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2009年2月20日 (金)

システムと人間

  アカショウビンは村上春樹氏の熱心な読者ではない。しかし今回のイスラエル行きのネットでの侃々諤々は興味深く見た。日本の作家としては大江健三郎氏や吉本ばななさん以上のファンを得ているのではあるまいか。日本の小説家が世界でこのように広く読まれたことがかつてあっただろうか。ミシマもカワバタも、ここまでインテリから若者までの読者を得た事はないように思う。

 ネットや周辺の人々からも氏は授賞を歓迎する声とガザ攻撃の残虐に非を唱え授賞を拒否せよの声に翻弄されたに違いない。実に微妙なタイミングでの授賞はイスラエルの日本に対する幾らかのメッセージ性も含まれているだろう。しかし世界の読者は氏の作品が持つ「普遍性」といってもよい面白さに熱く共感しているのかもしれない。

 普遍性とは何か。人間の感情だろうか、或いは近代西洋哲学で展開された理性や悟性か?それとも仏教で有情として表出されるものか。それはまたハイデガーが有(存在)として新たな思考を展開したもの、あるいは、はたらき(作用)とも関連するのだろうか?

 氏はスピーチで壁と卵という比喩を用いた。それは壁を暴力装置とし、卵で、たとえば9・11の「特攻機」を想起したのかもしれない。その比喩は米国人の読者も挑発しただろう。

 氏は言う。「そのメタファーは爆撃機・戦車・ロケット弾・白リン弾、それらが、この高い壁です。卵とは、それによって押し潰され、焼かれ、撃ち殺される非戦闘員の市民たちのことです。しかし、それだけではありません。これには、もっと深い意味があります。こんなふうに考えてください。私たちは誰もが、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちの一人一人は脆い殻に包まれた、一つ一つがユニークで置き換えることのできない命です。私はそうです。皆さんもそうです。私たちは誰も、程度の差こそあれ高く堅い壁の前に立っています。その壁には名前があります。システムです。システムは私たちを保護することになっています。けれども、しばしばシステムは、それ自体の命を持ち、私たちを殺し、また私たちが他者を殺すように仕向け始めます。冷血に、効率的に、組織的に。私が小説を書く目的はただ一つです。それは、一つ一つの命をすくいあげ、それに光をあてることです。物語の目的は警鐘を鳴らすことです。システムにサーチライトを向けることです。システムが私たちの命を蜘蛛の巣に絡めとり、それを枯渇させるのを防ぐために。小説家の仕事とは、ひとりひとりの命のかけがえのなさを物語を書くことを通じて明らかにしようとすることだと私は確信しています。生と死の物語、愛の物語、人々を涙ぐませ、ときには恐怖で震え上がらせ、また爆笑させるような物語を書くことによって。そのために私たちは毎日完全な真剣さをもって作り話をでっち上げているのです。私の父は昨年、90歳で死にました。父は引退した教師で、パートタイムの僧侶でした。京都の大学院生だったときに父は徴兵されて、中国の戦場に送られました。戦後生まれの子どもである私は、父が朝食前に家の小さな仏壇の前で、朝食の前に、長く、深い思いを込めて読経する姿をよく見ました。ある時、私は父になぜ祈るのかを尋ねました。戦場で死んだ人々のために祈っているのだと父は私に教えました。父は、すべての死者のために、敵であろうと味方であろうと変わりなく祈っていました。父が仏壇に向かい座して祈っている姿を見ているときに、私は父のまわりに死の影が漂っているのを感じたように思います。父は死に、父は自分とともにその記憶を、私が決して知ることのできない記憶を持ち去りました。しかし、父のまわりにわだかまっていた死の存在は私の記憶にとどまっています。これは私が父について話すことのできるわずかな、そしてもっとも重要なことの一つです。きょう、皆さんにお伝えしたいことはたった一つしかありません。それは私たちは国籍も人種も宗教も超えた個としての人間だということです。そして、私たちはみなシステムと呼ばれる堅牢な壁の前に立っている脆い卵です。どう見ても、勝ち目はありません。壁はあまりに高く、強固で、冷たい。もし、私たちにわずかなりとも勝利の希望があるとしたら、それは自分自身と他者たちの命の完全な代替不能性を信じること、命と命を繋げるときに感じる暖かさを信じることのうちにしか見出せないでしょう。すこしだけ、それについて考えてみてください。私たちはひとりひとり手に触れることのできる、生きた命を持っています。システムにはそういうものはありません。だから、私たちはシステムが私たちを利用することを、システムがそれ自身の命を持つことを防がなければなりません。システムが私たちを作り出したのではなく、私たちがシステムを作り出したのだからです。これが私が言いたいことのすべてです」。

 アカショウビンは、このシステムという術語と概念にこだわる。ハイデガーは  「有と時(存在と時間)」でseinと表したものでなく 、その後にdas Seynとして「別な元初」を考察する。それはプラトン、アリストテレスのギリシア以降に連綿として続く「存在の忘却」という告発から発するハイデガーの未だに究明されたとは思われない考察である。ハイデガーはSeynにsystemを含ませているのではないだろうか?村上氏が言うシステムは仏教的に解すれば「業(カルマ)」のようなものをパートの僧侶であられたという氏の父親の姿を通して村上春樹は思索しているのではあるまいか。そこで西洋と東洋は或る種の「出会い」のようなものの可能性が模索できるだろうか?それはハイデガーが独創的な思索で展開した「人間」というものの運命というものではないだろうか。ハイデガーがナチスに加担した事実は、その後のハイデガー自身のなかで葛藤があったであろう。しかし一人の哲学教師から思索者としてハイデガーは一生を終えた。その思索をハイデガーは生前に我々が理解している「存在を忘却した」西洋の歴史とは別に新たに思索する人々に託した。それは大江健三郎氏が言う「新しき人」かもしれない。そこでアカショウビンは西洋の思索者と日本の二人の作家の思考と作品が木霊のように響き合う可能性を探りたい衝動に駆られる。

 氏が言う、「言葉にすることのできないもの」は、人の魂魄というものかもしれない。あるいは有とか存在とか称されるもの、か。ハイデガーは、有(存在)は言葉という家に住む、と説く。言葉は翻訳されて異国の人々にも共感される。しかし魂魄や有(存在)は語として記述できても、それは記号にすぎない。

 イスラエルの神とイスラムの神、インドの神々、我が邦の八百万の神々は理解しあえるだろうか?その可能性は現実の世界を見渡せば暗澹たる思いに落ち込むのであるが。フランスの或る作家は言う。

 「神を見た者は死ぬ。言葉の中で言葉に生命を与えたものは息絶える。言葉とはこの死の生命なのだ。それは<死をもたらし、死のうちで保たれる生命>なのだ。驚嘆すべき力。何かがそこにあった。そして、今はもうない。何かが消え去った」

 戦後にハイデガーが指摘した「神の傍過」、「神性を失った世界」、「神々の出奔」という事態は、作家の断定と歎きと呼応してはいまいか?そこから西洋の歴史に新たな光と問いが発されているように思う。それはイスラエルの人々にもパレスチナの人々にも、もちろん我々日本人にも米国の人々にも南米やアフリカの人々にも東南アジアやインドの現に生きていて歴史を背負った人間という生き物すべてに呼びかけられる声のようにも聴こえるのだが。

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