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2008年9月 9日 (火)

この世の悲苦

英国のケン・ローチ監督の新作「この自由な世界で」(2007年)を渋谷の劇場で観てきた。劇場に入って気付いたのだが、ここは今年春に大きな話題になった映画「靖国YASUKUNI」(李 監督)を上映した気骨ある劇場ではないか。その時は、ほぼ満員の盛況。ところが、右翼の妨害を警戒してスクリーンの右側には屈強でもない中年の警官がいる。彼は何で俺はこんな役回りなのだろう、といった風情。警戒の警官が劇場にいるという経験はアカショウビンも初めてだった。しかし本日は、がらがら。ここのところ評判になっていると思しき作品に足繁く通っているが平日の昼間が多いこともあるだろう。例外は新宿で上映している「西の魔女が死んだ」(長崎俊一監督)。確かに佳作だったが女性が殆どなのにも驚いた。

ケン・ローチの本作は社会派と称される監督が自国の深刻な移民問題に視角を開いた佳作。ストーリーは東欧からの移民である一人息子をもつシングルマザーの生き方を描く。彼女は移民の仕事を世話する、仕事にありつけない多くの移民からすれば恵まれた職業についている。ところが上司のセクハラに憤り酒場で喧嘩してクビになる。しかしタダでは起き上がらない。職場で得たノウハウを活用し職業紹介会社を起業する。彼女の生き方を通して英国の現実に存在する移民たちの姿が描かれる。いわばドキュメンタリータッチの手法。監督の問題提起はこちらの心身をヒリヒリさせる。ドイツや英国の対応とはかけはなれた日本国で多くの日本人に切迫感はないだろう。アカショウビンとて同様だ。しかし将来の日本国が、この狭い国土で世界の先進国に倣い責務を担おうとしたときにどうするか、どうなるか、この作品を通して考えることはできる。それは、言葉の壁であり、親子の関係であり、教育問題であり、労働格差であり、恋愛であり、民族問題であり、人種差別であり、暴力であり、国家間の国力差であり、もろもろである。

それはまた西尾幹二氏が警告を発したドイツの現実でもあるだろう。 貧しい国から富める国に希望を持って海を越え、渡ってきた移民たちは底辺の仕事にありつき、綱渡りのような生活で糊口をしのぐ。仕事があるのはまだましだ。しかしそこで人は恥も外聞も捨てて工場や工事現場で働き消耗する。

「何の故に、こんな不平等で、悲苦の連続である世界を造ったか」。スウェーデンの或る作家は作品の中で、ユダヤ系ではない「神」という役回りの一老樵夫に別な者がこう訊ねたのに対し、「これが自分の精一杯なのだ」と答えさせている。大拙が先の著書で紹介している話(「新編 東洋的な見方」 1997年 岩波文庫 p200)だ。この世は釈迦の時代も現在も、スウェーデンでも、英国でも、ロシアや東欧でも、富める國である筈のこの日本でも、人々は皆、苦の支配に歯を剥き出し、違和を述べ、宥和し、拮抗し凌いでいるのだ。

夕刊紙に草柳文恵が首吊り自殺の報。54歳。かつての夫である将棋棋士の真部一男八段(没後 追贈九段)が病で早世したのは昨年、1124日だった。突然の訃報に驚き、アカショウビンは、このブログで真部との今生での幽かな関わりを想い起こした。文恵さんは父の大蔵氏が既に亡くなり、お母上と同居されていたと夕刊紙は報じている。真部の死も何か関係していたのであろうか。アカショウビンは、それもまた、この世での悲苦との相克によるものではなかったか、と邪推するのである。  (以上、敬称略)

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