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2008年10月13日 (月)

世に棲む日々と生死

 俳優や有名人の死がマスコミを賑わすけれども、多くの市井の人々の生死も、そこここでの現実であるのは言うまでもない。人は病や事故、事件によって、苦しみながら、あるいは突然に死に至る。近親や縁者は死の何たるかに身近な人を通じて遭遇する。世界一の長寿国となっても死に至る苦しみと周囲の人々の悲しみに差はない。

 緒形 拳の死はマスコミ報道から知ると従容と死を受け入れた見事な死に方とも察せられる。友人の津川雅彦氏の話や御家族のお話から察せられる死の姿は、アカショウビンも、いつか死にゆく時には、かくありたいものと感銘した。

 死についてハイデガーは「存在と時間」の後半で綿密に分析している。この難解を極める主著のなかで白眉をなす箇所だと思われる。近く読み直し人の死とは何か、という問いと自らの死への覚悟も含めて熟読しておきたい。

 仏教者の生死観については道元の次の文章をアカショウビンは思索の水先案内としている。

 「かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生(しょう)とならず。しかあるを、生(しょう)の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生(ふしょう)といふ。死の生(しょう)にならざる、法輪(ほふりん)のさだまれる仏転(ぶつてん)なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。」(正法眼蔵(1)「現成公案」岩波文庫版 p56)

 道元や鈴木大拙のような強烈な禅者の文章を読むと自ずから襟を正さざるをえない。しかし満員電車に揺られる一時間の読書の時の覚悟も昼間の仕事で雲散霧消するのが凡人の習いだ。

 人の生死を道元や大拙のように達観は出来ぬけれども心構えと覚悟だけは先人の顰にならい修練しておきたいものと思う。

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