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2009年5月 3日 (日)

C・イーストウッド監督の新作

 先日、C・イーストウッド監督の「グラン・トリノ」を観てきた。もう一作の「チェンジリング」は既に観ているので、あれこれの作品評を読むと、こちらの評価のほうが高いような印象も持った。たまたま「文学界」という月刊誌での蓮實重彦氏らの鼎談も読んだ。このマニアックな人たちの言説は驚く指摘も多々あるけれども素人の観客とは縁遠いものである。読み流すに如かず。ところが金曜日の午後1時40分の回にギリギリで会場に辿り着いたら満席で入れず。1日は「映画の日」で千円で観られるからなのだ。迂闊だった。仕方なく午後4時の回を観た。

 蓮實氏らの話や幾つかの映画評で大体のストーリーは把握していたが出だしの葬儀のシーンとキャメラの渋さと美しさは「チェンジリング」とも共通している。そこには「古き良き」アメリカの景色と人間達が活写されていると思わせられるのである。聞けばC・イーストウッドが役者として出演するのは「グラン・トリノ」が最後ということである。作品のテーマは「父親たちの星条旗」でも扱われた人種差別と世代間抗争、男の美学、というところだろうか。それはよくわかるけれども細部の描き方に不満は残った。東洋人、黒人、中南米系の異国人たちのなかでもラオスと中国の国境間の山岳地帯に住むというモン族の米国に移り住んだ移民の人々との交流の描き方が画一的に思われた。若者たちへの演出の不徹底さも感じた。しかしながら監督演じる主役の過去を朝鮮戦争におくところは「父親たちの星条旗」、「硫黄島からの手紙」以来のC・イーストウッドの歴史理解を示している。その内実はともかく、作品では東と西の確執を超克しようという監督の意図もあるだろう。それは失敗しているように思えるのだが、超克とはあくまで現実に拒まれても敢えてそれを乗り越えようとする意志である。その意志は讃えられてしかるべきと思う。

 「父親たちの星条旗」、「硫黄島からの手紙」のように、米国側と日本側を徹底して演出すれば何か腑に落ちることもあったのだろうが、モン族の風習に無知なアカショウビンからすれば何か画一的で不満だったのである。演出が抑制が効きすぎて甘くなっているようにも思えた。基調になる演出のストイックさはともかく、細部には、もう一押しの徹底さが欲しかった。

 それはともかく、監督のメッセージは幾つか了解した。若い頃のマカロニ・ウェスタンから「ダーティ・ハリー」の無敵のアウトローも、いつか斃れるのである。その斃れ方に美学がある。それを監督は、この作品で集約し表現した。それには賛否あるだろう。けれどもスクリーンでアップになる監督の身体に老いは隠せない。年来のファンはDVDで昔の映像を繰り返し楽しむに如かずである。というわけでアカショウビンは中学生時代にイカれた「夕陽のガンマン」や「荒野の用心棒」はじめDVDで幾つかの作品を観直して楽しむのである。

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