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2008年12月10日 (水)

死刑制度反対の一つの論拠

 EU諸国の中でフランスが死刑制度を廃した論拠のうちにミシェル・フーコーの反対理由も国内では議論された事と察する。辺見氏の新著「愛と痛み 死刑制度をめぐって」(毎日新聞社 p67)には注釈で紹介されている。要約すれば次の通り。

 フーコーは死刑制度と終身刑にも反対する。近代において監視や管理が強化され、公共圏(これは辺見氏が忌避する我が国の「世間」とは異なる、ハンナ・アーレントやユルゲン・ハーバーマスが用いる意味であろう)が縮小してゆく過程を「生権力」という概念を用いて分析し監獄における囚人の待遇改善を求める政治行動にも参加した。フーコーは死刑を刑罰機能や精神医学との関係から捉える。その論旨は、死刑と終身刑は、犯罪者の矯正は不可能だとする理由で行われるが、犯罪者の矯正可能性を判断するのは司法でなく精神医学であるとして、精神医学のくだす判断自体、純粋に中立的な判断とは断定できないのだから、矯正(不)可能性に関する判断を司法は(精神医学自体も)すべきでない、というものだ。

 この論理はフランスやドイツの西洋流とでもいうものである。デカルト、カント以来の近代西洋哲学の主柱ともいえる論理学に鑑みた論理展開といってもよい。敢えて言えば近代西洋哲学の歴史に棹差した論理の内での反対論で、観念論の呪縛から脱却していない消極的反対論と見做しても差し支えないと思う。ハイデガーが批判したカント以来の近代西洋哲学への視角をフーコーが知らないはずもない。しかし現在のところフーコーの論拠は辺見氏の著作の注釈で知る限りであることはお断りしておく。フーコーの著作で辺見氏指摘の箇所を特定し更に考察していきたい。

 それではアカショウビンは、どのように反対論を展開できるだろうか。欧米の近代史は辺見氏もインタビューで対した米国のチョムスキーが告発するように血塗られたものだ。その矛盾を乗り越えるというより偽善とも欺瞞ともいえる論理で制度を廃した。そこには伝統的なユダヤ・キリスト教的土壌やバチカンの意向もはたらいているだろう。それは政治的、宗教的な土壌と歴史過程も踏まえた偽善といってもよろしかろう。それでも我が国のように間接的な殺人に加担することに同意する国民が7割~8割生活している現実の愚劣よりはまし、と辺見氏は唾棄するのだ。

 アカショウビンの反対理由は、かつて小田 実が叫んだ「殺すな」という絶叫とでもいうような声に耳傾けようではないか、というものである。そこに聴こえるのは空襲で焼き尽くされた大阪で無辜の死の姿を目の当たりにした人間の発する声でもあろう。それはやられたらやり返すという職業軍人の冷徹な思考ではなく、虫けらのように親・兄弟を殺戮された人間の根底からの声とも解される。

 それにひとつの説明を加えれば人間以外の動物・植物・生物の生命も含みこみ世界・宇宙を捉えようとする仏教的な生命観が突破口となるかもしれない。大拙の禅を通じた仏教の宇宙観・生命観は西洋にも理解される言説・論説であるようだ。そこに東は東、西は西といった二元論を越える豊饒な思索の可能性が発見できそうにも思うが如何であろうか。それが消極的な死刑制度反対論から積極的な反対論に変容するのは一人一人の思索と行動にかかっていると思われる。

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