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2009年2月 7日 (土)

眼差し

テオ・アンゲロプロス監督の「ユリシーズの瞳」(1995年)という作品はボスニア・ヘルツェゴビナ紛争と1992年5月2日から1996年2月26日まで続いたサラエヴォ包囲にギリシア人の監督が触発されて撮った作品だ。昨日は同じ問題意識で撮ったジャン=リュック・ゴダール監督の「フォーエヴァー・モーツァルト」(1996年)を同じ新文芸座で観て来た。内容が共通しているのは新文芸座の上演意図にあるのかは不明だがアカショウビンにとっては偶然のようなものだ。久しぶりにゴダールを観てみようか、という動機だったのだから。しかし、この同じ歴史的事件に対する二人の巨匠のアプローチは或る意味で天地の開きがある。

それは眼差しの相違というものだが深さはまったく異なる。フランスでテオ監督の作品は絶賛されたようだ。その「美しい作品」という賛辞にアカショウビンも賛同するけれども、それだけでは済まない深さを湛えているのがテオ・アンゲロプロスの視線・視角・眼差しだ。それは自国の歴史を通じて他国の歴史に注ぐ眼差しの深さと評してもよろしかろう。主人公を乗せたタクシーの運転手が国外へ移動する途中のギリシア国境で叫ぶ。「ギリシアはいずれ死にたえ、消滅する。それなら早いほうがいい(取意)」と。そこには、あの世界史に特筆される西欧文明の源泉としての栄光のギリシアの現在に絶望する響きを監督は投影させている。

 物語は米国で映画監督をするギリシア出身の主人公が1905年に撮影されたものの現像されていない3本のフィルムを探しに旅をするというものだ。その間には別れた恋人との足跡も辿り、行きずりの恋の悲哀も加味する。その映像と監督の眼差しに深く動かされるのである。

 ゴダール作品には、それがない。酷な言い方をすればゴダールは頭で考えるだけだ。その映像のコラボレーションはゴダールの得意とするもので、それは成功すれば驚くべき効果を発揮するが、どうしても知的遊戯という印象が常に付き纏う。それは併映の「フレディ・ビュアシュへの手紙」(1981年)、「JLG/自画像」(1995年)でも同じだ。それは映像の快楽というような視角で視れば実に面白いのだが、たまたま観たテオ・アンゲロプロスと比較すれば実に観念的な遊びのように感じてしまうのである。

 ゴダール作品は、それで済むものではないことは承知で言うのはお断りしておく。

 先日観たロシアのニキータ・ミハイロフ監督の「12人の怒れる男」にも深い眼差しがある。シドニー・ルメット監督の旧作を自国のチェチェン紛争という歴史事実に読み換え深い視線が湛えられている。映像作家は、それを眼差しとして観る者たちと交錯させ何かを伝える。そこには浅さと深さが生じることを今回の3作品を観て痛感した。

 眼差し、視線、視角、視圏、視界という映像のキーワードは人間存在の本質とも深く関わってくる。或いは、この世に生きながら視るという行為は、どういう作用なのか、という問いも生じてくる。これは恐らくゴダールの問題意識とも重なってくる筈だ。それを観念的なだけでなく存在論としても展開できると思われる。それはまた別な話なのだが、ゴダールに少し失望しても或る可能性の光は感じる。更に愚考を重ね、思索し究思していきたい。

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コメント

<「ギリシアはいずれ死にたえ、消滅する。それなら早いほうがいい(取意)」と。そこには、あの世界史に特筆される西欧文明の源泉としての栄光のギリシアの現在に絶望する響きを監督は投影させている。>
アメリカに滞在していた時の極親しい友人に二人のグリーグアメリカンがいました。方や裕福な出の外科医(20歳後半で渡米)で、他は貧民出身の弁護士(20歳で渡独後40歳で渡米)でした。彼らは1930年前後の生まれです。やはり双方とも、現在のギリシャを嫌悪し、特にその薄っぺらい狡猾な人間性を痛烈になじっていました。ギリシャ人のインテリ層にはこのような人々が多いのでしょうか。
わたくしも負けず劣らず、日本人の「井の中の蛙」のような狭量さや、個として起つことが出来ず、主体のない無責任な烏合の衆としてことの判断をするということや、村八分にするという意識など苦虫を咬む位嫌だったと言いました。(笑)
普通国外にでますと、人はナショナリストに成りやすいのですが、我々3人は違っていました。それぞれシッチュエーションは全く異なっているのですが、ある非常に近しい感覚の共通点がありました。ギリシャと日本は人間の深層心理、人間関係のこだわりに共通の感覚があるように思いました。例えば、ドライになりきらず、割り切れなで縺れて行くウエットな感覚を大切にするというような。

<眼差し、視線、視角,視圏、視界>ということを鮮烈に認識したのは、中学生位の時に黒澤監督の「羅生門」を始めて観た時でした。あれは強烈な印象でした。あの時以来、モノゴトを一方的な視点から見ることの危険を知りました。真実なんて、分からないことなんだということもおぼろげに理解しました。

投稿: 若生のり子 | 2009年2月11日 (水) 午前 04時05分

 若生さん、コメントありがとうございます。

 >ギリシャと日本は人間の深層心理、人間関係のこだわりに共通の感覚があるように思いました。例えば、ドライになりきらず、割り切れなで縺れて行くウエットな感覚を大切にするというような。

 ★それはとても興味深いご指摘です。ギリシア悲劇や喜劇、ハイデガーを読みますと一度は訪れたい国ですがテオ・アンゲロプロス作品を繰り返し観て本を読めばいいではないか、というのがアカショウビンの貧乏人根性というものです(笑)。


 >黒澤監督の「羅生門」を始めて観た時でした。あれは強烈な印象でした。あの時以来、モノゴトを一方的な視点から見ることの危険を知りました。真実なんて、分からないことなんだということもおぼろげに理解しました。

 ★ご指摘の点が黒沢作品の鋭いところでしょうね。最近ではDVDでデジタル修正されているかもしれません。私も久しぶりに観直してみたいと思います。

投稿: アカショウビン | 2009年2月12日 (木) 午前 08時13分

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