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2008年12月11日 (木)

任侠ヤクザ映画を楽しむ

 先週、映画監督マキノ雅弘の作品を集中して観たあと、引き続き高倉 健(以下、敬称は省略させていただく)、藤 純子主演の加藤 泰監督が受け継いだ任侠やくざ映画の未見の作品をレンタルDVDで続けて観ていると何か血が騒ぐ(笑)。アカショウビンが学生の頃は学生運動が収束の過程にある頃だった。映画といえば当時の欧米作品から黒沢作品や小津の往年の日本映画にも親しんでいった。そして、たまに上映された吉永小百合特集の日活映画や東映任侠映画はリバイバルで観た。

 しかしマキノの戦前・戦中、戦後のモノクロ作品から昭和30年代以降のカラー作品を観ていると、映画がいかに大衆娯楽であったかという思いを新たにする。当時の庶民の楽しみの一つは映画だったのである。地方で旅役者たちの芝居を楽しみにしていた人々には映画は安くて楽しめる娯楽として登場した。マキノ正博がマキノ雅弘に改名して取り続けた戦後の作品は正に玉石混交の時代といえる。

 マキノ雅弘は生涯に何と260本余の作品を撮っている。正に活動屋、映画職人である。会社の方針・計画に従い何でも撮る。それは寡作で完全主義者の小津安二郎ら芸術派とも称される巨匠たちとは対極に立つ映画監督である。敗戦後の物資不足の世に映画という娯楽を届ける使命感でマキノは作品を撮り続けた。その過程で国は復興の息吹のなかで観衆の好みも変容していく。その大きな、うず潮の中に古い映画作家たちも翻弄される。黒沢や小津は自らの作品への完璧主義から世界に通用する作品を完成させることが出来た。しかしマキノはどうか。晩年の任侠映画路線で到達したのは芸術性とは無縁に撮り続けた人の様式美(@加藤周一)というものである。作品構造は、どれもさほど複雑ではない。利権にまつわるヤクザと侠客の確執に絡む義理・人情など多くの日本人の感性に訴える内容である。

 それが加藤 泰らの次の世代の監督たちに継承され加藤周一や三島由紀夫らの知識人、小説家に礼賛され斜陽になりかけの映画館が久しぶりに若い観客を獲得する。

 その作品群は、加藤周一が藤 純子の引退に際し「ヤクザ活劇の光栄は(・・・)正に即自的に社会的・美的過去を要約しながら完璧な様式美に昂めたことである。すべての完璧な美のように、そこに未来はない。故に曰く、藤 純子よ、さらば」とか三島が「日本文化の伝統を伝えるのは、今ややくざ映画しかない」と絶賛したことに裏打ちされている。

 失業の身の上で映画館通いは家計に響く。しばらくはレンタルDVDでの鑑賞で自粛しよう。とはいえ、健さんの男気や藤 純子の匂い立つような色香は実に感嘆おくあたわずである。

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