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2009年2月 3日 (火)

辺見 庸氏の現在

先日の日曜日にNHKテレビで「しのびよる破局のなかで」という辺見 庸氏を取材した番組を見た。以下、それに挑発された箇所を任意に抜粋し感想を書いておく。ビデオに録っておかなかったのでメモによる感想であることをお断りする。

昨年、大阪で行った講演から氏の最近の言説・考察・思索が展開する。今、喋々される危機とか破局とは何か?マスコミの論説は整理されていない。秋葉原事件についてアカショウビンにはナニソレ?だったが犯人が携帯電話で残した「リア充」という言葉を氏は瞬時に理解したという。それは、リアルな充実の略ということらしい。犯人は「リア充」な人々に対する疎外感を感じていた。それが憎しみにもなり残虐な犯行となった。それは現代に生きる若者や中高年も含めて人間の「孤独」という現象として考え抜かねばならない領域の問題であるだろう。そこに思いをいたす人は、そう多くはないとしても人間という生き物の全容を問ううえで、それは不可欠の考察とアカショウビンは了解している。マスコミ上での論説は、その表層を撫でるものが殆どと言ってよろしかろう。何もアカショウビンは、それらと違うと言っているのではない。辺見氏の言説を介し、その領域へ踏み込み、光を射し込まなければ青年の行為の本質を理解することはできないだろうと思うのだ。それは、そんな理解が何の意味を持つのだ?という問いとは別の次元の話としてであるが。

番組で氏は同業の小説家(作家)を引用した。夢野久作とカミュだ。夢野が小説という形でなく昭和の初期に残した「猟奇的」な書き付けのようなもの。それとカミュの「ペスト」を引き合いに秋葉原の事件に象徴される今の日本という国が抱える病理と形容もできる現状を「しのびよる破局」として告発する。その言うところに賛否はあるだろう。しかし、病を負い日々を生きる氏に、それは恐らくどうでもよいことではあるまいか。現在の自分が被り、生きている現在から発しなければならない喫緊の考えを氏は淡々と語る。経済的な格差の問題だけではなく、不平等の拡大は当たり前なのだ、という人々の「無意識の荒み」を氏は指摘する。同意である。飢餓と大食い競争が同居しているのが現在の日本で、それは正気と狂気が共存しているということだ、と。これまた同意だ。それはもちろん他人の問題ではなく自分の問題でもあることを含めて考察しなければならない指摘だ。

「無意識の蜘蛛の巣」というようなものを私は考える、とも。それは、あの「悪霊」という作品の中でドストエフスキーがスタヴローギンという登場人物に語らせた告白も氏の思索の中で明滅しているのではないかとアカショウビンは推察する。

今の社会は人間という生体に合っていないのではないか、という指摘はアカショウビンが読み続けている西洋の或る哲学教師の思索とも共振する。

曰く「有は、神現の(自分たちの神についての神々の決断の前触れ的響きの)震えである」。

私たち人間がこの世に人間として存在していることの有るということは、どういうことなのか?という問いを教師は考え抜く。その回答は私たちの日常の思考からすれば異様なものである。しかし、それは実に不可思議な階梯を経る魅入られる思考でもある。

その思索の幾らかとも辺見氏の視線、視角は交錯している。それは、あながちアカショウビンの勝手読みだとも思えないのだが。

「社会が人々の真実をコーティングしている社会、それが現在の日本」と言う氏の主張は小説家というよりジャーナリストのものだ。病のリハビリで階段を上がり下がりする氏の姿は高齢者や病を抱える人々の日常を示し哀切である。健康だったときには何気なかった風景が異質に見える瞬間がある、とも語る。それは病や経済苦に支配されそうになる人々や精神を病む人々には共通する現実の姿だろう。反復して思索する時間が必要だ、しかし現在は、その時間が金と置き換えられている、その異常とは何か、という問いは日本という国で生きる一人一人に突き付けられる問いでもある。

荒れた高校の生徒達を聴衆にした講演で一人の高校生が、「先生=辺見氏」は女を買ったことがありますか、と訊ねられた事を三重県の教師たちを聴衆にした講演会で氏は明かす。「あるよ」、と氏は答えた、と言う。その高校生の母親は水商売で、母親が自宅で商売しているような環境で生きている少年なのだ。荒れていて、殺人以外は何でもあるという学校だ。そのような家庭で育っている高校生の挑むような問いに氏は受けて立つ構えで答えた、と話す。「言葉にはならないけれども、聴衆の思考は波動のように伝わるからだ」。その言や好し。

カミュの小説「ペスト」に登場する医師リュウが語る「ペストと戦うには誠実さが必要だ」という「誠実」という述語・概念にも氏は注目する。人間の徳目がカミュの時代とは異なり、現代は商品世界に優しさと愛も簒奪されている、とも述べる。また現在の社会は勝者の物語が流布された社会なのではないか、しかし敗者の物語を紡がなければならないのではないか、とも。それは「資本という根源悪」という思想とも切り結ばなければならない論点である。

先日はロシアのニキータ・ミハイロフ監督の新作「12人の怒れる男」という作品やアカショウビンの偏愛するギリシアのテオ・アンゲロプロス監督の「ユリシーズの瞳」という未見の作品も観ることができた。実に驚愕する傑作である。映画芸術というジャンルがあるなら凡百の作品群のなかで異様な磁場を発している芸術作品だ。その感想も記憶が薄れる前に書いておかねばならない。

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