送を聴くことが続いている、先日の小沢昭一氏のあとは鳥越俊太郎氏。昨夜の夜明け頃と今暁の二晩にわたって聴いた。氏が学生時代に合唱部に在籍していたという事は初めて知った。周知の通り氏はガンに罹患しそれを公表しておられる。市井の人々と違いマスコミ人としての職業意識もそこに作用しているのだろう。この世に生をうけ数十年を経て病に罹り闘病を余儀なくされる日常は健常者にはなかなか窺い知られぬ心身状態だと思われる。病の軽重によってもそれは異なる。

 鳥越氏の話はマスコミで露出する報道とは異なり穏やかで真摯なものと好感した。昨年から愛嬢とライブコンサートを精力的に行っておられるようで、親子で歌う「愛の賛歌」も味わい深く聴いた。番組の最後に、お好きな曲としてリクエストしたジャニス・イアンの「Will You Dance?」」を久しぶりに深夜の妙音とでもいう思いで聴いた。リクエストした理由は明かされなかったけれどもアカショウビンは「岸辺のアルバム」というテレビドラマで効果的に使われていたことを想い出す。おそらく鳥越氏も、あのドラマを観ておられるのではないか。それでジャニス・イアンを好きになられたのではなかろうか。岸辺のアルバムとは多摩川の氾濫で一軒家と共に流された家族の思い出の写真集である。最近は写真でなくビデオかもしれないが、かつては多くの家庭で子供の成長と共に折々の家族の姿を写真で記録していたものだ。

 氏はガンと闘うのでなくガンと共存しながら、と言われる。同意である。新聞や雑誌、単行本に至るまでマスコミに露出する多くの「物語」は当事者には無縁の「神話」のようなものである。親子といえど第三者は、そのような物語に依拠したくなる。しかし死は恐らくそのようなものではない。それは苦しみながらも静かに受け入れざるをえない事実なのだ。自らの人生を振り返り、氏は家族との思い出をあの曲で反芻されたかったのかもしれない。氏の語りを聞くと、それは苦しみと共に大きな悦びともなって氏の精神を震わせているように聞こえたからだ。

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2009年6月28日 (日)

或る葬儀

 以下はアカショウビンがネットで時折お邪魔させていただいている将棋連盟会長の米長邦雄氏のHPからの転載記事。アカショウビンには未知の方で読売新聞の購読者ではないけれども米長会長の心情が偲ばれ無断で掲載させて頂く。会長は次のように書き出しておられる。

 「強い衝撃、深い感銘を受けました。奥様のお礼の言葉に参列者一同は声も出ない。私の隣りは日本テレビ社長、その隣りは日経新聞社の杉田会長でしたが声も掛けられない。三人とも何か胸の中から突き上げてくるものをこらえていたからです」。

 米長会長は故人の奥様に特に依頼して快諾されたと断っておられる。「私」とは米長会長である。段落は僭越ながらアカショウビンが修整した。

 水上健也(みずかみけんや)氏の読売新聞社葬は6月24日青山葬儀場で行われ、約1000名が参列しました。いずれも各界の名士ばかりでしたが、私が末席に参列しましたのはお礼を込めてです。竜王戦は今年で22年目です。当時副社長だった水上さんのご尽力で大型棋戦が誕生したのです。この時のご恩を将棋界は決して忘れてはならない。
 弔辞は読売テレビや日本テレビの偉い人が述べた。日本テレビの氏家斉一郎さんの「健ちゃん」に始まる弔辞も胸を打つものでありました。読売は本社社長内山斉様が葬儀委員長の挨拶をし、奥様の富士子様のお礼のご挨拶になりました。故人は83才でしたから、70代後半かと思いますが、とても若々しく見えました。

 お礼の言葉は一言ずつ語りかけるようであり、故人の遺言をそのまま静かに、しかし力強く丁寧に読み上げるかの如くでした。
 会場内はシーンと静まり返った。お礼の言葉は二人が同志なのか、友達なのか恋人なのか、夫婦なのか、いずれとも分からぬほどのものでした。私はそこに菩薩を観た思いがしました。
 余りの感激に、私はこのお言葉の全文公表願いを申し出たのです。シャイな方でしたから故人はお断りするのではと思っておりましたところ、奥様から快諾が出たのです。私自身、本当に自分のようなものが自身のホームページに掲載して良いものかどうか迷いましたが、一人でも多くの人に読んでもらうことが良いことと判断いたしました。
 人生は長い。70代、80代の生き様と見送り方は見事としか言いようがありません。これからの文言を一字ずつお読み下さい。
 故人のご冥福を心からお祈り致します。

 水上富士子さんの御礼の言葉

 雨の中お集まりいただきましてありがとうございました。
 本日は、亡き夫、水上健也の告別式に、おいでいただき、誠に有難うございます。
 皆さまから、このように盛大にお見送りをいただき、夫もさぞ、喜んでいる事と、心より御礼申し上げます。
 半世紀近く、人生を共にしてきました私としまして、一番印象に残っておりますのは、夫が、年末に、手帳を新しく買う度に、冒頭のページにいくつかの文章を書き連ねる事でした。

 まず初めに大きく、六つの言葉が書かれております。 それは、
正確、迅速、平明、良識、穏便、公平でございます。
私としましては、これらの言葉は、水上健也のジャーナリストとしての信条であったと存じております。

 次に書かれております文章が三行ございます。それは
・己が名利を捨て
・隣人と社会に尽くし
・積恩に報わんとす   とございます。
これは、夫が常に申しておりました、彼の人生の信念でございました。

 最後に、「読売新聞の信条」というタイトルで書かれた文章がございます。

1.責任ある自由
2.人間主義
3.国際主義
4.公正な報道
5.責任ある言論 とございます。
新しい手帳に、書き込む習慣は、何十年も変わらぬものでございました。

 夫は、喫煙の後遺症で長らく肺疾患を患っておりました。しかし、一週間の入院で一度も苦しむことな<、最後は私の腕の中で3時間の今際の時を過ごし、旅立っていきました。

 彼は何事にも一生懸命に取り組み、努力し、そして、燃え尽きました。
 きっと、今は、二十歳で死に別れた恋しいお母さんに会っていて「健也頑張ったね!一生懸命生きましたね!えらかった!」と褒められている事と私は信じております。

  これも、ひとえに皆さま方の温かいご配慮とご支援の賜物であった事と心より御礼申し上げます。
 残された私どもとしましては、今後も真面目に、誠実に生きて行きたいと存じますので、今後とも、よろしく、お願い申し上げます。
 
 本日はお集まりいただき、本当にありがとうございました。

 人の死とは、どういうものか?この世に棲む時の貴重に改めて思いを致す。米長会長は、前立腺ガンの治療をHPで公開されながら連盟会長として将棋普及に尽力されておられる。アカショウビンは一人の将棋ファンとして共に現在を生きている。氏は恐らく死を意識し、あるいは覚悟しながら、この世での自らの仕事と使命に最善を尽くしておられるのだろう。その心意気と志に政治的立場はともかく心から敬意を表したい。


 

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2009年6月25日 (木)

小沢昭一の語り

 不眠の夜にラジオの深夜放送のスイッチを入れると若いアナウンサーが小沢昭一さん(以下、敬称は略させていただく)にインタビューしている。アカショウビンはブログのご縁で今年のはじめ頃、氏が都内の明治大学で講演に来られるという情報を美術家の若生さんのサイトで知り、悪天候のなかだったけれども会場を訪れた。テーマは阿波・徳島の門付け芸。この芸を継いでおられる二人の女性を招待し実際に芸をお見せ頂くという楽しいものだった。第二部がシンポジウムで小沢氏が参加してお話された。その話芸の一端を初めて生で体験した。 

 小沢昭一の仕事に最初に出会ったのは映画館のスクリーンだった。「エロ事師たちより 人類学入門」(1966年)の今村昌平監督作品では真面目な役者として、その後では喜劇映画の俳優として楽しませて頂いた。その後は日本の放浪芸や話芸の研究に取り組まれておられることはテレビの放送大学の講師として拝見した。

 そういった敬意と理由で会場に駆けつけたわけである。生のご本人を客席の遠くから眺めていると、さすがに若かりし頃の印象と比べてお歳をとられ耳も遠くなっていらっしゃる。ところが興にのると、その語りは実に面白く短い時間だったのが惜しまれた。

 深夜、といっても既に明け方に近い時間だったが、氏の語りのなかで氏が昭和4年のお生まれだったことを初めて知った。また先の大戦では海軍兵学校で長崎へ行っておられ戦地に赴くこともなく、長崎から山口県の防府で敗戦を迎えたことも初めて知った。お生まれは下谷根岸。4歳のときに現在の大田区の蒲田に移られ、そこで生き生きと楽しい少年時代を過ごされたことを話しておられた。近くには松竹映画の撮影所があり俳優さん女優さんも眼にして、俳優座の試験を受けたら合格。早稲田の学生と俳優のかけもちの青年時代をおくり、少年時代にレコードで聞き好きになった落語の興味が再燃し上野の鈴本に通い名人達の落語に接した話はかつて何度もテレビなどで聞いた。学校には週に一度、他の日は俳優業で収入を得て家計を支えたらしい。大学仲間の間での綽名が「週刊誌」というのも可笑しい。その頃は家庭教師を7つも掛け持ちし、夜は駅の近くで煙草のおまけを付けて宝籤を売っていたという話も面白かった。

 戦後の蒲田は氏が帰京されると一面の焼け野原。歌人が「見渡せば花も紅葉も~」と詠んだどころではなく見事に焼け尽くされていた。お父上は空襲では幸いに生き残ったものの空襲の爆風で病気がち。小沢氏が俳優座の試験に合格したことを報告した時に「河原乞食」と蔑称されていた職業に就いたことをガッカリしたのか安心したのか翌日、息を引き取った、と話された。

 夏がきて日本国民も歴史を振り返りしばし感慨に耽る。沖縄では慰霊の行事の様子もネットで散見する。あの苛烈な地獄の戦場の記憶は忘れたくても忘れられるものではないにちがいない。先のブログでも紹介したひめゆり部隊の生き残りの女性たちもご高齢になり戦場の民衆の経験を語る声は地上から消失していく。

 将棋名人戦も終わり新聞で余韻を楽しみながらアカショウビンの夏も時熟していく。どれほどの果実が得られるかわからないが国の歴史と己の現在を書物や映像で反照させながら現在の苦境と困窮を凌いでいきたいと思う。

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2009年6月21日 (日)

アンチ・ロマンあるいはアンチ・モダン

 ネットをあれこれ眺めていると埴谷雄高コミュというサイトで紹介されていたYou Tubeの映像で埴谷の語りを久しぶりに見た。かつてNHKで放映されたものが殆どだったが、「死霊」の読者としては改めて晩年の氏の熱い語りと「死霊」創作の構想を再見し刺激されて面白かった。あの作品を「小説」と分類していいのかどうか判然としないが巷間喋々される「哲学小説」という評の圏域でアカショウビンは読んだことは告白しよう。ネットでは若い人たちの異なる考えも散見され、それはそれで新たな読み方がされて興味深いけれども。

 「死霊」という小説は既存の小説と異なり実に多弁な登場人物たちが「哲学的」論説を展開する。それはドストエフスキーに震撼させられた埴谷という人が日本語の「小説」で新たな試みとして成功した作品なのかどうか詳らかにしないけれども、若い頃から読み続けて実に興味深々だったことは白状する。

 「死霊」は文庫になり若い読者も増えているようだが、どのように読まれているのか好奇心もある。かくいうアカショウビンも、どれほど深く同作を読み抜いたのか心もとないけれども。学生時代以来の友人は、あれは「小説として面白くない」とニベもないが、それで済まされる作品とも思えない。

 これまでにない新たな思考・思索と思える作品に出会える面白さは読む者を新たな次元に誘う。そこで韜晦し溺れる者も多いだろうが、それを潜り抜けて新たな境地を開くことも可能だろう。アカショウビンは「小説」というジャンルに飽きて埴谷の評論や座談で、対象としている作品や座談相手の著作のほうに興味が移っていったけれども。

 グールドの演奏も、そのようにアカショウビンは理解して楽しむのだ。そういった演奏、思索・思考を拡張すれば、アンチ・ロマン、アンチ・モダンとも形容することが出来るのではないかと妄想する。埴谷が執拗に追求する「虚体」への興味も、その試行錯誤が実に面白いからだ。元来の不精で最近は疎かになっている保田與重郎の読解も埴谷の思索が面白い契機となって再読する切っ掛けになるのではないか、と埴谷の熱い弁舌を見聞きしながら思った。

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2009年6月16日 (火)

憑依あるいは感応道交

 グールドがピアノに向かう姿はあたかも作品が書かれた動機や意図を読み取り演奏に没入しているが如しである。他のピアニストにもよく見かける過剰な感情移入とはグールドの姿は似て非なるもの、とアカショウビンは解する。それはグールドというピアニストの持つ深い知性によるものと思われるからだ。辻井氏の演奏テクニックとピアニストとしての評価は今後の精進次第であるけれども、音楽界だけでなく「社会的」に評価され「歴史」に残る演奏者になるためには、グールドの語りや書いたものから解する「知性」が必要と考える。

 もちろん、そんなものは必要ない、曲芸師のように何でも演奏できる芸があればよいのだ、といった反論も聞こえる。しかしピアニストに限らず一芸に秀でた人に他の人々が共感する本質的なことは、たとえそれが十分には理解できなくとも、その人が持つ、独特のと言うべきだろうが、彼の知性なのではなかろうか。

 若い頃もそうだが晩年のグールドが猫背で鍵盤に異様に近づいてピアノに向かう姿を見ると、それは何かが憑依したようである。それはバッハでもあり、シェーンベルクでもあるだろう。しかし、その姿を見て思うのはグールドはバッハやシェーンベルクと感応道交している、という思いだ。「感応道交」とは仏教用語だが、対象と意思疎通する事と言ってもよいだろう。ピアニストの場合、楽譜を介して作曲者と、そのような関係に至るという事だ。

 入魂の演奏とか書物を眼光紙背に徹し読み抜く、とはそういう経験を指すのだろう。著者の真意にまで達して読む、ということは私たちは日常では稀だ。多くは事の表面だけをなぞるだけだ。厳しい眼で見れば辻井氏の一つのコンクールでの優勝は、次のステップへの入り口にしか過ぎない。今は熱狂している聴衆やマスコミも、しばらくすれば潮が引いたように関心は薄れる。しかし実はここからが本当の意味での茨の道だろう。或る一部の人々が到達する「高み」という境地が有るように思われる。音楽家の場合、高い演奏技術に習熟すれば、そこへ到達する条件を獲得するのではないだろうか。門外漢には、ため息をつくしかないが、別の領域で試みてみよう。

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2009年6月12日 (金)

ピアニスト

 辻井伸行氏のヴァン・クライバーン国際コンクールでの優勝報道のお祭り騒ぎのおかげでネットでは彼の演奏が目白押しで幾つか聴くことができた。1962年に始まった同コンクールでは初の全盲の優勝者。優勝は中国の青年と分け合い、準優勝は韓国女性だ。アジア・パワーが米国を席巻し圧倒した感が悦ばしい。ネットの映像を見ると辻井氏の演奏に米国の聴衆がスタンディング・オヴェイションで応えているのにはこちらの胸まで熱くなった。ネットでベートーヴェンの「熱情」ソナタとショパン、リストを演奏しているのを聴いたが、それは見事な選曲と演奏だ。リストの「ラ・カンパネラ」はCDでは昨年聴いたフジ子・ヘミングの演奏(1973年と1998年の二つの演奏が収録されている) が素晴らしかった。辻井氏の演奏はフジ子さんの深さと老獪さとは異なる若さに溢れるこれも入魂の演奏だった。

 辻井氏の姿を見ていて、衝動的に、購入以来一~二度しか聴いていなかったグレン・グールドのLD(ザ・グレン グールド コレクションⅡ)を引っ張りだして聴いた。晩年の「ゴルトベルク変奏曲」の制作過程の映像も挟まれているものだ。グールドはアカショウビンがFM放送やレコードで聴き始めてからしばらくして1982年に50歳で逝った。早すぎる死だった。この稀有のピアニストの録音を最初に聴いたのはグールドの名を一躍世界に電撃的に広めた1956年モノラル録音の「ゴルトベルク変奏曲」。渋谷の「らんぶる」という名曲喫茶で友人と駄弁りながら演奏者を知らぬまま聴いて驚愕した。それからはレコードでグールドの演奏を聴きまくったものだ。アルバイトで食いつなぎながら人生でもっとも音楽に飢えていた時だった。それにしても再録した「ゴルトベルク~」は最初の録音とは対照的なテンポと深みが素晴らしい。老眼なのか度の強い眼鏡をかけピアノのキーに触れんばかりに顔を近づけて演奏する姿はバッハが憑依したような鬼気迫るものがある。インタビュアーとの対話も生涯を通じてバッハの作品を深く独創的に読み抜き、習熟、精通したピアニストならではの含蓄に満ちている。

 面白いのはベートーヴェンの中期の作品をこき下ろしているコメントだ。名作「熱情」ソナタもグールドにかかれば殆ど駄作の如しである。そこが実にユニークで孤高のピアニストの面目でもある。昨年は中古のレコードで、そのグールドの「熱情」を購入し面白く聴いたのであるけれども。それにしても、あれほどバッハを縦横無尽に演奏したピアニストはもう現れないのではないか。50年間の人生はモーツァルトからすれば長生きだが老いて更なる深みに達した演奏も聴きたかった。

 辻井氏の凱旋公演の過密スケジュールを見ると配慮が足りなさ過ぎると腹立たしくもなる。グールドは時代の寵児になりコンサートに引き回され数年後にコンサートを拒否しスタジオに籠る。そこで完璧を求めてテープを継ぎはぎした録音を次々と世に出す。それは一つの選択でカラヤンと同様にコピー文化を逆用した皮肉も看取するけれども、身心的に健康的とはいえないようにも思えた。もちろん音楽が「健康的」であれば良いというものでもない。しかし、それが寿命を縮めることにもなったのではないか。

 辻井氏には何でも演奏できる器用なピアニストではなく、グールドのように特定の音楽家のスペシャリストになってほしいと思う。まだ20歳、前途は洋々、可能性に満ち溢れているが人生は長いようで短い。単なる暗闇ではないだろうが不可視の世界の中で豊饒な音楽の世界を探検し大きな果実を実らせて頂きたいと心から願う。

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2009年6月 9日 (火)

死の考察

石牟礼道子さんが、鴛鴦夫婦のようだったと感嘆した橋川文三夫妻との思い出を書かれているなかで、竹内 好と橋川夫妻との海水浴のエピソードが微笑ましい。竹内の姿が髣髴する。「橋川先生や藤田省三氏を僚艦とした『竹内 好大艦隊が、どこそこへ出動している壮観』ぶり」、と書かれておられるのが石牟礼さんらしく思われる。(「橋川文三著作集」3の月報)

そこから現在の石牟礼道子(以下、敬称は略させていただく)の現在に関心が反照する。学生時代に「苦界浄土」を読み、九段会館で企画された水俣の映画を観に行ったことを思い出す。あれから現在まで石牟礼の戦いは持続しているのを伊藤比呂美との問答を読んで確認できたことは悦ばしいことだった。

老いと死はヒトという生き物が消滅するまでの大きなテーマである。それは「日本人はなぜ『さようなら』と別れるのか」(竹内整一著 ちくま新書 2009年1月10日)でも展開されている。

同書で引用している吉本隆明の「死後などあるわけないでしょう。これに気づいたことを最初に思想化した宗教者は親鸞だと思います」(「人間と死」)も吉本らしいが、明恵が法然らの浄土教を批判して「われは後世たすからんといふものにはあらず。ただ現世、まずあるべきやうにてあらんといふ者なり」と死後の世界に望みを託す姿勢に反発したのも面白い。吉本の若き頃の次のような自覚も想起される。そこには先般、テレビで拝見し面白く見た鶴見俊輔氏へも言及している。

「井の中の蛙は、井の外に虚像をもつかぎりは、井の中にあるが、井の外に虚像をもたなければ、井の中にあること自体が、井の外とつながっている、という方法を択びたいとおもう。これは誤りであるかもしれぬ、おれは世界の現実を鶴見ほど知らぬのかもしれぬ、という疑念が萌さないではないが、その疑念よりも、井の中の蛙でしかありえない、大衆それ自体の思想と生活の重量のほうが、すこしく重く感ぜられる。生涯のうちに、じぶんの職場と家とをつなぐ生活圏を離れることもできないし、離れようともしないで、どんな支配にたいしても、無関心に無自覚にゆれるように生活し、死ぬというところに、大衆の『ナショナリズム』の核があるとすれば、これこそが、どんな政治人よりも重たく存在しているものとして思想化するに価する。ここに『自立』主義の基盤がある」。

人間は死を先駆的に覚悟する存在というハイデガーの論説に呼応するのが本書第9章の「出会いと別れの形而上学」である。著者は九鬼周造の「偶然性の問題」を引用する。九鬼は古代インドの仏典「那先比丘経」の彌蘭(ミランダ王)の次の問いを引き合いに出し論じる。

「世間の人は、頭があり顔があり目があり、みな五体満足に生まれながら、何故に長命な者と短命な者、あるいは病弱な者と健康な者、貧しい者と富める者、端正な者と醜悪な者、その人となりの信じられる者、疑わしい者、といったように何故に同じではなく生まれてくるのか」。

そして次のように回答する。

「この問は人間の喜びと悩みとを蔵する哲学的な問であるが、畢竟、個物の偶然性に対する問にほかならない」。

 「『個物および個々の事象』の核心的意味は『一の系列と他の系列との邂逅』といふことに存し、邂逅の核心的意味は邂逅しないことも可能であること、すなはち『無いことの可能』といふことに存している」。

「偶然性の核心的意味は『甲は甲である』といふ同一律の必然性を否定する甲と乙との邂逅である。我々は偶然性を定義して『独立なる二元の邂逅』といふことが出来るであろう」。

石牟礼・伊藤の対話と共時的に呼応して、この新書が思索する「さようなら」という別れの日本語から日本人の死生観をも射程に捉える考察も実に興味深いではないか。

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2009年6月 7日 (日)

我等は何して老いぬらん

人がこの世で老いと死に向き合う姿は千差万別である。その一つの例を新書で読んだ。詩人の伊藤比呂美さんが「苦界浄土」の作者である石牟礼道子さんにインタビューしたものだ。「死を想う われらも終には仏なり」(平凡社新書 2007年 5月10日)。

 石牟礼さんに伊藤さんが梁塵秘抄の一節「我等は何して老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ、今は西方極楽の、弥陀の誓ひを念ずべし」を介して、人という生き物の「絶望感」を語る。同郷の若い詩人(といっても50代になっているけれども)が酸いも辛いも味わい尽くした仏様のような一人の女性に死を正面に据えて問いかけた問答である。

 以前、職場の年配の方がインタビューのことを「問答」と言ってナルホドと感心したことがある。お二人のお話は親子の世代間の、死という人間にとって避けては通れない運命についての問答になっている。外国人と結婚し米国在住の伊藤さんの問いには米国流のドライさがある。しかし、やはり日本人なのだ。お二人が中世の書物を介して共感しあう様子が微笑ましい。それにしても石牟礼道子さんの「達観」といってもよい境地には感銘するしかない。老母の姿を見ながら日々を過ごすアカショウビンにとって、人という生き物の老いの苛酷と崇高さにも思い至る。

 一読して刺激された箇所をメモしておこう。

 そのころはたいがい、「生きることは、この世に用があって生きている」という感じをもっていた。何か小さな仕事でも、この世に用がある。用を足していたと思います。(p48)

 次の世というのはあると思いますよ。「次の世は良か所に、行かれませ」って、言いますよ。亡くなったあとで、体を清めてあげるときに。(p60)

 五島かなんかの島におばあちゃんたちを訪ねていったとき、お別れのときになって、「お世話になりました。また、いつか来るときもあるかもしれませんけれども・・・・・」って私が言うたら、お相手をしてくださったおばあちゃんたちが、「お名残惜しゅうございます」っておっしゃいました。涙が出た。「この次、、おいでるときは、私たちはおりません。お名残惜しゅうございます」とおっしゃいました。「さようなら」じゃないの。(p95)

 石牟礼 人間というのはね、願う存在だなと思いますね。

 伊藤  「願う」とは「祈る」とは違います?

 石牟礼 似てますね。 

 伊藤  「呪う」も同じでしょう。

 石牟礼 逆に言えば、人間はそれほど救済しがたいというか、救済しがたい所まで行きやすい。願わずにはいられない。(p142)

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2009年6月 4日 (木)

戦争の記憶②

  引き続き、64年前の沖縄戦を経験された方の声を聞こう。石原昌家『証言・沖縄戦 戦場の光景』(青木書店)の松田定雄さん(大正12年生まれ、沖縄戦当時21歳)のものである。別ブログからの無断転載であるが、6月7、8日頃の状況を松田さんはこう語っている。

 〈「高嶺に大きな井戸があり、そのそばの森の中に野積みのカンパンが、現在も残っているかどうか調査に出向いたときです。
 薄暗くなりかけてきたころでした。私は同僚と二人、真栄里から国吉部落に向かいました。すると、国吉部落方面から真栄里方面へ数百人の住民が列をなして移動してくるところでした。
 住民は、どの顔も無気力な夢遊病者みたいなうつろな表情でした。おそらく、もうすでに肉親を失ったひとたちもいたはずです。
 頭上に突然、米軍の観測機が現れました。軍艦から大砲を撃つときの距離の測定をして軍艦に連絡するのです。このトンボと呼んでいた飛行機を見たらすぐに逃げることでした。
 私たち二人は、軍刀を手にして必死に国吉部落北側の岩山めがけて走り出しました。
 だが、このなべ、かまや食糧を頭に乗せたり肩に担ぎ、子どもを背負ったり、手を引いている避難民は、相変わらずゆっくりと国吉から真栄里へ通じるたんぼ道、あぜ道を歩いているのです。
 私たち二人は、声を限りに『走って逃げろ!』と叫ぶのですが、もう精神的に異常になっていて、何を叫んでも耳に入らない様子で、何の目標もないままにフラフラ歩いているのです。
 あのときは、私たちでも異常な状態でしたが、住民よりは兵隊はまだましだったかもしれません。私たちは、国吉部落を突っ切って、岩山までたどり着き、下の様子を見ていました。
 そしたら、戦闘機が五機編隊で飛んできたと思うや、超低空でこの数百人の避難民の群をめがけてバリッバリッと二、三回も旋回しては撃ちまくりました。
 そして、飛行機が去ったとたんに一斉に艦砲がドーン、ドーンと撃ち込まれたのです。
 丘の上から見おろしていると、夕暮れの中で、手、足、頭などが飛び散っていくのが見えるのです。小学生の帽子が、フーッと空高く舞い上がったりして、もう目があてられない状況でした。
 私たちは、任務を終えて、すっかり夜になって、同じ道を戻ってきたのですが、夜中、照明弾が打ち上げられるので、あたりの状況は昼みたいにくっきりと見えました。
 なにしろ、数百人の死体です。もう山積みみたいになっているし、その死体が無惨でした。弾が当たって身体のあちこちに穴があいているのが多かったが、手、足、頭が転がっていました。もう足の踏み場がないくらいでした。でも死体をそまつにもできないが、あたり一面血の海だったようで、どこを歩いてもぬるっとするのです。
 井戸があったが、もう血で真っ赤に染まっていました。」〉(171~172ページ)

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2009年6月 3日 (水)

戦争の記憶

 NHKテレビで沖縄のひめゆり部隊の生き残った女性たちが80歳を超える歳になり語り部達が年々少なくなっている様子を報じていた。沖縄だけでなく先の大戦を経験された方々は少なくなってくる。また人間の記憶は曖昧なもので事実は変形する。現在も進行中の慶良間諸島での集団自決裁判も真相は次第に判明してきているようだが「解釈」や思い込みが横行している。その中で、あの地獄のような沖縄戦の記憶は国の歴史事実の継承でもある。戦後生まれのアカショウビンは映画や書物や新聞・雑誌の論説で考察していくにすぎないけれども。

 先日、ミクシイで橋川文三の西郷隆盛論が話題になっていた。「西郷隆盛紀行」(1981年・朝日新聞社)の中で島尾敏雄と橋川の対談が掲載されているというので図書館で借りて読んだ。それはどうもかつて読んだ記憶がある。橋川文三の一連の西郷論としてでなく、島尾敏雄の発言が知りたくて抜き読みしたと思われる。島尾が20年間棲み続けた奄美の名瀬市を去り鹿児島の指宿に移住する十日くらい前の対談だ。奄美からすれば異郷人の島尾が軍人として、またミホ夫人の故郷として奄美や沖縄の南島文化の独自性と特異性に注目することは、かつて読んだときも新鮮だったが改めて読んで啓発された。それは橋川の西郷観に絡めて応答されたものである。西郷は果たして巷間流布している征韓論者で拡張・侵略主義者だったか?という疑問についての考察による。

 島尾の南島観はヤポネシア・琉球弧という概念になって提出されているのは周知の通りである。それは奄美で暮らした生活体験と資料渉猟からくるもので通常の歴史家や郷土史家のものとは何か決定的に異なる視野と視角をもつものとも言える。橋川が「島尾敏雄と奄美の島」という論考で引用している島尾の感想が興味深い。

 「・・・私は名瀬を手がかりに、ほかの奄美の島々へも足をのばした。奄美の島々だけでなく、沖縄や先島へも目を広げた。おお、琉球弧。私はこのあたりの南島をそう呼び、また東北にも思いをつないでいった。この二つの似ても似つかぬ場所が、日本花列島の両端の支え綱でもあるかのように。なぜか相寄るこの二つの地方は、列島のまん中で長い歴史の流れの中途から栄え驕ってきた倭の、進入をまるで拒むかのように見えてきたのだった。すると似ても似つかぬのはただ距離が離れているだけのこと、底流するものの根深い似通いが見えてきた。長い時の流れをふまえて、我々の列島はヤポネシアとでも言うべき太平洋中の島嶼群にちがいないと思えてきたのも、奄美大島での生活からであった」

 アカショウビンには、このような島尾敏雄の視線が、奄美で人生の最後の画業を終えた田中一村という画家の視線とも交錯して幻視されるのである。

 東北と南島を倭・大和からは疎外された辺境として自覚する考察は新鮮だ。島尾は蝦夷・倭・琉球(奄美と南九州の隼人も含めて)という三つの異文化が合わさって「日本」という国家が形成されていると説く。それは沖縄の激戦の音を聞きながら己の死を覚悟して先の大戦を経験した人の戦中・戦後の作品として読むことができるのは幸である。戦中派の橋川文三、島尾敏雄、吉本隆明氏の作品・論考や保田與重郎、丸山眞男、竹内 好を読みながら夏に向けて歴史を辿ることは年来のアカショウビンの習慣である。母の体験ともあわせて先の戦争の記憶を辿っていきたいと思う。

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