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2008年12月18日 (木)

問答の可笑しさと神秘的思考

  桂 枝雀の落語を聞いたことのない方には、その絶妙の面白さが伝わらない。だけれども、文字にして面白い場合がある。そうすると何やら別な意味をもって何かが現れるような気もする。書き写して眺めてみよう。 話は「鷺とり」。昭和56年10月6日、「大阪サンケイホール」での収録である。話のマクラに続く以下の枝雀節が可笑しい。

 「おまはん、あの何じゃで、どこにいてなはんねん。いっぺん聞こうと思たんやけども」

 「何ですか」

 「おまはん、今どこにいてんねちゅうねん」

 「えぇ、えぇ、どこにいてんねて、あんたの前にこうして座ってますけどね」

 「え、そうそう、いや、ま、そらわかったるけどな、お尻はどこに落ちつけてんね」

 「ええ、こうして座布団の上へ落ちつけてますけどね」

 「いやいや、寝起きしてるとこを尋ねてんねん」

 「おかげさんで、布団のなかです。まだ表で寝るところまでは落ちぶれてまへんねん」

 「いやいや、違うがな。お前の住んでるとこを尋ねてんねん」

 「住んでるって、人、狸みたいに言いなはんな。それやったら十かいの身の上でんね」

 「え?」

 「十かいの身の上でんねん」

 「お、これこれ、何じゃで、わしゃ、二階建ての家ちゅうのはちょいちょい見ることあるけど、十階とはまた高いとこへ住んでんな」

 「いやいや、私も二階ですけどね、よその二階に厄介になっていますので、二階とやっかいと合わせて、もう」

 「ややこしいもん合わせなはんな、これ。何ぞやってんのか」

 ・・・・・・・・・・・・・・・

 それは問いと答えの間に生ずるズレの面白さというものである。ぜひ、CDなりDVDで楽しんでいただきたい。その面白さは文字でも可笑しいが枝雀の声と語りで聴けば卒倒しかねない。

 同様な、「隔靴掻痒」と例えられもしよう、不満とも苛立ちともなって読む者に興味と関心を掻き立てる次の文章の不思議な不可解さは、先に挙げた枝雀の噺と、底というか裏というか、そういうところで、合い通じるものも関知されそうな。とにかく写しておこう。

 そして有(以下の文の同語の右側には、すべて黒点が付されている)の接合条理の内へと接ぎ合わせつつ、われわれは接合の指示に従って神々に仕える。(注 「接合~」は強調の読点が付されている)

 探求することそれ自体が目標である。そしてそのことが意味するのは、「諸々の目標」がなおもあまりに前面に出過ぎたものであり、いつも有の前方で設定されてしまい-したがって必然なものを埋め塞いでしまう、ということである。

 接合の指図に従って神々に仕える(「接合~」は強調の読点が付されている)-これは何のことなのか。神現(GÖtterung)の開けがまずはなおも語り拒まれたままであるがゆえに、神々が決定されざるものであるとすれば、どうだろうか。上記の[接合の指図に従って神々に仕える]語が意味するのは、この開けを開き明けることのなかで任に用いられることGebrauchtwerdenのために、接合の指図に従う、ということである。そして、まずこの(「この」に強調の読点)開けの開性をあらかじめ気分において調え、この開性に向けて気分の調えを実行しなければならない者たちは、最も苛酷な任に用いられている。そのことを彼らは、真理の本質を究思して問いへと高めることによって、なすのである。「接合の指図に従って神々に仕える」-この語が意味するのは、遥か離れて外に-「有るもの」とその諸解釈の(世間的)通用性の外部に-立つということであり、最も遠い者たちに属すということである。これら最も遠い者たちにとり、神々の出奔は、その最も遠方への脱去における最も近いものでありつづける。

 これは我が国の祝詞ではなく、また呪文でもなく、哲学的言説というにも、あまりに神秘的な衣を纏った姿をしている文言である。それは、「これは、このような意味なんですよ」と説明、解説すれば事足れることを語ろうとしているものなのだろうか。どうも、そうでないようにも思える。それで済むものではない響きを聴き取るのは錯覚だろうか。それは、この記述の前に次の文章があることによって、かろうじて、その難解さに挑ませる力を掴む気がするからでもある。

 稀なる者たちのために。彼らは孤独への最高の勇気を携えて有の高貴さを思索し、その唯一性について語る。

 稀なる者たち、というのは記述者が待ち望む人類の歴史の遥か先に出現するであろう人のことである。それは喩えは適切ではないが釈迦やイエスのような人なのかもしれない。そのような人たちを想定して記述者は彼らと有について何事か、それは神秘的としか受け取れないような言い方で述べるのである。

 では、先に写しとった枝雀の落語をCDで聴いて面白さがよくわかるように、果たしてこの文言が書いた人の原語として、また言葉として聴かれれば理解できるだろうか。翻訳された文章を読むよりは幾らか理解が深まるかもしれないが、かえって更なる深みにはまっていくような(笑)疑念も湧いて来る。それよりは、ドイツ語から日本語に翻訳された記述として眺め、あぁなのか、こうなのか、と今のところは繰り返し昧読するのが神秘の奥に何か灯りのようなものを発見する生兵法のようにも思うのだが。

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