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2009年2月25日 (水)

映画「おくりびと」

 「おくりびと」(滝田洋二郎監督)が米国アカデミー賞の最優秀外国語映画賞を受賞した。分野は異なっても先のエルサレム賞を受賞された村上春樹氏に続く快挙として心から喜びたい。村上春樹氏のイスラエル行きには賛否、侃々諤々の議論が噴出した。イスラエルのガザ攻撃が世界中から批判されたなかでのことで氏にも葛藤があったはずだ。「おくりびと」や短編アニメの受賞には殆どそういうこともない。81年という伝統は映画産業で世界を席巻してきた国への敬意もあるのだろう。しかし世界には、ガザに関しては後ろで、イラク、アフガニスタンの時は自ら手前勝手な理由を捏造し暴虐の限りを尽くした暴力国家からの授賞を拒絶する気骨ある映画作家もいるのかもしれない。

 アカショウビンはこの作品を未だ観ていない。しかし内容を漏れ聞くところによると「おくりびと」という聞き慣れない言葉は僧侶のような職責のない人が死者の死体に立ち会うことで、死をテーマにした作品のようである。数年前に読んだ「納棺夫日記 」(青木新門)という著作が原作になっていると聞いた。青木氏は冠婚葬祭社の社員として働きながら詩や小説、エッセイも書いておられる方のようだ。納棺夫というあまり聞き慣れない語は氏が故郷の富山の冠婚葬祭社に務めて初めて立ち会った葬儀で死者の縁者が話した時に初めて耳にされたようである。氏は辞書を調べたが「納棺夫」という言葉は見つけられなかったと書いておられる。ネットで映画の解説を読むと、「納棺師」という職業、とある。今では広く流通しているのかもしれない。脚本の小山薫堂氏も青木氏の著作を熟読されただろう。タイトルの「おくりびと」は「納棺師」としてもよかったのだろうが、死にまつわる「暗い」イメージを避けたもののようにも邪推される。

 この著書のなかで青木氏は「永訣の朝」など宮沢賢治の詩を幾つか引用しておられる。賢治は宗教上の理由から肉食を拒否し菜食を通したため壊血病と結核に罹患する。四〇度の高熱の病の床で書いた詩を引用する。青木氏の引用されている版の表記とは一部異なるが手持ちの「ザ・賢治」(第三書館 1985年)には「眼にて云ふ」と題されて“肺炎詩篇”と分類されている詩(p614)である。こちらから写させていただく。

 だめでせう

 とまりませんな

 がぶがぶ湧いてゐるですからな

 ゆうべからねむらず血も出つづけるもんですから

 そこらは青くしんしんとして

 どうも間もなく死にさうです

 けれどもなんといい風でせう

 もう清明が近いので

 あんなに青ぞらからもりあがつて湧くやうに

 きれいな風が来るですな

 もみぢの芽と毛のやうな花に

 秋草のやうな波をたて

 焼痕のある草のむしろも青いです

 あなたは医学会のお帰りか何かは判りませんが

 黒いフロツクコートを召して

 こんなに本気にいろいろ手あてもしていただければ

 これで死んでもまづは文句もありません

 血がでてゐるにかかはらず

 こんなにのんきで苦しくないのは

 魂魄なかばからだをはなれたのですかな

 ただどうも血のために

 それを云へないがひどいです

 あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが

 わたくしから見えるのは

 やつぱりきれいな青ぞらと

 すきとほつた風ばかりです

 青木氏はそれを賢治の臨死体験の作品といえる、として次のように述べる。

 ここにみる賢治の視点は、病床にある肉体に視点はなく、肉体から離れた宙にあって、医者や自分の出血がみえるくらいのところにある。そして、苦しみもない、きれいな青空が見えるところでもある。

 私は、この詩に出会って、死とは何か、往生とはどういうことなのか、と長年思い続けてきた問に、確かなヒントを貰ったような気がした。(文春文庫p79~p80)。

 賢治の詩のように、この著作にも死者を見続けてきた人の深い視線がある。

 今回の授賞理由は、恐らく、監督はじめスタッフを介して日本人の死に対する視線の深さが異国の観客にも伝わったことによるものと察する。

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