« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »

2008年10月23日 (木)

或る死の光景、その2

 或る本を本屋で見かけ関心のある箇所だけ立ち読みし結局購入した。その関心のある箇所というのは保田與重郎の訃報を知り、すぐに駆けつけた79歳の小林秀雄の姿である。

 保田與重郎が息を引き取ったのは昭和56年10月8日。その光景を引用させて頂く。

 そこに、ずっと正座していたのですよ。

 と、指をのばして示してくれた。

 十二畳ほどの部屋の、その縁側である。

 ・・・・

 「ずっと、板の上に座ってはって。いくらお勧めしても、畳の上には進みはりまへんでした。顔、見てやってくださいと云うたのですが。背中を丸うして、ちっちゃくならはって、ずっと、ここに座ってはりました。一言も、お話になりません。いや、何か、呟いてはったような気もしますけれど・・・」

 と、もう一度指さした。

 これは保田の奥様であろうか家族の方に取材した話だ。それは小林秀雄の保田與重郎への深い敬愛とも察せられる。しかし生前は殆ど会う事もなく著作にだけは眼を通していたであろう、戦前・戦中・戦後を文士として批評家として生き抜いた「戦友」に対する深い哀悼の情というものが伝わってくるではないか。

 この二人の批評家の著作を読むことはアカショウビンの余生の楽しみというものである。文章を読み元気を出すことは小林がニーチェを読み元気を出すのと同じである。身過ぎ世過ぎの消耗戦で一生を終えるわけにはいかない、という衝動が五十歳を過ぎての退職と一年間の休養と転職の動機である。人生は多くが消耗戦だとしても転戦で実りある戦いの少しはやっておきたいというのが人情というものであろう。

 この本というのは木田 元氏の「なにもかも小林秀雄に教わった」(文春新書)である。保田與重郎の死に立ちあった引用は福田和也氏のもの。福田氏の著作には縁のないアカショウビンだが保田與重郎や小林秀雄に対する関心は木田氏や福田氏と同様だ。ハイデガー読解でお世話になっている木田氏が最近は保田與重郎を読まれているというのは嬉しいことである。それに小林秀雄に、そんなに影響を受けたということも。この著作にもハイデガーが要所で引用されている。それらにも啓発されながらハイデガーも読み直し読み続けていこうぜ、と元気が出てきた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月19日 (日)

久しぶりのピアノ・リサイタル

 昨年3月末、18年間務めた会社を辞め一年間無職だった。その頃に知人を通して付き合いのあった方が後援者になっているというので土曜日の午後、何年ぶりかでピアノ・リサイタルに出かけた。高校の友人I島君も誘って。会場は麻布区民センターホール。ピアニストはユサップ ヒマワン氏。1980年、インドネシア生まれ。容貌は中国系とも見えた。大柄な体格で身のこなしはゆったり。15歳でシンガポール留学の奨学金を得て上海、米国でも学んだという経歴。このリサイタルもシンガポール大使館が主催し中国、インドネシア大使館が後援している。

 曲目はハイドンの第62番のソナタから中国民謡の編曲、ショパンのノクターン第5番、バラード第3番、6つの中国歌謡曲と続いた。15分の休憩の後はアヴェ マリア(結婚式の曲)、フンメルのピアノ協奏曲第2番、ショパンの序曲とロンド第3番で締めた。淡々と弾き続けた約1時間半のプログラムだったが盛んな拍手でアンコールに日本の「さくら、さくら」変奏曲と大使館の恩人と思われる女性に捧げた曲。心のこもった素晴らしい演奏で、こちらも胸が熱くなった。

 会場は六本木の駅の近く。終了後は会場近くのシンガポール大使館でティー・パーティも開くというご案内。柄にもないところはパス。駅近くのラーメン屋でI島君と餃子とメンマを肴にビールと日本酒。友人のN君も有楽町にいるというのでお呼びたて。3人で、ここ数年、高校の同窓の連中との忘年会の会場となっている店へ。割烹着姿で、にこやかな女将の日本料理と日本酒で夜は更けた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月13日 (月)

世に棲む日々と生死

 俳優や有名人の死がマスコミを賑わすけれども、多くの市井の人々の生死も、そこここでの現実であるのは言うまでもない。人は病や事故、事件によって、苦しみながら、あるいは突然に死に至る。近親や縁者は死の何たるかに身近な人を通じて遭遇する。世界一の長寿国となっても死に至る苦しみと周囲の人々の悲しみに差はない。

 緒形 拳の死はマスコミ報道から知ると従容と死を受け入れた見事な死に方とも察せられる。友人の津川雅彦氏の話や御家族のお話から察せられる死の姿は、アカショウビンも、いつか死にゆく時には、かくありたいものと感銘した。

 死についてハイデガーは「存在と時間」の後半で綿密に分析している。この難解を極める主著のなかで白眉をなす箇所だと思われる。近く読み直し人の死とは何か、という問いと自らの死への覚悟も含めて熟読しておきたい。

 仏教者の生死観については道元の次の文章をアカショウビンは思索の水先案内としている。

 「かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生(しょう)とならず。しかあるを、生(しょう)の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生(ふしょう)といふ。死の生(しょう)にならざる、法輪(ほふりん)のさだまれる仏転(ぶつてん)なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。」(正法眼蔵(1)「現成公案」岩波文庫版 p56)

 道元や鈴木大拙のような強烈な禅者の文章を読むと自ずから襟を正さざるをえない。しかし満員電車に揺られる一時間の読書の時の覚悟も昼間の仕事で雲散霧消するのが凡人の習いだ。

 人の生死を道元や大拙のように達観は出来ぬけれども心構えと覚悟だけは先人の顰にならい修練しておきたいものと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月 7日 (火)

緒形 拳 追悼

 緒形 拳の顔と姿に鮮烈に出会ったのは中学生の頃に観たNHKの「太閤記」だった。飄々として愉快な秀吉を実に面白く見た。信長役の高橋幸治、石田三成役の石坂浩二も想い出す。浪花千栄子、藤村志保も。アカショウビンが大河ドラマを夢中になって観たのは第6作の「竜馬がゆく」までだった。珍しくマメにみたのは「風林火山」。脇役で緒形 拳が実に渋く味のある演技をしていた。

 高校時代に新国劇の辰巳柳太郎の舞台を見て俳優になることを決意したという。辰巳の姿をスクリーンで観たのは「人斬り」(1969年 五社英雄監督)が鮮烈だった。冒頭シーンで吉田東洋役の暗殺シーンを見事な殺陣で演じた。この一作で辰巳柳太郎という役者の存在感を了知し、緒形が惚れ込んだ理由の少しを然と納得した。石原裕次郎の見事な大根役者ぶりと三島由紀夫の堂々とした俳優ぶりも想い起こす。

  長じてテレビ少年から映画狂に変貌したアカショウビンが「太閤記」の秀吉以来、見事な俳優として記憶に留めたのは「鬼畜」(1978年 野村芳太郎監督)「復讐するは我にあり」(1979年 今村昌平監督)だ。「砂の器」「楢山節考」「火宅の人」「女衒」と傑作、佳作に出演し名優として評価を得たものと確信する。

 アカショウビンが最後に観た作品は、この夏にNHKで放映された「帽子」というドラマだった。広島で原爆に被災した男女の生死を描いた佳作だ。ドラマでは恋人役の田中裕子が死に、緒形 拳は生き残る役だった。出演作品は選んでいたという。「太閤記」以来、最後に良い作品を観られてアカショウビンは満足だ。現在の長寿社会からすれば少し早い死だが、俳優として見事な一生だったと哀悼する。(以上、敬称略)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月 5日 (日)

或る死の光景

 先週の新聞書評で読んだ「小高(おだか)へ 父 島尾敏雄への旅」(島尾伸三著)を購入し読んだ。一人の作家が、夫として、父として、祖父として、親類達の縁者として、どこにでもあるような生と死を生きた証を確認する。或る時期に同じ南の島の小さな街で共時的に住んでいた者からすると地名などから記憶の中の風景も甦る。小説や評論や書評や、また他の作家の随筆で断続的に読み継いできた作家の死の光景が眼前に描かれたように錯覚する。

 島尾敏雄が亡くなったのは1986年11月12日だった。その知らせは新聞で知った。現在の日本人の寿命からすると早い死とも思われた。しかし、寿命は寿命である。その頃までに作品の幾つかは読み、吉本隆明さんや埴谷雄高の作家論や追懐の文章にも眼を通した。それは大戦を経験したアカショウビンの父の世代の生き方と呼応して付き合い続けた縁というものだった。

 作家の名は中学生の頃に担任の教師から聞いた。アカショウビンの父は仕事か何かの縁で会ったこともあるようだ。そんな話を聞いたことを想い出す。アカショウビンも教師の話から興味を持ち、図書館で島尾氏の姿を垣間見たことがある。それから東京での学生生活を終えて社会人になった頃に総武線の飯田橋あたりで雑誌で見た憂い顔の作家が数歩先に佇んでいるのを見た。それは高名な作家というより生活に疲れた中年男という風情だった。

 その長男の文章によって知る作家の死の光景は、どこにでもある死と弔いの風景と光景でもある。しかし精神を病んだ母や妹の姿を文章で辿ると長男もまた少しく精神を病み病んでいることが知られる。息子や長男の嫁に命令する母は、どこにでもいるような母であり姑であるが、その半生を文章で知る者にとっては息を呑み、その光景を眼前にする思いもする。 

 小高には島尾と同郷の作家、埴谷雄高と共に「埴谷島尾記念文学資料館」なるものがあるという事も初めて知った。アカショウビンは高校、大学と開高 健や埴谷雄高、吉本隆明さんの著作と共に新聞や雑誌で島尾敏雄の生をも風の便りのように聞いていた。奄美の名瀬から沖縄の那覇、神奈川県の茅ヶ崎、そして終焉の地、鹿児島の宇宿(うすき)へと移住を続けた一家の主の死の光景が童話のように優しげで壊れやすい精神の独特の文体と文章で綴られた。新聞で書評をされた堀江氏の文章を抜粋した前のブログの、親子が父の骨を食べる箇所の続きを同書から引用させていただくのを赦されたい。

 妹やマホが居なければ、おかあさんは私に「殺しておくれ」・・・と、言ったに決まっています。ええ、私はきっと、その命令を忠実に実行したはずです。そう言われなくても、ぶち殺しそうでした。どうせ、地獄へしか道のない私なのですから。私の心のどこかに、悪魔なのか守護の聖人なのか天使なのかが住んでいて、おとうさんやおかあさんのように自分で自分の人生を制御することが出来ません。彼らの声に従って生きているだけなので、乱暴なことが好きでありません。私の身体の自然は静寂なのですから。(同書 p176)

  この苛烈な経験を経た親子の別れを弔う伸三氏の文章は時に童話を読むような印象を受ける。記憶の彼方を辿りながら綴られる文章はアカショウビンの記憶とも呼応して、世相を鋭い刃のように抉る。島尾敏雄やミホさん、伸三氏の書かれたものに、これからも付き合い続け、アカショウビンもいつかこの世を後にする。げに人の業というものよ、とも思う。業とはクリスチャンであったミホさんや敏雄氏にはそぐわない術語と概念だが、アカショウビンは、その言葉を反芻しながら記憶を辿り己の生をも振り返るのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »