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2008年11月12日 (水)

時の流れに

 時の流れに、とくればテレサ・テン、と反射的に答えるのがオヤジのサガか。それは暗黙の了解だろうが、と周りを見渡しても若い女性連や諸淑女からは鼻でせせら笑われるのだろうな。そう思いながらもそう書かないと話が進まないのがオヤジという生き物なのである。あはれオヤジ、涙流れて止まず。最近とみに涙腺がゆるくなっている。つまらないテレビドラマでも或るシーンは脳裏でストップモーションに。しばし勝手に妄想し時に嗚咽、時に号泣。どうも生来の分裂症(とは言わないそうだ統合失調症。そんな訳のわからない日本語が何でまかり通るのか!日本語の乱れも正さねばならぬ!と叫んでも鳩に豆鉄砲か)がまたぞろ発症か。などと時が過ぎれば己を冷笑する。

 「生きる時間」というのは「限られた時間」でもある。オヤジという生き物は生きている時間が残り少なくなっている人々でもある。体の不調をしばしば経験すると無理も段々利かなくなる。人生とは、と柄にもなく少なからず焦りだす。そこらのニイチャンやネエチャン達にはわかるまい、と毒突いても蛙の面に小便か(はしたなくて恐縮)。

 米国の大統領が代わろうが国会で前航空幕僚長が己の信ずるところを不敵に弁じ言論の自由が喋々されようが先ずは我が身である。この島国は景気が落ちようが政府がアホのように国民をナメて金をばら撒こうが、ミサイルでも飛んでこない限り昭和元禄から平成太平と根底からの変化は生じそうもない。

 芭蕉が野ざらしの旅に出た時に記している文章が心に沁みる。

 「長月のはじめ、故郷に帰て、北堂の萱草も霜かれ果て、跡だになし。何事もむかしにかはりて、はらからの鬢白く眉皺よりて、只命有てとのみいひて、ことの葉もなきに、兄の守袋をほどきて、母の白髪おがめよ、浦島が子の玉手箱、汝が眉もや老いたりとしばらく泣て、手にとらば消ん涙ぞあつき秋の霜」

 

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コメント

「古里や臍のをに泣としのくれ」
何故か、前年の葬儀に行けずじまいになってしまった。
他界した母への思慕、慟哭ですね。

9月から10月にかけて、関西、仙台、忍野と旅に出ました。(と言いたいところですが、現実は法事と野暮用で慌しい日程でしたが)西行と芭蕉と万葉集の一部を携えていきました。(たまには本も傍らに置くのですー笑)
時間の許す限り、自然の中に身をおきました。
そして夜な夜なそれらを読みました。

>心に染みて

感じれば感じるほど、「人生」に対して落ち込まざるを得ませんでした。
まったき大自然の中に在って、どうしてそう思うのかと拙く考えました。
自然のエネルギーは、愚かな人間の生死なんて何の其の、幾千年もそのようにあるのに。

母の胎内に在る時から、ちぢに乱れるせせこましい人間模様にドップリ浸かってきた悲しい性故なのでしょうか。

ですが、前に書きましたように、「北斎」を見ると、そういうじめじめした発想法からは、絶対にアプローチできない凄さを感じて、やる気になるのです。(笑)

「そうなのだ!」と思います。

投稿: 若生のり子 | 2008年11月14日 (金) 午前 11時48分

 若生さん

 >「北斎」を見ると、そういうじめじめした発想法からは、絶対にアプローチできない凄さを感じて、やる気になるのです。(笑)

 ★同感です。北斎作品の、おおらかさというのか突き抜けかた、とでもいうような印象は素晴らしく、凄く、見事なものですね。
 関西、仙台、忍野とは本当に東奔西走で、お疲れ様でした。私も西行、芭蕉、万葉集は歳を重ねる毎に、読み返すと味わいが深くなります。私も関連の書物を並行して読んでいますが柿本人麻呂が気になってしょうがありません。一昨年、古本で昭和19年版の茂吉の「柿本人麻呂」を買ったのですが未だ積読状態です(笑)。

投稿: アカショウビン | 2008年11月15日 (土) 午前 10時11分

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