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2008年12月 5日 (金)

死刑制度再々再考。

 辺見 庸氏の「愛と痛み 死刑制度をめぐって」(毎日新聞社)が発刊されたのを新聞広告で知りさっそく購入し読んだ。この著書の元になった講演は4月5日に行われアカショウビンも会場の九段会館まで出かけ聴いた。そのときのメモを元にした感想はこのブログにも書いたので繰り返さない。講演原稿を修正して文字にされた著書を読み終えて新たな感想も得た。そこから、この制度への新たな考察を継続してみたい。

 いうまでもなく日本国はこの制度を世界の趨勢にも関わらず頑なに維持し続ける国民国家である。EUに加入するためには死刑制度を排した国家というのが条件である。EUのホームページに記されている文言はアカショウビンも読んだ。しかし、そこにある理念はともかく9・11のときの彼の国々の偽善といってもよい欺瞞は辺見氏も承知している。そのうえで氏は彼の国々と日本国の差異を絶望的な憤りを込めて告発するのである。そこに氏の独特の踏み込みがあり共感せざるをえない。それは間接的な人殺しという制度への加担を偽善にしろ欺瞞にしろ拒絶する国々と、平気にか無念の思いからか敢えて承諾する国民に支えられた国の間に存する何か決定的な違いと見なしてよかろうと思う。

 この国では統計によれば7~8割の国民が制度を認めているといわれる。それは刑の執行を公開にしろ非公開にしろ、それを見せしめにして凶悪犯罪を抑止する意図とそれを容認する国民の合意を元に制度を維持し続ける国の是非が問われていることでもある。絞首にしろ、かつての磔刑、銃殺、斬首(現在もある)という残酷な刑にしろ、それを容認し、その現場を眼にする状況というのは如何なる現象なのか?そこで人は或る種の恍惚境に支配されているのではないか。そこで憎しみは殺人の現場に居合わせ忘我状態になるのであろう。

 江戸から明治にかけて、そのような見せしめの刑が執行された。世界史ではイエスの殺人に為政者と民衆が加担した。EUが死刑制度を廃止したのには宗教的土壌を強く意識した歴史認識がはたらいているはずだ。偽善といい欺瞞と辺見氏が指摘するところは、そのような異文化に対する鋭い違和があるに違いない。その意識をアカショウビンも共有する。しかしながら氏はマザー・テレサというキリスト者の言説 ・行為を引き合いに出し「愛」という優れて西洋的な概念を通して死刑制度を弾劾する。

 氏がこの著作で十分に展開されていない論説があるとすれば死刑制度とキリスト教という宗教土壌の下での様々な論説の展開と確執であるに違いない。それはマザー・テレサという稀有の女性の書かれた言葉と行動に眼配りすることで済むものではない。その視角から更に思考を進めていきたい。

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