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2008年9月21日 (日)

骨を食べる

 本日の毎日新聞で「小高(おだか)へ 父 島尾敏雄への旅」(島尾伸三著 河出書房新社)の書評を興味深く読んだ。評者の堀江敏幸氏は「写真家・島尾伸三は、自身が撮影した映像に浮遊感のある詩的な言葉を焼きつけながら、作家・島尾伸三として仕事を重ねてきた」と書いている。

 アカショウビンは島尾敏雄の長男が写真家になっている、という知らせや長女のマヤさんが亡くなったという事を風の便りのような島尾関連の文章を通じて知った。そして島尾夫人のミホさんが時に文芸誌に書かれている文章が専門家にも評価されて出版されていることも。

 一昨年の夏に「島ノ唄」(伊藤 憲監督)というミホさんが登場するドキュメンタリー作品で初めてミホさんの姿を見た。詩人の吉増剛造氏とミホさんが敏雄氏と出会った海辺で並んで坐り、お母さんから教わった子守唄を歌っていた姿を想い出す。夫の死後に着続けている黒い衣装で未だに夫の喪に服していると伝えられる姿が印象に残った。そのミホさんも昨年3月に奄美で一人逝かれた。

 島尾敏雄の「死の棘」は夫婦と家族の壮絶な葛藤が戦争の死と隣り合わせの現実を介して結ばれた夫婦の業を刻んだ作品である。まだ少年の伸三氏が両親の凄絶な夫婦喧嘩の狭間で発する「カテイノジジョウをしないでね」という言葉は作品のなかで痛切に響く。

 伸三氏の母への愛憎はアカショウビンは未読だが堀江氏の文章によると「東京~奄美 損なわれた時を求めて」という作品の中で綴られているらしい。母の郷里、奄美の加計呂麻島への旅の思い出に触発されたものであろう。「小高(おだか)へ 父 島尾敏雄への旅」は一家が戦後、神戸から東京の小岩に移り住んだ1948年から1954年の記憶を想起しつつ父の故郷、福島県の相馬郡小高への旅で親族を訪ねる思い出を主軸にしたものであるらしい。そこには昨年3月に亡くなられた母親ミホさんのことも書かれているようだ。母に先立ち既に1986年に亡くなっている、父・島尾敏雄の死までの親子の愛憎がそこには刻まれていると思われる。ミホさんが夫の葬儀で「芝居じみた泣き声と、彼女のかん高い歌声は~」と書く伸三氏の文章は親子の愛憎を文字にして痛烈だ。

 父親の葬儀を終え妻と娘を東京に帰したあと、伸三氏とマヤさんとミホさんは雨戸を閉じ、新聞紙を敷いて、骨壷に入っていた骨をひろげる。伸三氏は「おかあさんの顔を見つめながら、私は悲しいふりをして、大きな骨をガリガリと食べて見せました」と書く。「妹は、迷わずに泣いて食べだしました。ギクッとした表情で慌てて吹き消すと、おかあさんは嫌そうに、小さな骨を捜しだし、それを食べました」。伸三氏の父母への愛憎は「死の棘」を読めば一組の家族の苛烈な姿として活写されている。父が聖書から引用しタイトルに用いた「死の棘」は父と母と息子と娘にも刺さっていたはずだ。伸三氏にとって子供時代から長ずるにしたがい彼にも刺さっているであろう棘は果たして抜くことができたのであろうか?

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コメント

>「死の棘」は父と母と息子と娘にも刺さっていたはずだ。伸三氏にとって子供時代から長ずるにしたがい彼にも刺さっているであろう棘は果たして抜くことができたのであろうか?

哀しいかな一生刺さったままでしょう。

「カテイノジジョウ」で被った子供達の棘は、永久に抜くことが出来ないと思います。
よしんば、抜けたとしても、いつしか、また同じところに刺さっています。
子供達にとっては、「カテイノジジョウ」の記憶はいつまでも鮮烈なものです。

もはや、血の滲む事や、膿む事もなくなり、痛さもなくなりますが、
依然其処には乾いた棘が刺さっています。
身体の一部として。

それは良い意味で年をとるということなのだと思います。

投稿: 若生のり子 | 2008年9月25日 (木) 午前 03時21分

 若生さん

 >それは良い意味で年をとるということなのだと思います。
 
 ★本当にそうですね。水に流せず、心に刺さった痛みは、ついに終生抜けないものなのかもしれません。しかし時が経てば、苛酷な思い出も少しは水に流し、和解できるかもしれません。当事者としてではなく、似たような痛みを引きずる人たちを通じて。少なからず人はそれぞれ負い目を引きずり生きていかねばなりませから。

投稿: アカショウビン | 2008年9月27日 (土) 午後 11時10分

>しかし時が経てば、苛酷な思い出も少しは水に流し、和解できるかもしれません。当事者としてではなく、似たような痛みを引きずる人たちを通じて。

これが大事なことですね。
わたくしもそのように思って、この年まで生きてきました。
わたくしは表現というやり方で、ある時そのことに決着をつけました。
何を隠そう、ワコウも若いときは、ご多分に漏れず暗い暗い絵を描いていたのですから。(笑)
余談ですが、昔情況を購読していた時、こうゆう拙いうだつの上がらない絵を描いていますと1枚だけ自己紹介を兼ねて吉本隆明氏にその写真を送りましたところ、思いがけず、ご批評を賜りました。嬉しかったです。
直筆で「なかなか面白いです。要は枚数です。ご精進ください」といただきました。
アカショウビンさんは、かっては吉本氏のとても身近にいらっしゃッたご様子ですね。ワコウなんぞ恐れ多くて御傍によれませんでしたというよりは取り巻き連中が煩かったです。ワコウの友人にもそういうのがいましたから。(笑)
アカショウビンさんがそうだといっているわけではありませんので。

投稿: 若生のり子 | 2008年9月30日 (火) 午後 01時50分

 >アカショウビンさんは、かっては吉本氏のとても身近にいらっしゃッたご様子ですね。

 ★いえいえ、高校、大学時代以来の書物を通じての単なるファンです。ナマ吉本を見たのは品川の倉庫で行われた「吉本隆明25時」という催しでした。
 今は亡き中上健次が都はるみを招待しオンチ(笑)の吉本さんに歌を歌わせようとしたり、今年亡くなられた歌人の前 登志夫さんが奈良から駆けつけて吉本さんが深々と頭を下げていたりの光景が想い起こされる楽しいイベントでした。
 若生さんの作品に応えた返事も吉本さんらしいですね。間接的に知られる吉本隆明の人柄が垣間見える思いです。

投稿: アカショウビン | 2008年10月 3日 (金) 午前 06時21分

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