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2009年1月12日 (月)

聴き初めと新聞の書評所感

 コンサートに行く金をけちり暮れの第九は毎年いろいろなCDを聴くのがアカショウビンの師走の儀式だ。昨年はヨッフムとロイヤル・コンセントヘボウ管弦楽団。1969年の6月4日から7日にかけて録音されたものを聴いた。ドイツ精神がオランダのオーケストラで壮麗に鳴り響いている趣の佳演である。

 今年はハイドン(1732~1809)没後200年だというので、聴き初めはハイドンから。30年かけて継続している交響曲全曲聴破の間欠泉の如き試みの再開である(笑)。先ずは41番ハ長調から。ヘルムート・ミュラー=ブリュール指揮のケルン室内管弦楽団の演奏。大オーケストラでないのが実に心地よい。他に58番ヘ長調と59番イ長調「火事」が収められている。

 9日の毎日新聞夕刊の「この国はどこへ行こうとしているのか」というシリーズ・インタビューで平山郁夫(以下、敬称は略させていただく)が話している。周知のように氏は広島で被爆された画人である。巷では100年に一度の不況だというのに「たった63年前」の敗戦の話が全然出てこないと慨嘆する。「広島や長崎だけではありません。日本の主要都市は米軍の空襲でほとんど焼け野原になった。何百万もいた軍人は全部失業しました。今の失業どころじゃない。住む家がない、食べものがない、着るものがない、薬なんてもちろんない~」。氏がスケッチ旅行で何度も訪れたアフガニスタン、イラク、中東、アフリカで見た現実は、敗戦の日本の現実と重なったと語り「今の日本人は、自分の国の大変な苦境の時を忘れてしまったんでしょうか」と問いかける。

 平成7年に中央教育審議会(中教審)や有識者会議で道徳を教科として教えるかどうか、が議論されたすえ、管理統制につながる、などの理由で結論は先送りされているようだ。「道徳だとか修身というのは、軍国主義に結びつくからということなのでしょうか。そうではないと思いますね」と述べ「私は、軍国主義というのは一種の原理主義だと思うんですよ。今、イスラム教徒の名の下でテロを引き起こしているのは、アルカイダとかタリバンとか、一部強硬な原理主義者たちです。排他的で考えの違うものは一切認めない。でも他の十数億のイスラム教徒は自由であり平等なんです」

 昨年のイスラエルによるガザ攻撃・侵攻でネット世界は侃々諤々の論評が渦巻いている。ユダヤ文化に詳しい方々ほど、その解決には匙を投げた論調が多い。その根の深さは暢気な日本人には介入不能の異質の国際世界というわけである。多くのユダヤ人は「十数億のイスラム教徒」と同様かもしれない。しかし利権のからむ政治屋や一部の「原理主義者」に扇動されて多くのユダヤ人たちが過激化しているとも思われない。簡略に言われる「憎しみの連鎖」は、どのように乗り越えられるのか。そこに架ける橋は幾つも試みられているであろう。しかし我が国マスコミの報道論調の温(ぬる)さは問題の孕む宗教への踏み込みに腰が引けているというより無学をさらけ出している。アカショウビンとて似たようなものだが新旧聖書とイスラム経典への知は、とりあえず書物に頼るしかない。前者は先年読んだ「死を与える」(ちくま学芸文庫 ジャック・デリダ)で創世記のアブラハムとイサクの物語の分析・論説が刺激的だった。後者は井筒俊彦の著作に得るものがありそうな予感もする。

 平山氏はアフガン内戦で住む土地を奪われ、パキスタンに流れ込んだ難民キャンプを訪れたときに出会った光景が忘れられないと述べる。

 羊の肉を持った貧しそうなアフガン人の男性が裸足で歩いていた。そこへ手が次々と差し伸べられた。すると男性は持っていた肉を少しずつみんなに分け与え始めた。手から手へと-。

 「結局、その男性の手には小さな肉の切れ端しか残っていませんでした。これが本当のイスラム人なんです。お互いに助け合おうというのです。日本だって同じですよ。軍国主義は一部の原理的な人たちが独走した結果。本当の日本精神といえば、絶対そうじゃない。日本は昔から八百万(やおよろず)なんです。寛容でいろいろなものを取り入れる民族性がある~」。

 暗殺されたマスード将軍の兄弟が来日し鎌倉の平山宅を訊ね氏に「アフガニスタンはどうしたら平和で新しい国に生まれ変われるか」と訊ねたらしい。氏は「やはり教育だ」と答えたという。「貧しくても、たとえタリバンの子であろうとも、勉強したいと思う子には差別なく、教育を授けてあげたらどうだと言ったんです~」

 「なぜ日本が戦争で焼け野原になって、あれだけのどん底に落ちたのに今日があるかといえば、いろいろな国際援助があったからです。そして平和だったからです~」と語り、「日本も人道的な面や福祉、技術支援や経済協力など、アメリカではできない、日本なりの国際的役割を果たべきです」。

 そして記者は氏に案内されたアトリエに「砂の色で下塗りされた絵が2枚、立て掛けてあった。イスラム教寺院のモスクが描かれてあった」と記している。

 また11日の毎日新聞朝刊の書評欄には今福龍太氏の「群島-世界論」(岩波書店)を沼野充義氏が評している。世界を「群島」として見るという壮大なビジョンが面白そうだ。島尾敏雄、折口信夫、早世した干刈あがたらも登場するらしい。カリブ海出身の詩人ウォルコットの「僕はノーボディか さもなけれりゃ一人で国家(ネイション)だ。」という「宣言」にも興味が疼く。沼野氏は、今福氏の著作のほかに「エクストラテリトリアル 移動文学論Ⅱ」(作品社 西 成彦)、「遠きにありてつくるもの」(みすず書房 細川周平)と並べて「『越境文学派』の旗揚げともいうべき画期的な事件が起りつつあるのではないかという印象を受ける。文化や言語の境界を超え、世界を自由に動きながら、言葉が湧き出る根源の場所に迫ること。それがいま読まれるべき、そして創られるべき世界文学ではないか」と書いている。

 なにやら面白そうではないか。沼野氏が引用している今福氏の序文の文章もステキだ。「・・・戦火の小宇宙を想像しながら、群島は自らの意思と感情のもとに世界の更新に向けて待機する」。ただ、この著作は5460円と高価である。無職のアカショウビンには家計に響く。とりあえず図書館にでかけてみよう。

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