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2009年3月28日 (土)

I 君へ

先日は久しぶりに会えて楽しかったよ。もう少し、ゆっくり話したかったけれども、お忙しそうで残念だった。10日間の実に羨ましいイタリア旅行の話をゆっくり詳しく聞かせてもらおうと楽しみにしていたからね。

我々のイタリアとの共通の出会いは、中学時代にハマったカンツォーネとマカロニ・ウェスタンだよね。そのころ流行ったグループ・サウンズやメリケン・ポップスとは異世界のイタリア歌謡と、本場西部劇とは異なるイタリア西部劇の面白さにマセタ中学生が初めて出会い痺れた忘れられない経験だった。君のジリオラ・チンクエッティへの入れ込みようには小生も感染させられた。「愛は限りなく」は何度繰り返し聴いたことだろう。おかげで、その後、アカショウビンはイタリア・オペラの世界にまで迷い込んでしまった。夢中になったマカロニ・ウェスタンの我々のヒーローだったC・イーストウッドは、今や俳優から世界の偉大な映画監督に変貌している。あの頃には思いもよらない事だよね。「夕陽のガンマン」や「荒野の用心棒」はDVDでたまに観るけれどもエンニオ・モリコーネの音楽と共に何度見ても厭きないよ。

これから幾度会えるかしれないけれども、中学時代の思い出は今生の記憶の中でも、もっとも幸せで希望に満ち満ちていた時期だったね。これから漕ぎ出していく、世界という未知なものへの尽きない好奇心で生きる力がもっとも躍動していた。それは君や先年逝ってしまったK君の記憶とともに鮮明に甦る。C・イーストウッドを真似たS次郎の苦味走った顔が眼に浮かぶよ。思えば本当に遠くへ来たもんだ。

それはともかく、世界史のI 先生のイタリア・レポートを写真付きで、こちらにも是非送っていただきたいね。楽しみにしているよ。

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2009年3月21日 (土)

フェルメール賛

 その絵と最初に出会ったのは高校生のころの保健室で額に掛かっていた複製だったか或いはカレンダーに印刷されたものか記憶は定かでない。しかし独特な光の処理が印象的だった。後に購入した画集では表紙を飾っていた。その頃はヴェルメールと表記されていた。

 先日、上野の国立西洋美術館で開催されている「ルーヴル美術館展- 17世紀ヨーロッパ絵画-」で、あれから実に約40年ぶりにやっと実物に向かい合うことが出来た。

 「レースを編む女」は24×21cmの小さな作品である。1669年~1670頃のものとされているから画家は37歳から38歳。ルノワールが激賞した作品として1971年平凡社版の画集では、フェルメールの作品中「もっとも多くひと目にふれる作品」とし「クローデルは、ここでその肩も頭も手もすべてが針の先に集中されていることを賞賛している」と説明が付されている。解説は小説家・中村真一郎。その画集はアカショウビンの宝物のようなものだった。そこに掲載されている作品は14品。30数点しか残されていない作品の真贋は未だに侃々諤々の議論がされている。時を経るごとに当時からすれば破格に高く評価されている画家だろう。それは世界を席巻した黄金期のオランダの経済的富貴という時代状況が生み出した作品とも言えるかもしれない。

 中村真一郎は解説のなかでプルーストとドストエフスキーまで援用して画家の価値を称揚している。一昨年、六本木の国立新美術館で視た「牛乳を注ぐ女」は神品ともいえるオーラを発していた。中村は「牛乳壷から鍋に向かって注がれている、濃密で白い牛乳が、私たちの目の前で、永遠に流れているという、深い感動」と記している。それは実物を前にして強く共感したものだ。それからすると「レースを編む女」の印象はそれほど強いものではなかった。しかし来場者が少なくなった夕方の会場で何度も繰り返し視ると実に強烈な磁場を発していることを実感した。

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2009年3月18日 (水)

梁 石日の「闇の子供たち」

映画が面白ければ特に映画化されることを想定せずに書かれた原作を改めて読むという習慣はアカショウビンにはないけれども、昨年の暮れに観た「闇の子供たち」(阪本順治監督)は梁 石日(ヤン・ソギル)氏の原作を読んでみなければならない、という衝動に駆られて読んだ。先のブログに書いたが映画の終わり方には大いに不満と違和感が残ったからだ。原作を読んでわかったのは、やはり映画の後半からラストまでを阪本監督は意図的に変えている。原作者の諒解は得ているだろうが、この意図は原作を読めば果たして必要な読み換えだろうかと疑問を持つ。映画だけ観て原作を読まれていない人に、それを説明してもなかなか理解していただけないだろうが映画も原作も共にタイの苛酷な現実への関心を広く訴えた功績は高く評価するのである。とりあえず原作(幻冬舎文庫 平成20年9月20日 21版)から幾つか抜き書きさせていただき、自らの思考・思索の継続に資するよう備忘録として書き留めておくことにする。先の感想でも記しておいたように、映画も原作もテーマはタイでの幼児売買春と臓器移植である。日本では好事者には幼児ポルノなどとして一端は流通しているものだろう。しかしそれはケータイやインターネットが老若男女に普及し同好者たちの間では映像を交えた詳細な情報が仮想空間を飛び回っているのかもしれない。以下、原作からの抜書きである。

ゴミ処分場に捨てられ、腐ったゴミを食べ、飢えに耐え、人から石を投げつけられ、山を越え谷を越え、死の淵を彷徨しながら故郷へ帰ってきたというのに、両親や村人たちから、なぜこんなひどい仕打ちを受けるのかヤイルーンには理解できなかった。両親は自分を忘れてしまったのだろうか。自分は別の村にきてしまったのだろうか?そんなはずはない。生まれてから八歳までを暮らした村なのだ。庭の大きなタマリンドの木は昔から同じ 姿で立っているし、犬も自分を覚えて吠えずになついてきた。山の形も空の色も大気の匂いも昔と変わっていない。(p126

ヤイルーンを売った金でテレビと冷蔵庫を買い、センラーを売った金で日本製の五〇ccの中古車を買った。テレビや冷蔵庫や単車は村の者から羨望の的だった。そしてワンパオは単車で隣村の女のところへ足しげく通っていた。(p129

あらゆる可能性―人間が人間に加えてきた残虐な行為には想像を絶するものがある。戦争における残虐行為は、その典型的なものだが、日常の中で、エイズにかかった子供をゴミ処分場に投げ捨ててしまうとは考えられないことだった。そうだ、これはある種の戦争状態なのだ、とナパポーンは自分に言い聞かせた。(p133)

政府は養子縁組を推奨しているので書類審査はそれほど面倒ではない。担当者に百バーツも握らせれば書類は無条件でパスするだろう。貧しい国の子供を養子縁組で引き取るのはドイツ政府も認めており、合法的なのである。(p188)

タイは結婚が早すぎるのよ。十六、七歳で結婚して、子供が二人いるのに二十歳で離婚して、父親は他の女とどこかへ行ってしまい、母親は二人の子供を養うために水商売。でも結局、みんなばらばらになってしまう。(p291)

以上、脈絡なく書き抜いたけれども実に苛酷で苛烈なタイの日常が著者の視線・視角で記述・構成されている。その一端はアカショウビンもかつてタイの現地で垣間見た。それを思考・考察を介して自らの現実に如何に反映させるか、それは個々人に問われる痛烈な問いである。

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2009年3月15日 (日)

歌舞伎町・路地・真剣師

 一杯やりながらウトウトしつつ見聴きしていた夜のN響アワーは昨年のコンサート・ベスト10。それはそれなりに楽しいがアルコールが入るとつい眠気にも襲われる。ところが続けてETV特集という番組で森山大道(以下、敬称は省かせていただく)という写真家を特集していて、これが眠気も失せて面白かった。アカショウビンには未知の人だが寺山修司も高く評価した人で友人だったらしい。当時の新宿・歌舞伎町の写真は1970年代のアカショウビンが学生時代のころ以降に徘徊した場所の記憶も甦る。

 森山の作品に残されている1960年代の新宿の風景と男や女の姿には安保、学生運動の喧騒の名残と共に当時の臭気とでもいうものが彷彿とする。その作品や森山の話を見聞きすれば忽ち当時の光景が脳裏に浮かぶ。森山が撮り続けた1960年代の新宿はアカショウビンの70年代の青春とも底で繋がっている。

 1970年代も新宿は戦後のドサクサから高度成長時代の復興期を経て未だに路地に面影を残す奇妙な街だった。それは今でも場末の饐えた汚物の臭いや猥雑と共に歌舞伎町は存在し続けている。それは寺山修司が愛した新宿・歌舞伎町でもあり、学生運動の喧騒と共に団塊の世代から少し後のアカショウビンの世代まで、同時代感覚とでもいうような気分で連鎖しているのではないか、と思わせられる時空間を有する街だ。

 歌舞伎町の記憶は学生の頃に入り浸った将棋道場が起点になっている。そこを中心にジャズ喫茶、ションベン横丁、ゴールデン街、名画座、場末の食堂、飲み屋が記憶の彼方から立ち上がる。地方から上京した若者にとって新宿という街の猥雑さは激しく好奇心を掻き立て強烈な磁場を発していた。そこをうろつきまわることは森山ならずとも不気味で、いかがわしく、若者たちの視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、と精神を刺激し挑発した。

 先日、引退した中原永世名人が全盛の頃に、賭け将棋で生業を立てているアマチュアの小池重明という真剣師がいた。その強さはプロをも負かす強さだった。一時はプロへの編入の動きもあった。しかし素行の悪さがプロの理事会で却下された。それ以降の小池の人生は酒、賭け将棋、女で身を持ち崩し、坂を転がり落ちた。挙句は肝硬変に蝕まれる。人妻との逃避行で、更正しようと焼肉屋でかつかつ生計をたてるも焼け石に水。入院した病院のベッドの治療器具を振り外し自殺するように茨城県の石岡市で平成4年5月1日、44歳の人生を終えた。

 アカショウビンが徘徊した新宿の街と小池重明という真剣師の生き様と死に様が奇妙に交錯する。そこに未知の写真家、森山大道の足跡が交錯していることが面白いのだ。森山のモノクロームの作品が契機となり当時の記憶が風景と共に立ち上がる。犬の目線だという森山のアングルがいい。若いアカショウビンも新宿の時空の中でうろつきまわる犬のようなものだった。犬の視角と人の視角はそこで交錯し異世界が現出する。視線とは何か、視角、視圏とは何か、遂には存在とは何か、と問いは続く。

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2009年3月12日 (木)

中原、引退

 毎日新聞一面に中原 誠十六世名人が引退の報。別面の記者会見の写真で、杖をついて不安定な格好で椅子に腰掛けている姿に改めて病の厳しさを痛感した。昨年8月の対局後に脳出血で緊急入院しリハビリ中との噂は聞いていた。しかし復帰ならずとは寂しいかぎりだ。

 アカショウビンが学生のころは中原の全盛時代で大山康晴(以下、敬称を略させていただく)もまだ元気だった。現在の将棋連盟会長である米長邦雄が好敵手で数々の名勝負を楽しみながらはまり込んだアカショウビンの将棋中毒はいつの間にか止んだとはいえ未だ余韻は残っている。

 中原の十連覇がかかる1982年の名人戦の最終局を今もよく覚えている。相手は加藤一二三九段。アカショウビンは加藤九段のファンなのである。新名人の誕生かもしれないというので千駄ヶ谷の将棋会館へ大盤解説を聞きに行った。解説は谷川浩司。テレビに対局場の盤面が映されていて、谷川は大盤で加藤勝ちを宣言し解説を止め、あとはテレビをご覧いただいたほうがよいでしょう、と言ってくれたのだった。加藤名人誕生にアカショウビンは自分の事のように欣喜雀躍した。加藤一二三の著書で将棋を勉強した甲斐があった、と喜んだ以上に将棋の頂上決戦の死闘に心が震えたのである。それほど中原 誠は強かった。才能では引けをとらない米長邦雄の挑戦を何度も退け、その柔軟で大らかともいえる棋風は大名人の風格を醸しだしていた。それは偉大な力士大鵬の強さと威風とも似ていた。

 先日は全盛時代には闘将とも称された、中原とは一回り近く年上の有吉道夫九段が棋界最高齢でリーグ残留を決めた。子や孫のようなピチピチの若手との一日がかりの対局は想像以上に厳しいと思われる。しかしプロは老いても若者であれ誰にでも負けたくないのである。それが勝負師というものであろう。引退の報は、その朗報を聞いたばかりなだけに残念である。しかし今後は解説や文筆をやっていかれるという。その飾らない柔和な人柄は全盛時代から将棋界だけでなく各界にファンを広げた。今後も将棋の世界の普及に大きな役割を果たすに違いない。棋界の重鎮としてこれからも頑張っていただきたいと心から願う。

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2009年3月 7日 (土)

阿波徳島の門付芸と部落の文化

昨日、このブログにも懇切なコメントを頂いている若生さんのご紹介で、「部落の文化・伝統芸能の夕べ 門付芸、舞の宇宙-祝福と予祝~小沢昭一と門付芸人を迎えて」という都内の明治大学会場で行われた公演と講演(対談)を見聞してきた。徳島県で伝承されている門付芸の実演は初めて見た。放浪芸や大道芸にも詳しい小沢昭一氏が来訪されるというので映画俳優としての氏の大ファンであるアカショウビンは悪天候ではあったが大いに楽しみにして駆けつけた。

 実に面白い実演と講演(対談)であった。第一部の実演では門付芸を受け継がれる中内正子さんと南 公代さんが「えべっさん」「大黒さん」「三番叟」を披露された。1960年以降は、ほぼ姿を消した阿波木偶(地元ではデクではなくデコと読むようだ)「箱廻し」の芸が実に面白かった。地元では4体の人形を収納した10kg以上もある箱を天秤棒で担ぎ女性二人が家々を訪問するのである。年明けの門付は徳島市内から吉野川流域の山間部まで、2カ月で700軒を超えるという。多い日は一日60軒。7年前に伝統芸を先代から受け継いだ中内さんと南さんは、最初の頃は関心のない家庭から追い返されることもあったそうだ。一度は消滅しかけた伝統芸能の復活は昨今での関心の広がりはともかく生易しいことではなかったであろう。NHKテレビでも紹介され反響のあった映像を挟みながら第一部の公演は行われた。それはコーディネーターの川元祥一氏によると被差別部落の歴史と密接に絡んでいる。第二部では小沢昭一氏と川元祥一氏がご両人の研究成果を通じて経緯を語った。

 川元氏は大学で部落学を講じておられるという。「部落学」という新たな学を唱えられる氏の論考もネットで読める。それは日本史の裏面史でもある。新鮮な論説であった。例えばケガレという語がある。映画「おくりびと」の中で主人公の妻が夫の仕事が納棺夫ということを知り、それを「けがらわしい!」と詰るシーンがある。それは昨今の表記では「汚らわしい」であろうが、死体に触れることを忌避する習俗からすれば「穢らわしい」という漢字をあてることもできるだろう。それは「納棺夫日記」の著者、青木新門氏が傾倒された親鸞の時代の言葉で言えば「欣求浄土厭離穢土」の穢であろうし、穢多・非人の穢であろう。ところが川元氏の説明によると「ケガレ」の正しい漢字は「気枯れ」であるらしい。気が枯れる状態という指摘は新鮮だ。気とは生気とも読める。穢れとはそういう状態ということになる。

 部落民の生業は獣を殺し、その皮革を商品化し購うなど一般大衆が忌み嫌う仕事である。牛や豚の屠殺の仕事なくして一般民衆の食生活は成り立たない。しかし、そういった仕事を国家や国民は被差別者にあてがい表の歴史から隠蔽してきた。それは貴族(宮廷)文化や政治史など文字で記述された日本史からは隠れた歴史であるというのが川元氏の主張である。しかし、それは社会の中で蔑視されながらも機能していたというのは事実であろう。川元氏は20年前に新潟県村上の部落で江戸時代初期から伝わる大黒舞を取材した。8年前に久しぶりに再訪すると舞を踊れる人々が激減したという。83歳になる女性に演じてもらう約束を取り付けた。ところが前日になって「踊れない」と言われた。理由は「それを踊ったら村に置かないって言われた」と言う。それは現在でも苛酷な差別があるという証である。被差別者の疎外感と憤り、怒りが充満していることを川元氏や小沢氏は研究の過程で体験されている。

  対談で小沢さんのお耳が遠くなっているのがわかるのだが、それを笑いにかえるのは芸人根性というものである。お二人のお話はもっと聴きたかったが短い時間では、ほんのサワリ程度だったのが残念だった。しかし、そういう放浪芸や大道芸を生業とした芸人の多くが被差別者として国家や国民から蔑視されながら生き永らえてきた事実を知ることは実に鮮やかな歴史の裏面というか隠蔽された民衆史というものと出会う経験であった。そこからは人間という生き物の孤独と孤絶という在り方にも思い当たる。ハイデガーの独特な概念である「現存在(現有)」として論じられる人間という生き物は有という世界の中で孤独を堪える生き物なのだ、という洞察とも通底しているようにも思われる。差別され生き死んでいった人々や先の大戦で国家のためと死んでいった人々、病で死を宣告された人々、国家から死刑を宣告され死を覚悟している人々、親から見捨てられたストリート・チルドレン、それらの人々の孤独・孤絶は他人事ではない。アレコレと考えさせられた企画だった。

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2009年3月 3日 (火)

「おくりびと」異聞

 青木新門氏の「納棺夫日記」が桂書房から出版されたのは1993年3月。その3年後の7月に「納棺夫日記 増補改訂版」として文春文庫から再発された。その著者紹介の文によると氏は大学中退後に故郷の富山県で飲食店を経営したが倒産。「おくりびと」の中の主人公と同じく新聞広告で冠婚葬祭会社に職を得たとある。吉村 昭の序文によると氏は詩人として吉村氏の前に現れたという。

 先日、すでに単行本で著書を読んでいる友人のM君と電話で話をすると今回のマスコミあげての絶賛の大騒ぎと映画作品の内容に対し青木氏の周辺の人たちが激怒しているという。映画作品のあまりにも原作と異なることに対してであるらしい。それは両者を比べてみれば確かに実感する。著作に記されている文章は簡潔で無駄がない。映画にも採用されているエピソードの他に三島由紀夫が「憂国」の自作解説で述べている死生観に対する青木氏の反発や宮沢賢治の「永訣の朝」「眼にて云ふ」、高見 順の「電車の窓の外は」など氏の思索に重要な契機となったコメントや詩に関する一言も映画にはない。表現手法の違いということもあるだろうが、それらが削ぎ落とされているということは、それらの詩に鋭く反応する作者の心の震えこそが原作の命と思える読者には不満が残るのは当然とも思われる。

 原作でもっとも興味深いのは全3章の第3章「ひかりといのち」である。親鸞の深読で展開される死と生という重いテーマを氏は詩人の視線で凝視する。これを映像で表現することにはスタッフは苦心したと推察される。書かれたものと映画の表現手法は異なるからである。氏の思索は映画の映像から観る人々が個々に看取するものとも言える。原作には死と生に対する氏の思索が通奏低音となって響いている。それが十全に映像化されているかどうか不満に思う人がいることをアカショウビンは理解する。しかし納棺師の実際の仕事の手順などがどういうものなのかは原作を読むだけでは想像するに止まるが映像では一目瞭然である。また映画では死と生という重いテーマを笑いも交えて俳句のように「軽み」と評してもよいように描いた。この功績は監督、脚本家、出演者はじめスタッフの苦労の賜物と思う。それが異国でも高く評価されたことを心から讃えたいのである。

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