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2009年2月28日 (土)

「おくりびと」(続)

 評判はともかく作品と向き合おうと先日有楽町の劇場で観て来た。混雑を予想して午前10時45分からの初回を狙い1時間以上も前に劇場に着いたのだが何と既に行列が出来ていた。そのため席は向かって右側後方のスクリーンとはやや斜めの位置からの鑑賞。池袋の新文芸座では、ここのところ劇場中央最後部席の気に入りの場所に座れているのだが。しかし映画館の空間というものは、無職の不安と気楽の心身状態で、噺家のいう緊張と緩和のようなもの。アカショウビンには唯一で一時の安住の場である。高齢者の観客が多いのは、内容からしても、平日のしかも午前中の初回ということでは然もありなん。普段は映画を観に劇場に足を運ばれることも少ないであろう。さすがにアカデミー賞受賞効果というものである。
 以前に読んだ原作も少し読み直していたのだが、映画は殆ど換骨奪胎してある。原作で重要な引用と思われる宮沢賢治の二編の詩と高見 順の詩は台詞の中にも出てこない。青木氏が「納棺夫」という仕事を務めるなかで心境を深める契機となった親鸞も。舞台も富山から山形に移し変えられている。しかし、それはそれで実に新鮮な読み替えと思えた。原作に感銘し映画化するために10年以上にわたり奔走されたと聞く主演の本木雅弘氏が滝田監督を選んだのも監督が原作者の青木新門氏と同郷の富山県出身ということもあるのだろう。 
 物語は、オーケストラのチェロ奏者である主人公が突然のオーケストラの解散で職を失い妻と共に故郷の山形へ帰るというところから始まる。演奏風景はベートーヴェンの第九から抜粋。故郷に帰り職を求め新聞広告で訪れた会社は旅行会社かと思えば実は葬儀屋の下請け会社。社長と女事務員だけの会社で面接もそこそこに即採用。納棺師という、まったく未知の世界を主人公は生業とする。仕事の内容は死者の身体を清め、顔には死化粧を施すこと。死体は独居老人の孤独死であり自殺であり、病死とさまざま。見習いで社長について行った最初の仕事は死後数週間で腐敗した独居老人の死体。その酷さに主人公は嘔吐する。それから様々な死体と主人公は相対しながら仕事にやりがいを見い出していく。
 こう書くと何か陰惨な内容のようだが、笑いも忘れない。苦笑い、泣き笑いで飽きさせず、物語は淀みなく静かに展開していく。物語の伏線となっているのが主人公の父親。主人公が子供の頃に、経営していた喫茶店の若い女店員と駆け落ちし母と幼い主人公を捨てている。母親は亭主に捨てられても残された喫茶店を一人で引継ぎ主人公を育て上げた。その母親も主人公が海外にいた時に亡くなっている。物語は、まだ何処かで生きているかもしれない父親の消息を含みとして展開する。その間は主人公の友人で別居しながら銭湯を経営する彼の母親の姿と死も描く。脇役たちの芸達者ぶりが作品を支えている。殆ど顔も覚えていない父親との突然の再会が物語を結末に導く。

 死の悲哀と親子の絆、人それぞれの人生の多様さと死を描いて秀逸な仕上がりだ。

 作品の内容とは別に気づいたことを幾つか。

 本作も昨年観た「明日への遺言」(小泉堯史監督)と同じく宗教色を取り除いている。「明日~」への場合、日蓮の熱烈な信奉者であった主人公の岡田 資中将の弁明のなかに展開される「思想」が日蓮の仏教思想であるものの教団色を出さない配慮からか「仏教」として薄められ脱色されていた。「おくりびと」の場合も、青木氏の著作では親鸞の「教行信証」など親鸞の思想への、のめり込みかたが重要な位置を占めているのだが、これもない。前者の場合、日蓮宗など教団の資金供与があったようだから作品のなかで小泉監督が苦心されていることは理解した。映画は金のかかるものでありスポンサーは重要で制作者は気を遣うのである。

 本作で滝田監督と脚本の小山薫堂氏も青木氏の著作を読み検討はした筈だ。しかし「宗教色」は前者以上に今回は薄められている。それが洋の東西を問わず広く受け入れられた要因とも思われる。敢えて言えば宗派を超えて「死」と相対する人間の姿を描いた。これは或る意味で重要なことである。特に最近の各国の映画作品のように内外を問わず多くの観客を想定して作品を撮るときに。余談だが道元を映画化した作品も公開されている。しかしネット上の道元コミュを見ると殆ど宗門や信者の礼賛コメントがちりばめられている。アカショウビンは道元の読者だが、このような作品は観る気力に萎える。それより道元の一行なりとも読むほうが遥かに己には大事なことと確信する。その意味で言えば「おくりびと」という作品も原作の青木氏の著作や、それを介して親鸞の著作の一行、一句に接するほうが健康的だとは思う。しかし本作は宗教色をきれいさっぱり脱色し逆に健康的な作品とも言える。健康的って何?という疑問の声も聞こえるが、それはまた別な機会に。

 この作品が米国アカデミー賞という、映画産業では世界一という国で評価されたのはなぜか?同賞は興行効果も大きく考慮されるのだろう。しかしもっとも重要なのは物語の所々に組み込まれる「笑い」だと解する。物語は臨終という湿っぽい場を乾いた感覚で日常感というものを作品の隅々にまで行き渡らせている。笑いのほうは観てのお楽しみだが、臨終、死、死者、死体、といった重いテーマをコミカルに描くことは実は難しく芸の力がいることなのである。作り手は飄々として観客が嗚咽、号泣する芸は達人の域だ。名人の落語とはそういうものだろう。滝田監督によると今回の受賞については二転三転し「大逆転」という報道もされている。優れた芸は異文化であれ見巧者には伝わるものとも思える。

 滝田作品は「壬生義士伝」いらい。映画の都で世界的に評価された幸を心から言祝ぎたい。原作の「納棺夫日記 増補改訂版」(文春文庫)も増刷されるらしい。原作を読んで賢治の詩や親鸞の思考に共振、反発、挑発される人がいるであろう。原作が外国語に翻訳され賢治の詩の言葉の響きや親鸞の思考が異国の人々に伝わるのは実に至難の技であろうが。しかし日本人ならさいわいに作者の精神と響き合うように読める。それらに挑発されたでもあろう本木氏や監督、脚本家、出演者たちの精神の震えのようなものは作品に込められていると感じた。それだけでも世界に共感されるだろうと想像することは嬉しくもあり楽しい。

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