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2008年11月 7日 (金)

人の生きる時間

 人がこの世で生きる時間ということを時に考えるのだ。そんな暇があったら仕事しろよ、という声は承知のうえで。キリスト教徒が「神」を信じると公言するようにアカショウビンは「神」という存在を信じるわけではない。仏教でいう「仏」は「神」とは異質の、それは概念というのか存在というものであろう。大拙を読み禅者の「悟り」という境地も俗世間の垢にまみれたアカショウビンには茫然とするしかない境地である。端座し瞑想し或る境地に至る可能性とは禅を通じて仏教の伝統の修行法である。念仏や題目は形は違えど仏教の衆生救済のひとつの形であろう。

 洋の東西を問わず生と死という対概念で人は現世と彼岸を知ろうともがく生き物なのだ。大拙の説く「霊性」という概念はキリスト教の神とも通底して思考される時空を共有していると思われる。

 肉親の死で人は何を了解するのだろうか。それはそれぞれの個人の数だけの多様性をもつものではあろう。しかし、さて次の世はあるのだろうか、と問うことはナンセンスのようにも思えるが生死の土壇場で人は深く己の生をふりかえざるをえない思考に絡めとられる。俳優やニュースキャスターの死が報じられ人は少し我が身をふりかえるが土壇場ではない。他者の死を人はどれくらい自分のものとして了解できるか、という問いに対する答えはどれほどの意味を形成するのか。哲学で死は了解できても人間ひとりの生の幾分かにも達することはできない。

 では宗教的にはどうか。来世や天国、極楽浄土は存在するのか。それはひとえに信仰の厚薄によるのであろう。しかし歳を経てますます懐疑と不安とに支配されがちな人間にとって残された生きる時間を含めて、それは喫緊の問いでもある。

 病に倒れた人が余命を宣告された時に何を考え、行動に移すかは千差万別であろう。彼や彼女は来世を思考するだろうか、それとも家族や友人との別れを準備するであろうか、あるいは自ら死へ衝動的に走ることもあるだろう、自らはどうかと問うてみても簡単に回答はできない。その問いの周辺を巡るだけだ。

 アカショウビンは道元が正法眼蔵の「生死」で次のように記しているのを繰り返し反芻し思索の縁としている。

 生より死にうつると心うるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきあり、のちあり。かるがゆゑに、仏法の中には、生すなわち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、又さきあり、のちあり。これによりて、滅すなわち不滅といふ。生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし。かるがゆゑに、生(しょう)きたらばたこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとふことなかれ、ねがふことなかれ。(「正法眼蔵」(四) p467 岩波文庫版)

 道元の境地は遥かの高みにあるとしても、人は限られた生きる時間の意味をまさぐる。今、この時間にも生死をさまよう人々が共時的に存在している。その幽明境はいかばかりか。私たちは祷るしかない。祷る、ただ祷る。道元が、ただ座れ、というより私たちは祷る。あぁ、この祷りは彼や彼女に届くだろうか。届かぬとしても私は祷るしかない。共に世に棲んだ日々を哀切をこめて懐かしみ苦しみを越えて彼岸に達し心安かれ、と。

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