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2008年11月23日 (日)

記憶の往還

ヒトの脳に記憶はどれくらい残されているのだろうか。先祖の記憶や、それ以前のものまで含めると、夢の中には、それが変形されて出て来るものもあるだろう。父や母や祖父母から更にそれ以前のものまで遡って脳に受け継がれる記憶とは何か?それは脳だけでなく肉体の細胞の一つ一つにさえ受け継がれるはずだ。身体と脳の連関でヒトの肉体は決定され現在を生きる。そこで精神は記憶を駆使し時空を往還する。それは文字を通して或いは語りで後の世までヒトに継承される。人間という生き物は、そこで他の動物と異なった進化の道筋を辿った。

 そして、この世に棲む時というものの不可思議さと或るとき人間たちは格闘する。

 「在日一世の記憶」(集英社新書 2008年10月22日 小熊英二・姜 尚中 編)を読むと、そのようなことを思い巡らすのである。二世や三世に、その苛酷な記憶はどのように伝えられるのか詳らかにしない。それは記憶と場所と個人の語りと遺伝子で引き継がれていくのであろう。聴き取られた記憶は千差万別であり、それはごく一部でしかない。鬼籍に入った人も含めて51人のそれぞれの記憶が一冊の書物にまとめられた。これらの記録を通して編者たちは、読者に語り手たちが生きた時を、読む者のなかで往還させ、何事かを読み取らせようと意図している。何事かとは差別された者たちの声であり、その反照としての差別した者たちの姿でもある。その反照は読む者の想像力に託される。

 記憶と体験が必ずしもすべて後の世の人々に伝えられるわけではない。ところが時に新たな発見として過去の或る時の光景が生々しく明るみに出される。本日の毎日新聞の書評欄で鷗外が日露戦争に従軍した頃の日記に記された詩が紹介されている。評者の川本三郎氏の文章を引用させていただく。

 中国のある村で逃げ遅れた娘が兵士に犯された。娘は恥をさらして生きるよりはと罌粟(けし)の花を大量に食べて自殺を図る。それを見た母親が罌粟を吐かせようと娘に人糞を食べさせるが、どうしても吐けない。そこで通訳から鷗外に知らせが入り、催吐剤を飲ませた。

 この詩を鷗外は「罌粟(けし)、人糞(ひとくそ)」と名づけ「うた日記」に残しているらしい。

 川本氏は鷗外が日清戦争に従軍したとき旅順の日本軍の民間人虐殺を知っていた可能性が高いと指摘している。しかし軍医として国家に忠実であった鷗外は戦争に勝利するため全力を傾けた。ところが文学者としての鷗外の中で国家と個人がせめぎあい、川本氏は、「森鷗外と日清・日露戦争」(平凡社)の著者の末延芳晴氏は、その「切実な魂の劇を、戦場にあって鷗外が書いた日記や詩、漢詩や和歌を丁寧に読み込んで浮かび上がらせてゆく」と評している。

 保田與重郎は「蒙疆」の中で昭和13年5月から一月余に半島の慶州から満州、蒙古を師の佐藤春夫らと旅した記録を残した。それは鷗外の視角とは異なる文学者の記録である。戦争の悲惨と苛酷だけではない暢気な日常もそこには記されている。一方、「在日一世の記憶」は苛酷な歴史の現実を生き抜いた市井の人々の語りの集成である。

 これらの記録と文章を読むことで果たして歴史の視界はどれほど開かれてくるのか。それはひとえに読む者の想像力に任せられている。

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