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2009年2月28日 (土)

「おくりびと」(続)

 評判はともかく作品と向き合おうと先日有楽町の劇場で観て来た。混雑を予想して午前10時45分からの初回を狙い1時間以上も前に劇場に着いたのだが何と既に行列が出来ていた。そのため席は向かって右側後方のスクリーンとはやや斜めの位置からの鑑賞。池袋の新文芸座では、ここのところ劇場中央最後部席の気に入りの場所に座れているのだが。しかし映画館の空間というものは、無職の不安と気楽の心身状態で、噺家のいう緊張と緩和のようなもの。アカショウビンには唯一で一時の安住の場である。高齢者の観客が多いのは、内容からしても、平日のしかも午前中の初回ということでは然もありなん。普段は映画を観に劇場に足を運ばれることも少ないであろう。さすがにアカデミー賞受賞効果というものである。
 以前に読んだ原作も少し読み直していたのだが、映画は殆ど換骨奪胎してある。原作で重要な引用と思われる宮沢賢治の二編の詩と高見 順の詩は台詞の中にも出てこない。青木氏が「納棺夫」という仕事を務めるなかで心境を深める契機となった親鸞も。舞台も富山から山形に移し変えられている。しかし、それはそれで実に新鮮な読み替えと思えた。原作に感銘し映画化するために10年以上にわたり奔走されたと聞く主演の本木雅弘氏が滝田監督を選んだのも監督が原作者の青木新門氏と同郷の富山県出身ということもあるのだろう。 
 物語は、オーケストラのチェロ奏者である主人公が突然のオーケストラの解散で職を失い妻と共に故郷の山形へ帰るというところから始まる。演奏風景はベートーヴェンの第九から抜粋。故郷に帰り職を求め新聞広告で訪れた会社は旅行会社かと思えば実は葬儀屋の下請け会社。社長と女事務員だけの会社で面接もそこそこに即採用。納棺師という、まったく未知の世界を主人公は生業とする。仕事の内容は死者の身体を清め、顔には死化粧を施すこと。死体は独居老人の孤独死であり自殺であり、病死とさまざま。見習いで社長について行った最初の仕事は死後数週間で腐敗した独居老人の死体。その酷さに主人公は嘔吐する。それから様々な死体と主人公は相対しながら仕事にやりがいを見い出していく。
 こう書くと何か陰惨な内容のようだが、笑いも忘れない。苦笑い、泣き笑いで飽きさせず、物語は淀みなく静かに展開していく。物語の伏線となっているのが主人公の父親。主人公が子供の頃に、経営していた喫茶店の若い女店員と駆け落ちし母と幼い主人公を捨てている。母親は亭主に捨てられても残された喫茶店を一人で引継ぎ主人公を育て上げた。その母親も主人公が海外にいた時に亡くなっている。物語は、まだ何処かで生きているかもしれない父親の消息を含みとして展開する。その間は主人公の友人で別居しながら銭湯を経営する彼の母親の姿と死も描く。脇役たちの芸達者ぶりが作品を支えている。殆ど顔も覚えていない父親との突然の再会が物語を結末に導く。

 死の悲哀と親子の絆、人それぞれの人生の多様さと死を描いて秀逸な仕上がりだ。

 作品の内容とは別に気づいたことを幾つか。

 本作も昨年観た「明日への遺言」(小泉堯史監督)と同じく宗教色を取り除いている。「明日~」への場合、日蓮の熱烈な信奉者であった主人公の岡田 資中将の弁明のなかに展開される「思想」が日蓮の仏教思想であるものの教団色を出さない配慮からか「仏教」として薄められ脱色されていた。「おくりびと」の場合も、青木氏の著作では親鸞の「教行信証」など親鸞の思想への、のめり込みかたが重要な位置を占めているのだが、これもない。前者の場合、日蓮宗など教団の資金供与があったようだから作品のなかで小泉監督が苦心されていることは理解した。映画は金のかかるものでありスポンサーは重要で制作者は気を遣うのである。

 本作で滝田監督と脚本の小山薫堂氏も青木氏の著作を読み検討はした筈だ。しかし「宗教色」は前者以上に今回は薄められている。それが洋の東西を問わず広く受け入れられた要因とも思われる。敢えて言えば宗派を超えて「死」と相対する人間の姿を描いた。これは或る意味で重要なことである。特に最近の各国の映画作品のように内外を問わず多くの観客を想定して作品を撮るときに。余談だが道元を映画化した作品も公開されている。しかしネット上の道元コミュを見ると殆ど宗門や信者の礼賛コメントがちりばめられている。アカショウビンは道元の読者だが、このような作品は観る気力に萎える。それより道元の一行なりとも読むほうが遥かに己には大事なことと確信する。その意味で言えば「おくりびと」という作品も原作の青木氏の著作や、それを介して親鸞の著作の一行、一句に接するほうが健康的だとは思う。しかし本作は宗教色をきれいさっぱり脱色し逆に健康的な作品とも言える。健康的って何?という疑問の声も聞こえるが、それはまた別な機会に。

 この作品が米国アカデミー賞という、映画産業では世界一という国で評価されたのはなぜか?同賞は興行効果も大きく考慮されるのだろう。しかしもっとも重要なのは物語の所々に組み込まれる「笑い」だと解する。物語は臨終という湿っぽい場を乾いた感覚で日常感というものを作品の隅々にまで行き渡らせている。笑いのほうは観てのお楽しみだが、臨終、死、死者、死体、といった重いテーマをコミカルに描くことは実は難しく芸の力がいることなのである。作り手は飄々として観客が嗚咽、号泣する芸は達人の域だ。名人の落語とはそういうものだろう。滝田監督によると今回の受賞については二転三転し「大逆転」という報道もされている。優れた芸は異文化であれ見巧者には伝わるものとも思える。

 滝田作品は「壬生義士伝」いらい。映画の都で世界的に評価された幸を心から言祝ぎたい。原作の「納棺夫日記 増補改訂版」(文春文庫)も増刷されるらしい。原作を読んで賢治の詩や親鸞の思考に共振、反発、挑発される人がいるであろう。原作が外国語に翻訳され賢治の詩の言葉の響きや親鸞の思考が異国の人々に伝わるのは実に至難の技であろうが。しかし日本人ならさいわいに作者の精神と響き合うように読める。それらに挑発されたでもあろう本木氏や監督、脚本家、出演者たちの精神の震えのようなものは作品に込められていると感じた。それだけでも世界に共感されるだろうと想像することは嬉しくもあり楽しい。

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2009年2月25日 (水)

映画「おくりびと」

 「おくりびと」(滝田洋二郎監督)が米国アカデミー賞の最優秀外国語映画賞を受賞した。分野は異なっても先のエルサレム賞を受賞された村上春樹氏に続く快挙として心から喜びたい。村上春樹氏のイスラエル行きには賛否、侃々諤々の議論が噴出した。イスラエルのガザ攻撃が世界中から批判されたなかでのことで氏にも葛藤があったはずだ。「おくりびと」や短編アニメの受賞には殆どそういうこともない。81年という伝統は映画産業で世界を席巻してきた国への敬意もあるのだろう。しかし世界には、ガザに関しては後ろで、イラク、アフガニスタンの時は自ら手前勝手な理由を捏造し暴虐の限りを尽くした暴力国家からの授賞を拒絶する気骨ある映画作家もいるのかもしれない。

 アカショウビンはこの作品を未だ観ていない。しかし内容を漏れ聞くところによると「おくりびと」という聞き慣れない言葉は僧侶のような職責のない人が死者の死体に立ち会うことで、死をテーマにした作品のようである。数年前に読んだ「納棺夫日記 」(青木新門)という著作が原作になっていると聞いた。青木氏は冠婚葬祭社の社員として働きながら詩や小説、エッセイも書いておられる方のようだ。納棺夫というあまり聞き慣れない語は氏が故郷の富山の冠婚葬祭社に務めて初めて立ち会った葬儀で死者の縁者が話した時に初めて耳にされたようである。氏は辞書を調べたが「納棺夫」という言葉は見つけられなかったと書いておられる。ネットで映画の解説を読むと、「納棺師」という職業、とある。今では広く流通しているのかもしれない。脚本の小山薫堂氏も青木氏の著作を熟読されただろう。タイトルの「おくりびと」は「納棺師」としてもよかったのだろうが、死にまつわる「暗い」イメージを避けたもののようにも邪推される。

 この著書のなかで青木氏は「永訣の朝」など宮沢賢治の詩を幾つか引用しておられる。賢治は宗教上の理由から肉食を拒否し菜食を通したため壊血病と結核に罹患する。四〇度の高熱の病の床で書いた詩を引用する。青木氏の引用されている版の表記とは一部異なるが手持ちの「ザ・賢治」(第三書館 1985年)には「眼にて云ふ」と題されて“肺炎詩篇”と分類されている詩(p614)である。こちらから写させていただく。

 だめでせう

 とまりませんな

 がぶがぶ湧いてゐるですからな

 ゆうべからねむらず血も出つづけるもんですから

 そこらは青くしんしんとして

 どうも間もなく死にさうです

 けれどもなんといい風でせう

 もう清明が近いので

 あんなに青ぞらからもりあがつて湧くやうに

 きれいな風が来るですな

 もみぢの芽と毛のやうな花に

 秋草のやうな波をたて

 焼痕のある草のむしろも青いです

 あなたは医学会のお帰りか何かは判りませんが

 黒いフロツクコートを召して

 こんなに本気にいろいろ手あてもしていただければ

 これで死んでもまづは文句もありません

 血がでてゐるにかかはらず

 こんなにのんきで苦しくないのは

 魂魄なかばからだをはなれたのですかな

 ただどうも血のために

 それを云へないがひどいです

 あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが

 わたくしから見えるのは

 やつぱりきれいな青ぞらと

 すきとほつた風ばかりです

 青木氏はそれを賢治の臨死体験の作品といえる、として次のように述べる。

 ここにみる賢治の視点は、病床にある肉体に視点はなく、肉体から離れた宙にあって、医者や自分の出血がみえるくらいのところにある。そして、苦しみもない、きれいな青空が見えるところでもある。

 私は、この詩に出会って、死とは何か、往生とはどういうことなのか、と長年思い続けてきた問に、確かなヒントを貰ったような気がした。(文春文庫p79~p80)。

 賢治の詩のように、この著作にも死者を見続けてきた人の深い視線がある。

 今回の授賞理由は、恐らく、監督はじめスタッフを介して日本人の死に対する視線の深さが異国の観客にも伝わったことによるものと察する。

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2009年2月20日 (金)

システムと人間

  アカショウビンは村上春樹氏の熱心な読者ではない。しかし今回のイスラエル行きのネットでの侃々諤々は興味深く見た。日本の作家としては大江健三郎氏や吉本ばななさん以上のファンを得ているのではあるまいか。日本の小説家が世界でこのように広く読まれたことがかつてあっただろうか。ミシマもカワバタも、ここまでインテリから若者までの読者を得た事はないように思う。

 ネットや周辺の人々からも氏は授賞を歓迎する声とガザ攻撃の残虐に非を唱え授賞を拒否せよの声に翻弄されたに違いない。実に微妙なタイミングでの授賞はイスラエルの日本に対する幾らかのメッセージ性も含まれているだろう。しかし世界の読者は氏の作品が持つ「普遍性」といってもよい面白さに熱く共感しているのかもしれない。

 普遍性とは何か。人間の感情だろうか、或いは近代西洋哲学で展開された理性や悟性か?それとも仏教で有情として表出されるものか。それはまたハイデガーが有(存在)として新たな思考を展開したもの、あるいは、はたらき(作用)とも関連するのだろうか?

 氏はスピーチで壁と卵という比喩を用いた。それは壁を暴力装置とし、卵で、たとえば9・11の「特攻機」を想起したのかもしれない。その比喩は米国人の読者も挑発しただろう。

 氏は言う。「そのメタファーは爆撃機・戦車・ロケット弾・白リン弾、それらが、この高い壁です。卵とは、それによって押し潰され、焼かれ、撃ち殺される非戦闘員の市民たちのことです。しかし、それだけではありません。これには、もっと深い意味があります。こんなふうに考えてください。私たちは誰もが、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちの一人一人は脆い殻に包まれた、一つ一つがユニークで置き換えることのできない命です。私はそうです。皆さんもそうです。私たちは誰も、程度の差こそあれ高く堅い壁の前に立っています。その壁には名前があります。システムです。システムは私たちを保護することになっています。けれども、しばしばシステムは、それ自体の命を持ち、私たちを殺し、また私たちが他者を殺すように仕向け始めます。冷血に、効率的に、組織的に。私が小説を書く目的はただ一つです。それは、一つ一つの命をすくいあげ、それに光をあてることです。物語の目的は警鐘を鳴らすことです。システムにサーチライトを向けることです。システムが私たちの命を蜘蛛の巣に絡めとり、それを枯渇させるのを防ぐために。小説家の仕事とは、ひとりひとりの命のかけがえのなさを物語を書くことを通じて明らかにしようとすることだと私は確信しています。生と死の物語、愛の物語、人々を涙ぐませ、ときには恐怖で震え上がらせ、また爆笑させるような物語を書くことによって。そのために私たちは毎日完全な真剣さをもって作り話をでっち上げているのです。私の父は昨年、90歳で死にました。父は引退した教師で、パートタイムの僧侶でした。京都の大学院生だったときに父は徴兵されて、中国の戦場に送られました。戦後生まれの子どもである私は、父が朝食前に家の小さな仏壇の前で、朝食の前に、長く、深い思いを込めて読経する姿をよく見ました。ある時、私は父になぜ祈るのかを尋ねました。戦場で死んだ人々のために祈っているのだと父は私に教えました。父は、すべての死者のために、敵であろうと味方であろうと変わりなく祈っていました。父が仏壇に向かい座して祈っている姿を見ているときに、私は父のまわりに死の影が漂っているのを感じたように思います。父は死に、父は自分とともにその記憶を、私が決して知ることのできない記憶を持ち去りました。しかし、父のまわりにわだかまっていた死の存在は私の記憶にとどまっています。これは私が父について話すことのできるわずかな、そしてもっとも重要なことの一つです。きょう、皆さんにお伝えしたいことはたった一つしかありません。それは私たちは国籍も人種も宗教も超えた個としての人間だということです。そして、私たちはみなシステムと呼ばれる堅牢な壁の前に立っている脆い卵です。どう見ても、勝ち目はありません。壁はあまりに高く、強固で、冷たい。もし、私たちにわずかなりとも勝利の希望があるとしたら、それは自分自身と他者たちの命の完全な代替不能性を信じること、命と命を繋げるときに感じる暖かさを信じることのうちにしか見出せないでしょう。すこしだけ、それについて考えてみてください。私たちはひとりひとり手に触れることのできる、生きた命を持っています。システムにはそういうものはありません。だから、私たちはシステムが私たちを利用することを、システムがそれ自身の命を持つことを防がなければなりません。システムが私たちを作り出したのではなく、私たちがシステムを作り出したのだからです。これが私が言いたいことのすべてです」。

 アカショウビンは、このシステムという術語と概念にこだわる。ハイデガーは  「有と時(存在と時間)」でseinと表したものでなく 、その後にdas Seynとして「別な元初」を考察する。それはプラトン、アリストテレスのギリシア以降に連綿として続く「存在の忘却」という告発から発するハイデガーの未だに究明されたとは思われない考察である。ハイデガーはSeynにsystemを含ませているのではないだろうか?村上氏が言うシステムは仏教的に解すれば「業(カルマ)」のようなものをパートの僧侶であられたという氏の父親の姿を通して村上春樹は思索しているのではあるまいか。そこで西洋と東洋は或る種の「出会い」のようなものの可能性が模索できるだろうか?それはハイデガーが独創的な思索で展開した「人間」というものの運命というものではないだろうか。ハイデガーがナチスに加担した事実は、その後のハイデガー自身のなかで葛藤があったであろう。しかし一人の哲学教師から思索者としてハイデガーは一生を終えた。その思索をハイデガーは生前に我々が理解している「存在を忘却した」西洋の歴史とは別に新たに思索する人々に託した。それは大江健三郎氏が言う「新しき人」かもしれない。そこでアカショウビンは西洋の思索者と日本の二人の作家の思考と作品が木霊のように響き合う可能性を探りたい衝動に駆られる。

 氏が言う、「言葉にすることのできないもの」は、人の魂魄というものかもしれない。あるいは有とか存在とか称されるもの、か。ハイデガーは、有(存在)は言葉という家に住む、と説く。言葉は翻訳されて異国の人々にも共感される。しかし魂魄や有(存在)は語として記述できても、それは記号にすぎない。

 イスラエルの神とイスラムの神、インドの神々、我が邦の八百万の神々は理解しあえるだろうか?その可能性は現実の世界を見渡せば暗澹たる思いに落ち込むのであるが。フランスの或る作家は言う。

 「神を見た者は死ぬ。言葉の中で言葉に生命を与えたものは息絶える。言葉とはこの死の生命なのだ。それは<死をもたらし、死のうちで保たれる生命>なのだ。驚嘆すべき力。何かがそこにあった。そして、今はもうない。何かが消え去った」

 戦後にハイデガーが指摘した「神の傍過」、「神性を失った世界」、「神々の出奔」という事態は、作家の断定と歎きと呼応してはいまいか?そこから西洋の歴史に新たな光と問いが発されているように思う。それはイスラエルの人々にもパレスチナの人々にも、もちろん我々日本人にも米国の人々にも南米やアフリカの人々にも東南アジアやインドの現に生きていて歴史を背負った人間という生き物すべてに呼びかけられる声のようにも聴こえるのだが。

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2009年2月11日 (水)

邦画の評判作2本

最近、無職の身ながら憑かれたようにフラフラと映画館通いが続いている。先週は洋画の秀作・佳作・傑作に出会って気力を充填された思いだった。本日も池袋の新文芸坐へ。今回は邦画の2本立てである。キネマ旬報や各映画コンクールで入賞したという評判作だ。アカショウビン期待の阪本順治監督「闇の子供たち」と初見参の橋口亮輔監督「ぐるりのこと。」である。休日で混むことは必至とヨミ、午前9時40分からの初回に駆けつけた。すると何と、行列である。久しぶりに2番館での行列を見た。なるほど、それほど評判の作なんだなと期待も高まる。

最初は「ぐるり~」。なかなか好い展開。少し冗長でもあるが、マッタリ感は悪くない。キネ旬2位、報知映画賞 最優秀監督賞らしい。ふ~ん。ひと組の夫婦とそれぞれの職場・家族・親戚の様子を丹念に撮っている。脇役陣も固めている。評価は観ながら納得した。倍賞美津子(以下、敬称は省かせていただく)が素晴らしい。円熟した大人の味に唸った。挟み込まれるエピソードも、それなりに練られていて飽きさせない。しかし2時間半近くの上映時間は昨今の邦画としては異例ではなかろうか。しかし、よくもたせたと思った。

次に「闇の~」である。2本とも予告で見ているから、それなりの展開と予想はしていた。正直に言うと阪本作品は、それほど期待していたわけではなかった。しかし実に驚愕する話の展開で「ぐるり~」とは次元の異なる世界にグイグイと惹き込まれた。これは阪本監督の最高傑作ではないか、と固唾をのんだ。内容はタイでの幼児売春と臓器売買移植の話だ。原作は梁石日。硬派である。未読ではあるが暗澹たる事実に鋭く切り込んでいるのであろう。阪本監督も挑発・刺激されて映画化を決意したと推察される。終盤まで、これは世界に出しても通用する佳作だと感嘆した。ところが、である。最後の結末の意外性は物語の収束としては急でせっかちに過ぎた。何も銃撃戦まで描く必要があったのか。阪本監督得意のハードボイルドなのか。それにしても性急で違和感が残った。そしてエンディングで流れた音楽は桑田某である。アカショウビンは彼らの音楽が好きではない。理由は山ほどあるがここでは省く。とにかく、その歌が流れてきて、途中までは日本映画の傑作、世界にも通用する佳作・秀作が出現したと感嘆したのも束の間、それは泡となった。

桑田ファンにはたいへん恐縮だが、あの終曲は、それまでの話の内容の重さ、深さとは異次元のレベルである。まったくそれを支えきれていない。それどころか安直な歌詞と軽薄なノリの曲を作品のテーマの重さと作品のなかで比較してみたのだろうか?そうだとしたらアカショウビンには映画とは映像と音の掛け算だという誰かが言った定義を見事に裏切っているとしか思えない。先日は評判の「チェ 39歳 別れの手紙」(スティーヴン・ソダーバーグ監督)も観た。内容は平板に過ぎて期待外れだったが、終曲の女性ヴォーカルと生ギターの音楽は素晴らしかった。そのあとはクレジットが流れる間、音楽はない。それは一人の革命家の死を悼む心情が逆に反映されていた。場合によっては音楽などつけないほうが内容に見合う効果を醸し出すことがあるのだ。映画監督は、そこまで配慮しなければならない立場なのではなかろうか。内容が素晴らしければ素晴らしいほど、作品に見合った音楽が添えられるべきである。

この作品の導入部から話と映像の衝迫力は凄い。監督も俳優陣もスタッフも並々ならぬ気迫で取り組んでいることがビシビシ伝わる。それが最後の最後で唖然となる。映画の最後の映像と音楽は作品と見合い、それを支えなければならない。そこに監督は繊細のうえにも繊細に周到な配慮をすべきだ。しかし腸が煮えくりかえる思いの映像と音楽の愚劣なコラボレーションになってしまった。これは監督の責任である。制作や音楽担当者の意見や提案はあっただろう。多くの関係者たちや聴衆も桑田が好きだろうから採用したのかもしれない。しかしへそ曲がりで偏った音楽趣味のアカショウビンには耐えられなかった。原作は読んでいないがラストに至るストーリー展開も唐突で米国の猟奇映画紛いのどんでん返しだ。もっと違う終わり方があったと切に思う。しかしオーケーを出したのは監督である。それに腹がたつのである。アカショウビンは以前にも書いたように阪本順治という才能は日本映画界の中で高くかうのである。幾つかの佳作・秀作も撮っている。「武闘派」と評してもよい気合いは共感するところ大なのである。しかし最後の最後に間違うのは将棋でいえばトン死のようなものだ。勝てば生涯の名局が致命的な見落としで負けにする。この作品はそういうものだ。9割は傑作。音楽だけに限定しても1割がダメにした。

少し酷な評になってしまったが、次回は「チェ 39歳 別れの手紙」の感想も書いておきたい。ミクシイやブログでは話題になっている作品だ。これにも賛同と文句がある。

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2009年2月 7日 (土)

眼差し

テオ・アンゲロプロス監督の「ユリシーズの瞳」(1995年)という作品はボスニア・ヘルツェゴビナ紛争と1992年5月2日から1996年2月26日まで続いたサラエヴォ包囲にギリシア人の監督が触発されて撮った作品だ。昨日は同じ問題意識で撮ったジャン=リュック・ゴダール監督の「フォーエヴァー・モーツァルト」(1996年)を同じ新文芸座で観て来た。内容が共通しているのは新文芸座の上演意図にあるのかは不明だがアカショウビンにとっては偶然のようなものだ。久しぶりにゴダールを観てみようか、という動機だったのだから。しかし、この同じ歴史的事件に対する二人の巨匠のアプローチは或る意味で天地の開きがある。

それは眼差しの相違というものだが深さはまったく異なる。フランスでテオ監督の作品は絶賛されたようだ。その「美しい作品」という賛辞にアカショウビンも賛同するけれども、それだけでは済まない深さを湛えているのがテオ・アンゲロプロスの視線・視角・眼差しだ。それは自国の歴史を通じて他国の歴史に注ぐ眼差しの深さと評してもよろしかろう。主人公を乗せたタクシーの運転手が国外へ移動する途中のギリシア国境で叫ぶ。「ギリシアはいずれ死にたえ、消滅する。それなら早いほうがいい(取意)」と。そこには、あの世界史に特筆される西欧文明の源泉としての栄光のギリシアの現在に絶望する響きを監督は投影させている。

 物語は米国で映画監督をするギリシア出身の主人公が1905年に撮影されたものの現像されていない3本のフィルムを探しに旅をするというものだ。その間には別れた恋人との足跡も辿り、行きずりの恋の悲哀も加味する。その映像と監督の眼差しに深く動かされるのである。

 ゴダール作品には、それがない。酷な言い方をすればゴダールは頭で考えるだけだ。その映像のコラボレーションはゴダールの得意とするもので、それは成功すれば驚くべき効果を発揮するが、どうしても知的遊戯という印象が常に付き纏う。それは併映の「フレディ・ビュアシュへの手紙」(1981年)、「JLG/自画像」(1995年)でも同じだ。それは映像の快楽というような視角で視れば実に面白いのだが、たまたま観たテオ・アンゲロプロスと比較すれば実に観念的な遊びのように感じてしまうのである。

 ゴダール作品は、それで済むものではないことは承知で言うのはお断りしておく。

 先日観たロシアのニキータ・ミハイロフ監督の「12人の怒れる男」にも深い眼差しがある。シドニー・ルメット監督の旧作を自国のチェチェン紛争という歴史事実に読み換え深い視線が湛えられている。映像作家は、それを眼差しとして観る者たちと交錯させ何かを伝える。そこには浅さと深さが生じることを今回の3作品を観て痛感した。

 眼差し、視線、視角、視圏、視界という映像のキーワードは人間存在の本質とも深く関わってくる。或いは、この世に生きながら視るという行為は、どういう作用なのか、という問いも生じてくる。これは恐らくゴダールの問題意識とも重なってくる筈だ。それを観念的なだけでなく存在論としても展開できると思われる。それはまた別な話なのだが、ゴダールに少し失望しても或る可能性の光は感じる。更に愚考を重ね、思索し究思していきたい。

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2009年2月 3日 (火)

辺見 庸氏の現在

先日の日曜日にNHKテレビで「しのびよる破局のなかで」という辺見 庸氏を取材した番組を見た。以下、それに挑発された箇所を任意に抜粋し感想を書いておく。ビデオに録っておかなかったのでメモによる感想であることをお断りする。

昨年、大阪で行った講演から氏の最近の言説・考察・思索が展開する。今、喋々される危機とか破局とは何か?マスコミの論説は整理されていない。秋葉原事件についてアカショウビンにはナニソレ?だったが犯人が携帯電話で残した「リア充」という言葉を氏は瞬時に理解したという。それは、リアルな充実の略ということらしい。犯人は「リア充」な人々に対する疎外感を感じていた。それが憎しみにもなり残虐な犯行となった。それは現代に生きる若者や中高年も含めて人間の「孤独」という現象として考え抜かねばならない領域の問題であるだろう。そこに思いをいたす人は、そう多くはないとしても人間という生き物の全容を問ううえで、それは不可欠の考察とアカショウビンは了解している。マスコミ上での論説は、その表層を撫でるものが殆どと言ってよろしかろう。何もアカショウビンは、それらと違うと言っているのではない。辺見氏の言説を介し、その領域へ踏み込み、光を射し込まなければ青年の行為の本質を理解することはできないだろうと思うのだ。それは、そんな理解が何の意味を持つのだ?という問いとは別の次元の話としてであるが。

番組で氏は同業の小説家(作家)を引用した。夢野久作とカミュだ。夢野が小説という形でなく昭和の初期に残した「猟奇的」な書き付けのようなもの。それとカミュの「ペスト」を引き合いに秋葉原の事件に象徴される今の日本という国が抱える病理と形容もできる現状を「しのびよる破局」として告発する。その言うところに賛否はあるだろう。しかし、病を負い日々を生きる氏に、それは恐らくどうでもよいことではあるまいか。現在の自分が被り、生きている現在から発しなければならない喫緊の考えを氏は淡々と語る。経済的な格差の問題だけではなく、不平等の拡大は当たり前なのだ、という人々の「無意識の荒み」を氏は指摘する。同意である。飢餓と大食い競争が同居しているのが現在の日本で、それは正気と狂気が共存しているということだ、と。これまた同意だ。それはもちろん他人の問題ではなく自分の問題でもあることを含めて考察しなければならない指摘だ。

「無意識の蜘蛛の巣」というようなものを私は考える、とも。それは、あの「悪霊」という作品の中でドストエフスキーがスタヴローギンという登場人物に語らせた告白も氏の思索の中で明滅しているのではないかとアカショウビンは推察する。

今の社会は人間という生体に合っていないのではないか、という指摘はアカショウビンが読み続けている西洋の或る哲学教師の思索とも共振する。

曰く「有は、神現の(自分たちの神についての神々の決断の前触れ的響きの)震えである」。

私たち人間がこの世に人間として存在していることの有るということは、どういうことなのか?という問いを教師は考え抜く。その回答は私たちの日常の思考からすれば異様なものである。しかし、それは実に不可思議な階梯を経る魅入られる思考でもある。

その思索の幾らかとも辺見氏の視線、視角は交錯している。それは、あながちアカショウビンの勝手読みだとも思えないのだが。

「社会が人々の真実をコーティングしている社会、それが現在の日本」と言う氏の主張は小説家というよりジャーナリストのものだ。病のリハビリで階段を上がり下がりする氏の姿は高齢者や病を抱える人々の日常を示し哀切である。健康だったときには何気なかった風景が異質に見える瞬間がある、とも語る。それは病や経済苦に支配されそうになる人々や精神を病む人々には共通する現実の姿だろう。反復して思索する時間が必要だ、しかし現在は、その時間が金と置き換えられている、その異常とは何か、という問いは日本という国で生きる一人一人に突き付けられる問いでもある。

荒れた高校の生徒達を聴衆にした講演で一人の高校生が、「先生=辺見氏」は女を買ったことがありますか、と訊ねられた事を三重県の教師たちを聴衆にした講演会で氏は明かす。「あるよ」、と氏は答えた、と言う。その高校生の母親は水商売で、母親が自宅で商売しているような環境で生きている少年なのだ。荒れていて、殺人以外は何でもあるという学校だ。そのような家庭で育っている高校生の挑むような問いに氏は受けて立つ構えで答えた、と話す。「言葉にはならないけれども、聴衆の思考は波動のように伝わるからだ」。その言や好し。

カミュの小説「ペスト」に登場する医師リュウが語る「ペストと戦うには誠実さが必要だ」という「誠実」という述語・概念にも氏は注目する。人間の徳目がカミュの時代とは異なり、現代は商品世界に優しさと愛も簒奪されている、とも述べる。また現在の社会は勝者の物語が流布された社会なのではないか、しかし敗者の物語を紡がなければならないのではないか、とも。それは「資本という根源悪」という思想とも切り結ばなければならない論点である。

先日はロシアのニキータ・ミハイロフ監督の新作「12人の怒れる男」という作品やアカショウビンの偏愛するギリシアのテオ・アンゲロプロス監督の「ユリシーズの瞳」という未見の作品も観ることができた。実に驚愕する傑作である。映画芸術というジャンルがあるなら凡百の作品群のなかで異様な磁場を発している芸術作品だ。その感想も記憶が薄れる前に書いておかねばならない。

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