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2008年10月 5日 (日)

或る死の光景

 先週の新聞書評で読んだ「小高(おだか)へ 父 島尾敏雄への旅」(島尾伸三著)を購入し読んだ。一人の作家が、夫として、父として、祖父として、親類達の縁者として、どこにでもあるような生と死を生きた証を確認する。或る時期に同じ南の島の小さな街で共時的に住んでいた者からすると地名などから記憶の中の風景も甦る。小説や評論や書評や、また他の作家の随筆で断続的に読み継いできた作家の死の光景が眼前に描かれたように錯覚する。

 島尾敏雄が亡くなったのは1986年11月12日だった。その知らせは新聞で知った。現在の日本人の寿命からすると早い死とも思われた。しかし、寿命は寿命である。その頃までに作品の幾つかは読み、吉本隆明さんや埴谷雄高の作家論や追懐の文章にも眼を通した。それは大戦を経験したアカショウビンの父の世代の生き方と呼応して付き合い続けた縁というものだった。

 作家の名は中学生の頃に担任の教師から聞いた。アカショウビンの父は仕事か何かの縁で会ったこともあるようだ。そんな話を聞いたことを想い出す。アカショウビンも教師の話から興味を持ち、図書館で島尾氏の姿を垣間見たことがある。それから東京での学生生活を終えて社会人になった頃に総武線の飯田橋あたりで雑誌で見た憂い顔の作家が数歩先に佇んでいるのを見た。それは高名な作家というより生活に疲れた中年男という風情だった。

 その長男の文章によって知る作家の死の光景は、どこにでもある死と弔いの風景と光景でもある。しかし精神を病んだ母や妹の姿を文章で辿ると長男もまた少しく精神を病み病んでいることが知られる。息子や長男の嫁に命令する母は、どこにでもいるような母であり姑であるが、その半生を文章で知る者にとっては息を呑み、その光景を眼前にする思いもする。 

 小高には島尾と同郷の作家、埴谷雄高と共に「埴谷島尾記念文学資料館」なるものがあるという事も初めて知った。アカショウビンは高校、大学と開高 健や埴谷雄高、吉本隆明さんの著作と共に新聞や雑誌で島尾敏雄の生をも風の便りのように聞いていた。奄美の名瀬から沖縄の那覇、神奈川県の茅ヶ崎、そして終焉の地、鹿児島の宇宿(うすき)へと移住を続けた一家の主の死の光景が童話のように優しげで壊れやすい精神の独特の文体と文章で綴られた。新聞で書評をされた堀江氏の文章を抜粋した前のブログの、親子が父の骨を食べる箇所の続きを同書から引用させていただくのを赦されたい。

 妹やマホが居なければ、おかあさんは私に「殺しておくれ」・・・と、言ったに決まっています。ええ、私はきっと、その命令を忠実に実行したはずです。そう言われなくても、ぶち殺しそうでした。どうせ、地獄へしか道のない私なのですから。私の心のどこかに、悪魔なのか守護の聖人なのか天使なのかが住んでいて、おとうさんやおかあさんのように自分で自分の人生を制御することが出来ません。彼らの声に従って生きているだけなので、乱暴なことが好きでありません。私の身体の自然は静寂なのですから。(同書 p176)

  この苛烈な経験を経た親子の別れを弔う伸三氏の文章は時に童話を読むような印象を受ける。記憶の彼方を辿りながら綴られる文章はアカショウビンの記憶とも呼応して、世相を鋭い刃のように抉る。島尾敏雄やミホさん、伸三氏の書かれたものに、これからも付き合い続け、アカショウビンもいつかこの世を後にする。げに人の業というものよ、とも思う。業とはクリスチャンであったミホさんや敏雄氏にはそぐわない術語と概念だが、アカショウビンは、その言葉を反芻しながら記憶を辿り己の生をも振り返るのだ。

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