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2009年1月28日 (水)

現状の凌ぎと切り抜け

 仏教哲学では人の人生は生老病死という過程を踏む。世に棲む日々というのは喜怒哀楽で過ぎるというものだろう。しかし、その間には戦争もあり事故もあり生殺与奪もあるのが常である。生老病死の過程は決して安楽とはいえない。

 米国主導の人類の歴史過程も100年単位で俯瞰すれば、ゆっくりとマグマの移動のように大きな変化の過程にあるように思える。

 先日、NHKで先の大戦で悲惨な地上戦が現出した沖縄戦の証言テープが放送された。軍隊が守るべき地元民を斬首という残虐な方法で殺したという事実は政治家も国民も忘れてはならぬ歴史的事実だ。それに刺激されたわけでもないが、嘉手苅林昌という沖縄の歌い手のCD3枚組み「嘉手苅林昌 BEFORE/AFTERE」を購入し聴いた。昨年聴いた奄美の唄者、里 国隆の「奄美の哭きうた」でも共演していた。里の奄美の島唄には最近の洗練された若い歌い手たちの甘い声にはないブルースのような呻きと叫びがあった。嘉手苅林昌の琉球音楽にもキューバや、その他の国々に通低する民族の音楽が営々として流れている。半分も理解できない沖縄方言はユーモラスで標準語と混交した言語の姿は国家が明白に侵入している異相もありありと見える。それは痛ましくもあれば、我が身を振り返れば意識するとしないとに関わらず自らの在り方にも自ずと現われているであろう。

 先日は知人からNHKのテレビ番組をコピーしたDVDが送られてきた。別の友人に頼んでおいた、正月に放送された吉本隆明氏のものかと思ったら、さにあらず。同じNHKで放送された1969年1月、東大安田講堂での学生たちと機動隊の攻防戦の模様と何人かの学生の、その後の人生を追ったものだ。「“あの日”から40年 安田講堂落城」というタイトルが付けられている。

 

 当時の学生たちの中には投獄され出所したあと医師となって地域医療に貢献したが既に斃れた学生もいれば、大学教授として若い学生たちに当時の模様を伝える人もいる。日大全共闘の闘士としてアカショウビンも微かに記憶している秋田明大氏は故郷の呉で自動車整備工場をかつかつに経営している。同世代の知人にとっては、そういった映像が懐かしかったのかもしれない。或いは現在も政治的な関心で生活の場で戦っているのであるのかもしれない。

興味深かったのは、第19回駒場祭での有名なポスター「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」を制作した橋本治氏が当時の加藤一郎総長代行にインタビューしている場面だ。橋本氏の問いに加藤氏は「今、10年前を思い起こせば(中略)ひと昔前の懐かしい思い出となっているわけですが・・・」と答えた。橋本氏は「そうすると先生にとって東大闘争は何だったかというと、思い出に・・・」と訊ねる。すると加藤氏は沈黙したまま返答ができなかった。それは大学の「体制側」と学生たちとの立場の相克を表して象徴的な場面だった。そういった映像のなかに三島由紀夫との討論の映像がなかったのは何か理由でもあるのだろうか。番組の主眼は当時の学生たちの、その後であるにしても三島対学生という構図は明治以降の日本国の政体を含めて刺激的な渡り合いがあったのだから少しは映像で見たくもあったのだが。

中学生だった私たちの世代にとって当時の記憶はテレビで見る映像としてしか残っていない。それはまた沖縄戦の苛烈もまた同じである。

 この世で生きる時間の濃淡は人それぞれだ。戦争後の復興と繁栄の恩恵を受けた私たちの世代はある意味で恵まれた国民である。しかし昨今の現実には綻びも生じてきている。

 余談だが、ゲバラの映画が若い人たちの間でも評判になっているようだ。当時の学生たちの意識には当然ゲバラも或る一つの象徴であるだろう。中東や中南米諸国はともかく我が国の現状は全共闘の学生たちの姿を今の学生たちを対比し現在の政治の茶番を見れば、こちらの気力が失せるのも正直なところだ。しかし現実は公私共に真綿で首のようにジワジワと不安に獲り込められる気分に領されている気もする。この現状をどうやって凌ぎ、切り抜けるか。のんびりもしていられない。

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2009年1月24日 (土)

老いと死

 NHKの再放送で26年前の鈴木清順(以下、敬称は省略させていただく)と加藤治子が演じた「みちしるべ」というドラマを、たまたま途中から観た。病の妻(加藤治子)を夫(鈴木清順)が車に乗せて九州の各地を訪れる物語(ロード・ムーヴィー)だ。加藤治子が美しい。清順監督の役者としての演技は下手である(笑)が、初めての主演ということでは仕方がない。僭越ながらアカショウビンは寛大に許させていただく。

  番組のあとに現在の清順翁がインタビューで登場された。番組を観ながら、まさか、お二人のどちらかが逝ってしまわれたのではなかろうな、とネットで調べてみようと思ったが、ご壮健で安心した。翁も85歳である。新作への意欲も旺盛であるようだ。それにしても、見事な女優と偉大な監督の演技のコラボは心に食い込み観させられた。老いと死を演じて見事というしかない。23年後にも、お二人が元気に生きておられることのありがたさを心から言祝ぎたい。

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2009年1月23日 (金)

母へ

母よ、私とあなたや家族が共に暮らしたのは十五年間だけだった。今、あなたは病の床につき弟の世話で苛酷な手術のあとの療養の過程を生き抜いている。老いによる体の不如意の苦しさに加えて病の苦しみにも苛まれている現実を私は救ってやることができない。その歯がゆさは自らの生き方と暗澹たる心の深淵を覗き絶望の周囲を彷徨う思いだ。

父が逝ってからも、私たちは離れて暮らしてきた。共に暮らせなかったことは、ひとえに私の不徳であり精進不足と怠惰によるものだ。そのことが取り返しのつかない所業であったことを私は手術後の病院のベッドであなたの姿を見た瞬間に察し悔いた。その姿を見た時に私は、親子の生の尊厳は、あらゆる利害を超越したものであることを察知した。であれば母親の尊厳をどのように文字にすればよいのだろう。

 病とたたかう、あなたの思い出や夢の中には、幼児の私が海水浴場の浜辺の浅瀬で溺れかけ大騒ぎしたことや、幼稚園の入園式の時にあなたの姿を見失い大泣きしたこと、弟がひきつけの痙攣を起こし動転したこと、娘時代に祖父と一緒に乗っていた船が米軍の戦闘機に銃撃され九死に一生を得たことなども時に出てくることだろう。父と共に家業で必死の思いで二人の息子を育ててきたことも。この寒さが弥増す日々に、あなたは病と生活の厳しさに耐え、生涯の記憶は走馬灯のように脳裏を過ぎっているはずだ。

 あぁ、この世で親子として生きてきて、子らしい恩返しもできぬまま、あなたは人生の最後を苦しみのなかで、小さな身体をよじりながら、自らの痛みと子たちの生にまで心を痛めながら耐え抜いている。この世には、もっと苦しんでいる人々がいるだろう。しかし人の肉体と心の苦しさに果たしてどれほどの差があるのだろうか。あなたは言う。人生は苦楽共にあるもの、苦楽共に思い合わせて祷れ、と。それで苦しみが癒えるなら私も祷るしかない。

 あぁ、私達が暮らした故郷の家は未だあるだろうか?あなたが元気になれば、浦島太郎のようになって、一度そこを訪れてみたい。

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2009年1月19日 (月)

ガザの現状へ一人のユダヤ人の発言

 以下は或るブログを通じて知った一人のユダヤ人の声である。これをもってしても今回のイスラエルの所業は赦されるものでないのは言うまでもない。

 サラ・ロイ(2009年1月2日)

 ガザの友人らの声は、まだ電話口にいるかのようにはっきりと耳に残っている。彼らの苦痛の声が私のなかにこだまする。子どもたちの死を嘆き悲しんでいたが、その死者のなかには、私の子どものように小さな女の子たちもおり、その肉体は非常識なまでに焼かれバラバラにされていた。
 一人のパレスチナ人の友人が私に尋ねた。「どうしてイスラエルは、子どもたちが登校しているときに、女性たちが市場で買い物をしているときに、攻撃を仕掛けてきたのか?」。我が子の死体を見つけることもできない親たちが、死傷者の溢れるあちこちの病院を必死に歩き回っていると伝える記事もある。
 攻撃の前夜に、民としての復活[紀元前のマカバイ戦争によるエルサレム神殿の奪回]を記念し、[8枝メノーラーを使うオリーブ・オイルのランプで]光を灯す祭りであるハヌカーを祝ったユダヤ人として、私は自らに問うた。「パレスチナ人たちが殺されているときにどのように自分のユダヤ性を祝おうというのか?」。
 宗教的な学者であるマーク・エリスは、さらに踏み込んで私たちに立ちはだかって問いかけた。「ユダヤ人がパレスチナ人を抑圧するという事態の前で、ユダヤ人の神との契約などというものは存在するのかしないのか?」、と。ユダヤ教倫理の伝統は、まだ私たちユダヤ人が手にしているのだろうか? ユダヤ人の実存にとってかくも中心的な神の約束は、もはや取り戻すことのできないところへ離れてしまったのだろうか?

 長期間自宅に閉じ込められ、食べ物も飲み物も電気もない生活を強いられているが、子どもは生きている、そういう人はガザ地区のなかではまだ幸運な部類だ。
 2008 年11月4日にイスラエル側がハマースとの停戦協定を事実上破って、それ以前にはなかった規模で攻撃をしてきて以来——この事実はいまとなってはガザの大量の死者によって埋まってしまったが——、ハマースが数百発のロケット弾で応酬しイスラエル市民を死傷させるごとに、暴力はエスカレートしてきた。イスラエルの戦略は、ハマースの軍事目標を叩くことであると報道されているが、自分の子どもを埋葬しなければならないパレスチナの友人たちに対してこの現実との違いを説明してほしいものだ。

 11月5日から、イスラエルはガザ地区に入るすべての検問所を封鎖し、食糧・医療品・燃料・調理ガス・水道および衛生設備の部品、などなどの供給を大幅に削減し、ときには拒否した。エルサレムにいる私の知り合いの研究者は、「この包囲攻撃に匹敵するものはない。イスラエルがこの類いのことをしたことはかつてなかっただろう」、と語った。
 11月をとおして、一日平均4.6台の食糧用トラックがイスラエル側からガザ地区に入ったが、比べて10月は一日平均123台だった。水道関連の設備の修理と維持のための予備部品はここ一年以上運び込みを拒否されている。世界保健機関(WHO)は、ガザ地区にある半数の救急車が故障していると最近報告したばかりだ。
 AP通信によると、(12月27日土曜日の戦闘開始から30日)火曜朝までの三日間の死者数が少なくとも370人に達し、1400人が負傷した。国連によると、死者のうち少なくとも62人は民間人であり、パレスチナ保健機関によると、死傷者のうち16歳以下の子どもは、死者が22人、負傷者が235人以上にのぼる。

 私は25年近くガザ地区やパレスチナ人と関わってきているが、今日にいたるまで、焼かれた子どもの映像などという恐ろしいものを目の当たりにしたことはなかった。
 だが、パレスチナ人らにとって、それはたんなる映像ではなく現実なのだ。そしてそれゆえに、何かが根本的に変わってしまい、もう容易には元に戻れなくなるのではないだろうか。現在のガザの文脈において、解放への道としての和解や、相互理解の起点としての共感について、いったいどうやって語れよう。共存にとって必要不可欠な「人間の所業という共通の領域」(偉大なパレスチナ人学者の故エドワード・サイードからの借用)など、いったいどこに見つけたり創り出すことができよう。
 誰かの土地や家や生活を奪うこと、誰かの主張を唾棄すること、誰かの感情を踏みにじることはありうるだろう。だが、誰かの子どもをバラバラにするというのはそれとはまったく別次元のことだ。やり直すことが否定され、あらゆる可能性が潰えた社会は、その後どうなってしまうのか。

 そして、イスラエルに住んでいようといまいと、一つの民としてのユダヤ人はどうなっていくだろうか。どうして私たちは、パレスチナ人の基本的な人間性を受け入れることができず、彼らを自分たちの倫理的境界の内部に含み入れることができないのだろうか。それどころか私たちは、自分たちが虐げているパレスチナ人と、いかなる人間的な繋がりをも拒絶してしまっている。結局のところ、私たちの目指すところは、痛みの同族化、すなわち、人間的な苦痛の範囲を自分たちユダヤ人だけに狭めることなのだ。
 私たちが「他者」を拒絶することは、私たちを無に帰してしまうだろう。私たちは、パレスチナ人と他のアラブ人たちを、ユダヤ人の歴史理解のなかに組み入れなければならないのだ。というのも、アラブ人たちは私たちの歴史の一部をなすのだから。私たちは、ユダヤ教倫理の伝統を裏切るような信条や感傷にこだわりつづけるのをやめて、ユダヤ人のナラティヴ(歴史語り)と私たちが他者に与えてきたナラティヴとを問い直すべきなのだ。
 ユダヤ人知識人たちは、ほとんど世界中の人種差別・弾圧・不正義に反対しているが、イスラエルが迫害者であるばあいはそれらに反対することがいまだに受け入れられない。それどころか、背教行為だとさえ言う者もいる。こうしたダブルスタンダードはもう終わりにしなければならない。

 イスラエルの勝利は、払うべき犠牲の大きい割に合わない勝利だ。そして、イスラエルの力の限界とともに、ユダヤの民としての私たちの制約をも浮き彫りにしている。すなわち、私たちは[他者との]壁を設けることなしに生活することができないという制約だ。これらのことは、ホロコースト以後のユダヤ人の再生の限界を意味するのだろうか。
 ポスト・ホロコースト世界でユダヤ人国家に力づけられてきたユダヤ人として、私たちはいかにして、一つの民として虐殺や悲惨を切り抜け、そして力を得て人間らしくいられるだろうか。私たちはいかにして恐怖を乗り越え、たとえ不確かでもいまとは異なる別のものを思い描くことができるだろうか。
 それへの答えが、私たちが何者であり、結局どうなっていくのかを決めるだろう。


翻訳:早尾貴紀氏

原文: Israel's 'victories' in Gaza come at a steep price
 (from the January 2, 2009 edition)

By Sara Roy, the Center for Middle Eastern Studies at Harvard University

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2009年1月17日 (土)

声と響き

 先日、友人のN君が知人から頂いたチケットがあるのだけど、バレエは興味ない?と訊ねられ携帯で話をした。バレエって踊りの?と聞き返すと、そうだ、という。それで、どこのバレー団で会場は何処?と訊ねると、レニングラード国立バレー団で会場は有楽町の国際フォーラムだという。これは行くしかない。二つ返事でお願いした。その時は演目が何か、特にバレエに興味があるわけでもないN君も知らせてはくれなかったが、早めに会場を確認するため訪れると「白鳥の湖」である。あまりにも有名な作品だ。しかし音楽好きのアカショウビンも観るのはもちろん幾つかの旋律は聴き覚えていても全曲を聴き通したことはない。これはよい機会であるとワクワクしながら会場へ。N君とは暮れに高校の同窓生ら三人で忘年会というか飲み会以来。お礼に開演前にタイ料理をご馳走させていただいた。

 さて「白鳥の湖」である。アカショウビンはナマのバレーを観るのは学生時代にドイツのシュトゥットガルト・バレエ団だったかが「スペードの女王」を演じたのを観ていらい三十数年ぶり。

 愛好家達にはたまらないだろう有名な踊り手たちをアカショウビンはもちろん知らない。しかし興味のあるのはオーケストラ。オペラの声はなくともオーケストラを聴く楽しみは同じである。ところが会場の国際フォーラムは実に広い空間。N君から頂いた席はA席であるけれども1階の真ん中より後方の席だった。舞台とオーケストラピットまで、ちょっと遠い。舞台は鍛え抜かれた妖精のようなバレリーナ達が、それは見事な美しい踊りを繰りひろげている。音楽も時に玄妙な響きが聴こえる。これは、この席ではもったいない。全3幕の舞台の最後の第3幕は指定席を離れ、空席が目だった会場前方の右側に移動。近くに待機していた係員のクレームを少し気にしながらもオーケストラと舞台に聴き入り見入った。さいわいクレームはつけられなかった。この場を借りて係員諸嬢、諸氏の寛大な配慮に御礼申し上げる次第。

 午後6時の開演から休憩を挟み3時間近くの舞台を堪能した。N君とは居酒屋で一杯飲み感想を話し合った。それにしても新年から眼と耳の贅沢を味わえたのはN君のおかけである。聞けばN君は、この数年、新年には頂いたチケットで会場に通っているという。N君ありがとう、来年もよろしくね。

 ところで少し書き留めておきたいのは、そのような、ありがたい経験にも関わらず思い当たったアカショウビンの不満である。それは今年のウィーン・フィルの「ニューイヤー・コンサート2009」では殆ど感じなかったがバレエ公演で気付いた、声の不在、ということである。舞台上のオーケストラもそうだが、バレエ公演も舞台では踊りがあるだけで人の声がない。それがアカショウビンには何か、ないものねだりのような感慨に浸らされたのである。

 人の声。それは格別なものである。そのないものねだりを埋めるべく数年前に購入したDVDでミラノ・スカラ座で行われた1996年の改築50周年記念コンサートを観直した。そこには実に声が溢れている。指揮はリッカルド・ムーティ。今や巨匠の域に達している風情の有数の指揮者である。合唱もソリストも選りすぐり。皮切りはロッシーニの「ウィリアム・テル」だ。そしてヴェルディ。ミレルラ・フレーニの声はイタリアの至宝のような存在なのであろう。観客の反応もスカラ座ならではだ。

 人の声とは何だろう。それは存在の呼び声というようなものかもしれない。呼びかけを聴く者は、それぞれに応答する。その不思議さにアカショウビンは立ち止まり愚考するのである。声と響き、それは、この世に存在することの何か霊妙な意味を伝えているのではないだろうか。先日、正月に母の声を聴いたときに、それが若い頃の声と変わらないことに奇妙な思いがした。それは今に始まったことではない。離れて暮らしていても電話を通じて聴く声は共に暮らしていた子供のころと変わらないのが不思議なのである。それはおそらく親子という特別な関係の中に生ずる現象のようなものであろう。

 スカラ座の合唱の声やソリストたちの声を聴いていて、人の声には、やはり何か特別なものがあるのを痛感する。それは次のような思索とも呼応する。

 有が本質現成することの、

 有に立ち去られてあることからの、

 有の忘却という

 窮し強いる窮迫を通しての[響き]。

  この忘却を、忘却として想起することにより、その覆蔵された力を出現させること、そしてその内で有の響きを出現させること。窮迫の承認。

 これは或る哲学者が彼の思索をメモのように書き留めた集積のなかの一部である。その思考とスカラ座で鳴り響くオーケストラと声の共演に通底している現象は何か?今年は、そのようなことも、あれこれ考えていきたい、と駆り立てられたのである。

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2009年1月12日 (月)

ブルックナーの交響曲第7番

 オイゲン・ヨッフムがベルリン・フィルを指揮した1964年の録音を聴き直した。他の交響曲に比べて神秘や崇高といったブルックナー作品に頻出するキーワードを想い起こさなくても全体に美しい仕上がりで、す~っと聞き通せる作品である。もちろんブルックナー特有の霊感に満ち溢れているのは他作品と共通する。ところが、もっと美的な印象が強いのだ。まるでギリシア時代の巨大な女神像を音で拵えたような。創作している時期はブルックナーが崇拝するワーグナーの晩年。「ワーグナーの死の予感のなか」(@金子健志氏)で最初に取り掛かったのは第2楽章で、そのスケッチを終えたのが1883年1月22日。ワーグナーは同年2月13日に死んだ。翌日訃報を知ったブルックナーは号泣したと伝えられている。

 起筆は1881年、3年かけて完成させた。初演は今では伝説の指揮者アルトゥーロ・ニキシュが29歳のときにライプツィヒで1884年に振っている。作曲者60歳の時である。ウィーンでの初演は1892年。辛口の批評家たちからも歓待された様子だ。

 ヨッフムのベルリン・フィル盤は改訂版を使用している。12 年後の1976年のドレスデン・シュターツカペレ盤ではノヴァーク版を使っているから聴き比べるのも面白い。しかし3番や4番のような作品より版の違いはほとんどみられない。せいぜい2楽章でシンバルとトライアングルを使っているかいないかの違いくらいだ。金子氏は朝比奈隆との対話で第1楽章のホルンの出だしについて話しているが、朝比奈は版の異同をそのように細かく調べて喋々するのは日本人くらいだと呵呵大笑している。さすがである。そのような議論は評論家やマニアに任せておきブルックナーの音楽に心身を任せ全体と細部の音の交響を楽しむが良しなのだ。

 ヨッフムの指揮は、透明感に満ちたとでも言えるような淀みや迷いの感じられない解釈だ。フルトヴェングラーの死から10年が経過している。録音の進歩にもよるであろうがベルリン・フィルはカラヤン好みの流麗な響きに変わっている。しかしヨッフムは最初のベートーヴェンの交響曲全曲録音とは異なるアプローチでオーケストラの音色の変化を逆用しブルックナーの心的世界とでもいうものを紡ぎだした。ベートーヴェンはヨッフムの奇を衒わぬ直球勝負の一途さが持ち味とも言える。ところが、この演奏は、ゆとりとも自信とも言える自在性が横溢している。

 全体のテンポはゆったりとしてブルックナー風である。ブルックナー特有の「音響の伽藍」的な構築性をオーケストラで現わすためには不可欠の姿勢というものである。その姿勢は第2楽章のアダージョで見事な効果を発揮する。リハーサルで62歳のヨッフムは団員たちに噛んで含めるようにスコアの解釈とブルックナーを演奏するポイントを説いたと察する。作曲者の晩年と近い歳になりブルックナー解釈と演奏にも深みが増してきていたのではないか。その証はワーグナーの体調を気にしながら書かれた第2楽章の曲想の、天上への階段をひと足ひと足踏み昇っていくかの如き音楽を聴けば納得される。その音の壮麗さは巷間引き合いに出される中世のゴシック建築の大伽藍を見上げるが如しであるが、崇高なものへの憧れと尊崇が強烈に聴き取られる。クライマックスを過ぎた辺りで静けさが戻った或るパッセージは壮大な儀式か葬礼が終わったあとの特別な時空間の中にサッと射し込む一条の光のようにも思える。茫洋として荘重な響きの海の中で天から地上に射す一筋の光。それはブルックナーの日常で不意に体験されたものの音化のようにも思われる。この録音では各パートのピアニッシモの響きの中に実に豊饒なパッセージが名手たちの技術とヨッフムの譜読みの深さとして記録されている。

 第4楽章は1楽章から3楽章までの統一感が失せている余計な楽章とマニアたちの間では論議されているらしい。しかしアカショウビンは、そのような考えと聴き方に与しない。この楽章でもブルックナーという音楽家が素朴な信仰者として神や崇高な事柄を想い描き腐心した跡が聴き取られるからだ。音楽家は作品を書き始めたときから続けてきたのと同じように曲想を音として出現させるために心を砕いている。その様子が音楽に全身を集中すれば目に浮かぶ筈だ。この作品はブルックナーの交響曲の中ではギリシア時代の女神像のように美しい。アダージョは偉大な先達を天上へ葬送する崇高さに満ち溢れている。そのような気分に支配された作品のフィナーレの終楽章でブルックナーは巨大な彫刻の女神を生きて歩ませ、自分を見上げる人間共を何か不思議な生き物を見下ろすかのようなものに拵えた。そのような不思議な絵柄をアカショウビンは妄想する。ブルックナー独特の、そのようなユーモアといった音楽を聴くのは、謹厳な人の遊び心を聴くようで楽しいのである。

 ヨッフムは12年後の1976年にドレスデン・シュターツカペレでノヴァーク版を用い再録している。演奏の仕上がりは旧全集のほうが版の異同などではなく演奏の完成度として高いと思う。それでもドレスデンの音は素晴らしい。この頃の録音ではサヴァリッシュが指揮したシューマンの交響曲全集がある。レコード時代で当時のアカショウビンの粗末なオーディオ装置でもドレスデン・シュターツカペレの音は素晴らしく響いた。あの音は、このブルックナーの録音に比べてもっと渋く人気のティンパニーも見事な響きで鳴っていた。ところが、こちらは弦も金管もずいぶん豊麗できらびやかに鳴り響いている。ティンパニーも、サヴァリッシュのシューマンとは響きが異なるように聴こえるのが多少の不満の原因でもある。

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聴き初めと新聞の書評所感

 コンサートに行く金をけちり暮れの第九は毎年いろいろなCDを聴くのがアカショウビンの師走の儀式だ。昨年はヨッフムとロイヤル・コンセントヘボウ管弦楽団。1969年の6月4日から7日にかけて録音されたものを聴いた。ドイツ精神がオランダのオーケストラで壮麗に鳴り響いている趣の佳演である。

 今年はハイドン(1732~1809)没後200年だというので、聴き初めはハイドンから。30年かけて継続している交響曲全曲聴破の間欠泉の如き試みの再開である(笑)。先ずは41番ハ長調から。ヘルムート・ミュラー=ブリュール指揮のケルン室内管弦楽団の演奏。大オーケストラでないのが実に心地よい。他に58番ヘ長調と59番イ長調「火事」が収められている。

 9日の毎日新聞夕刊の「この国はどこへ行こうとしているのか」というシリーズ・インタビューで平山郁夫(以下、敬称は略させていただく)が話している。周知のように氏は広島で被爆された画人である。巷では100年に一度の不況だというのに「たった63年前」の敗戦の話が全然出てこないと慨嘆する。「広島や長崎だけではありません。日本の主要都市は米軍の空襲でほとんど焼け野原になった。何百万もいた軍人は全部失業しました。今の失業どころじゃない。住む家がない、食べものがない、着るものがない、薬なんてもちろんない~」。氏がスケッチ旅行で何度も訪れたアフガニスタン、イラク、中東、アフリカで見た現実は、敗戦の日本の現実と重なったと語り「今の日本人は、自分の国の大変な苦境の時を忘れてしまったんでしょうか」と問いかける。

 平成7年に中央教育審議会(中教審)や有識者会議で道徳を教科として教えるかどうか、が議論されたすえ、管理統制につながる、などの理由で結論は先送りされているようだ。「道徳だとか修身というのは、軍国主義に結びつくからということなのでしょうか。そうではないと思いますね」と述べ「私は、軍国主義というのは一種の原理主義だと思うんですよ。今、イスラム教徒の名の下でテロを引き起こしているのは、アルカイダとかタリバンとか、一部強硬な原理主義者たちです。排他的で考えの違うものは一切認めない。でも他の十数億のイスラム教徒は自由であり平等なんです」

 昨年のイスラエルによるガザ攻撃・侵攻でネット世界は侃々諤々の論評が渦巻いている。ユダヤ文化に詳しい方々ほど、その解決には匙を投げた論調が多い。その根の深さは暢気な日本人には介入不能の異質の国際世界というわけである。多くのユダヤ人は「十数億のイスラム教徒」と同様かもしれない。しかし利権のからむ政治屋や一部の「原理主義者」に扇動されて多くのユダヤ人たちが過激化しているとも思われない。簡略に言われる「憎しみの連鎖」は、どのように乗り越えられるのか。そこに架ける橋は幾つも試みられているであろう。しかし我が国マスコミの報道論調の温(ぬる)さは問題の孕む宗教への踏み込みに腰が引けているというより無学をさらけ出している。アカショウビンとて似たようなものだが新旧聖書とイスラム経典への知は、とりあえず書物に頼るしかない。前者は先年読んだ「死を与える」(ちくま学芸文庫 ジャック・デリダ)で創世記のアブラハムとイサクの物語の分析・論説が刺激的だった。後者は井筒俊彦の著作に得るものがありそうな予感もする。

 平山氏はアフガン内戦で住む土地を奪われ、パキスタンに流れ込んだ難民キャンプを訪れたときに出会った光景が忘れられないと述べる。

 羊の肉を持った貧しそうなアフガン人の男性が裸足で歩いていた。そこへ手が次々と差し伸べられた。すると男性は持っていた肉を少しずつみんなに分け与え始めた。手から手へと-。

 「結局、その男性の手には小さな肉の切れ端しか残っていませんでした。これが本当のイスラム人なんです。お互いに助け合おうというのです。日本だって同じですよ。軍国主義は一部の原理的な人たちが独走した結果。本当の日本精神といえば、絶対そうじゃない。日本は昔から八百万(やおよろず)なんです。寛容でいろいろなものを取り入れる民族性がある~」。

 暗殺されたマスード将軍の兄弟が来日し鎌倉の平山宅を訊ね氏に「アフガニスタンはどうしたら平和で新しい国に生まれ変われるか」と訊ねたらしい。氏は「やはり教育だ」と答えたという。「貧しくても、たとえタリバンの子であろうとも、勉強したいと思う子には差別なく、教育を授けてあげたらどうだと言ったんです~」

 「なぜ日本が戦争で焼け野原になって、あれだけのどん底に落ちたのに今日があるかといえば、いろいろな国際援助があったからです。そして平和だったからです~」と語り、「日本も人道的な面や福祉、技術支援や経済協力など、アメリカではできない、日本なりの国際的役割を果たべきです」。

 そして記者は氏に案内されたアトリエに「砂の色で下塗りされた絵が2枚、立て掛けてあった。イスラム教寺院のモスクが描かれてあった」と記している。

 また11日の毎日新聞朝刊の書評欄には今福龍太氏の「群島-世界論」(岩波書店)を沼野充義氏が評している。世界を「群島」として見るという壮大なビジョンが面白そうだ。島尾敏雄、折口信夫、早世した干刈あがたらも登場するらしい。カリブ海出身の詩人ウォルコットの「僕はノーボディか さもなけれりゃ一人で国家(ネイション)だ。」という「宣言」にも興味が疼く。沼野氏は、今福氏の著作のほかに「エクストラテリトリアル 移動文学論Ⅱ」(作品社 西 成彦)、「遠きにありてつくるもの」(みすず書房 細川周平)と並べて「『越境文学派』の旗揚げともいうべき画期的な事件が起りつつあるのではないかという印象を受ける。文化や言語の境界を超え、世界を自由に動きながら、言葉が湧き出る根源の場所に迫ること。それがいま読まれるべき、そして創られるべき世界文学ではないか」と書いている。

 なにやら面白そうではないか。沼野氏が引用している今福氏の序文の文章もステキだ。「・・・戦火の小宇宙を想像しながら、群島は自らの意思と感情のもとに世界の更新に向けて待機する」。ただ、この著作は5460円と高価である。無職のアカショウビンには家計に響く。とりあえず図書館にでかけてみよう。

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2009年1月 7日 (水)

新年の門出と家族の記憶

大晦日と新年は5日まで大阪と京都で過ごした。新年のテレビはお笑い番組とウィーン・フィルの「ニューイヤー・コンサート2009」を昨年よりはじっくり楽しんだ。テレビでは関西ならではの米團治の襲名披露と「親子酒」も。米朝一門の弟子達の口上が上方らしい。米朝も元気だ。今年は東西を問わず市井で景気回復への様々な思いが渦巻いているのも実感する。

またNHKテレビでは英国のベスというガーデニアンの番組に魅入った。庭作りを通して自然と共に生きる人という生き物の或る姿が興味深く伝えられている。それは正月を迎えて放映される意図とは別に、この世に生きる人間という生き物の意味を深く問うている。「天国」を、庭作りを通して実現しようという意思は洋の東西で通底するのかもしれない。

恒例のウィーン・フィルの「ニューイヤー・コンサート」も昨年よりはナマ放送も再放送もじっくり見た。今年の指揮者はバレンボイム。それほど期待して見たわけでもないが、曲目も演出も、とても面白かった。バレンボイムは、今年はハイドン没後200年、メンデルスゾーン生誕200年にあたるので、どちらにしようか迷ったが、ハイドンに決めて「告別」を演奏することにした、とインタビューで説明した。メンデルスゾーンも好きだけれどもハイドン・ファンとしては嬉しい話だ。アカショウビンは若いころハイドンの交響曲全曲聴破を試みたが達成できなかった。しかし諦めたわけでもなく、昨年も幾つかCDを買い求めた。没後200年に達成できれば泉下のハイドンも喜んでくれるであろう。今年の目標のひとつに立ててみようか。

コンサートの途中で、イスラエル国籍を持つ(生まれはたしかアルゼンチンの筈だが)バレンボイムが恒例になっている新年の挨拶の前に「美しく青きドナウ」を演奏し始めたのをしばらく止めてコメントした。それは中東の新たな戦火に対する嘆きと非難の凝集されたもので、会場にいらした中東女性と思われる夫人が目頭を押さえていたのも錯覚ではなかろう。

再開された「美しく青きドナウ」のバレーは六人の男女の子供たちが妖精のように舞った。目の覚めるような青と金色の衣装をまとった子供たちの何と愛らしくも美しく輝いていることか。まさに天上の舞だった。こういう子供達の天心爛漫が中東でも一日も早く実現することを心から願わずにはいられない。バレンボイムも66歳。これからが指揮者としてもピアニストとしても円熟の境地に入っていかねばならない歳とも思われる。更なる精進を祈る気持ちにもなった。

正月の手料理で居間と台所を往復しながら、昨年の大手術で疲弊した老母は身体はともかく表情や話し方に少しの弱気も見せない。父が平成4年の4月に亡くなり、しばらく弟と暮らしたあと弟が家を離れてからは一人暮らしを続けてきた。数年前には叔父の住む千葉の近くに転居して同居しようかという話も持ちかけたが、しばらく考えさせて、と言う。数日後に、友人も多い大阪の暮らしのほうが楽だからそっちへは行かない、と言う返事。その後も相変わらずの一人暮らしなのだった。

母は父が生前の頃から祖父母の遺影に水を欠かさない。父が亡くなってからは遺影がひとつ増えたが朝夕の祈りと規則正しい生活は変わらない。今年、病が癒えれば、82歳。病や人生に対して常に前向きで強気を崩さぬ姿は、わが母親ながら何と大した女かと頭が下がる。言葉にはならなくても親子で互いの心境は推し量られる。

何となく昔話をしていて、母はアカショウビンが小学校五年生の時に授業で使った裁縫箱を今も使っているというので驚いた。箱の蓋に自分で書いた自分の名前を見て感無量。親の子に対する思いの強さと深さを噛みしめ心で手を合わせた。親不幸な息子ではあるが、親の愛の深さは以前にまして慈愛という言葉と共に実感するのである。

母の人生の一端を文字に残しておくつもりで話を聴いた。アカショウビンが子供のころから聞かされて、母の戦争体験で子供心にも、現在も、もっとも興味を持っている話のひとつである。

昭和19年、母は芳紀17歳。大戦も敗色濃厚のころだ。すでに祖父や母たち家族は、生まれてから幼少期を過ごした島根県から祖父の故郷である奄美諸島の徳之島へ移住している。島根で四人の子供を残し先妻は病死。祖父は徳之島で後妻の祖母と再婚した。祖母は産まぬ四人の子を抱え、それは苦労したのよ、と母は昔話のなかで話していたものだ。巡査から印刷業に転じた祖父の仕事は決して順風満帆だったわけでなく、母は長女として昨年亡くなった叔父と共につらい仕事もやらされたと話していた。妹は4歳で病死。成績優秀で祖父も期待をかけていた兄も結核で早世した。生まれ育った土地とは異なる海で隔てられた徳之島で生活の苦労もしながら母は娘時代を生きた。そんなころに母は祖父の白内障の治療に付き添い、有名な眼科医のいた奄美大島の名瀬へ貨客船渡った。徳之島の亀徳という港から名瀬までは数時間かかる。本土の人々に島というイメージは小さな孤島のような感じを持たれるだろうが奄美大島は沖縄、佐渡に続く広さを持つ島で、山あり谷ありの起伏の大きい地形なのである。名瀬の港は入江になっていて天然の良港ともいえる。

ところが名瀬の港に入る頃に敵機に襲撃される。最初は日本機の訓練と思ったそうだ。ところが戦闘機は、こちらに矛先を向ける。民間の船にも関わらず攻撃は熾烈を極め、船の甲板は屠殺場のようだった、と母は眉を顰めた。「台風のような」銃撃を頭部に受けた知りあいの若い女性は機銃痕から脳漿が染み出て眼は白目を剥いていた、とも。また尻から腹に銃弾が貫通した若い女性もいた、とも。負傷者や死人を、言葉から鹿児島出身と思われる兵隊が応急処置に奮闘したそうである。祖父は娘を抱きかかえて守った。機銃掃射の銃弾の破片は母の腹をかすったが命は助かった。そのお陰でアンタや弟を産み、今もこうして生きていられるのだよ、と。その船旅には空襲も多くなっていたので本当はあまり行きたくなかったのだけどね、と話し、4人の子供の中で生き残った長女である母と叔父をこよなく愛した祖父が一人で行くことも気がかりだったので、紬を買ってあげるから、という誘いにのった振りをして同行したのよ、と微笑んだ。

母は話し出すと、次から次と思い出すことが溢れてくるという風情だ。術後の疲労と膝の痛みで動きは鈍くなっているが、記憶は明瞭。声も若い娘のように楽しげだ。これから、どれくらいの余生が残っているか知る由もないが、これまでの親不幸のいくらかは返していきたいと思うのである。

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