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2009年5月12日 (火)

死とは?

 前回に続き、昨年の別ブログからの転載。四川省の地震から1年、現地では未だ当時の恐怖から覚めやらぬ人々も多いであろう。昨年、読んでいた本の感想との牽強付会はあるけれども継続して思考してゆく契機にはなる。(以下、転載)

 中国・四川省の地震の惨状を新聞やテレビ映像で読み見ていると、次のような文章が木霊して響き合うのはアカショウビンの性質(タチ)というものである。ともあれ引用して熟考してみよう。 

  何十万人もの人々が大量に死んでゆく。だが、彼らは死ぬとほんとうにいえるのか。なるほど彼らは命を失う。殺されはする。だが、死ぬといえるのか。彼らは、死体製造のために徴用された物資の総量を構成する断片となる。それは、死ぬことなのか。彼らは絶滅収容所で目立たずひっそりと粛正される。あるいはそのようなことがなくとも-中国では何百万もの人々が、いままさに窮乏のために餓死しつつある。

 だが、死ぬとは、死をはらんでその本質まで耐え抜くことである。死ぬことができるとは、このはらんで耐え抜くことを能くする、ということである。われわれがこのことを能くするのは、われわれの本質が死の本質をよしとするときだけである。 

 しかしながら、数えきれないほどの死のただなかでは、死の本質は立てふさがれたままである。死は、空無でもなければ、有るものが別の有るものへ変わってゆくだけの移行でもない。(以下の文は強調されている)死は、元有の本質から出来事として本有化される人間の現有に属する。このように死は元有の本質を守蔵している。死とは、元有それ自身の真理を守蔵する最高峰の山脈である。この山脈は、元有の本質の隠されたありさまを内部に守蔵し、この本質の守蔵を集成する。それゆえ、人間が死を能くするのは、元有それ自身がその本質の真理にもとづいて、人間の本質を元有の本質のうちへゆだねて固有化するときだけであり、またそのときにはじめてである。

 (以下の文も強調)死とは、世界という詩のなかで元有を守蔵する山脈にほかならない。死をその本質において能しとするとは、死ぬことができるということである。死ぬことができる人々こそが、「死すべきものども」というふうに、この語の含みに見合った意味において、はじめてそう呼ばれるのである。無数の恐るべき、死ともいえぬ死の遍在から大量の困窮がこだましてくる-にもかかわらず、死の本質は人間に立てふさがれてしまっている。人間はいまだ死すべきものになっていない。(「ブレーメン講演とフライブルク講演」所収“有るといえるものへの観入(危機))”p72~73)

 上は戦後、ハイデガーがブレーメンで行った講演でナチの絶滅収容所に言及したとしてドイツの内外で注目された二箇所の内のひとつの論説である。読み方によっては感情的な反発を招きかねないだろう。しかし、有、元有という、多くの訳では「存在」と訳されている概念のハイデガーの考察がナマの声として読むことができるのは貴重だ。

 ハイデガー哲学が「不安の哲学」といった教科書の哲学史のひとつとして済ますことができないことを上記の講演の言説で辿ると痛感する。有る、存在する、生きる、死ぬ、ということは人間にとってどういうことなのか?一人のドイツ人の執拗な追求と思索は刺激的である。驚嘆する執念というしかない。その思索の後を辿ることは自らが生きていることと、いずれ死ぬ現象に照らし合わせて啓発的なのである。

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