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2008年9月29日 (月)

追悼と驚愕

  遅ればせながら追悼を。9月26日、ポール・ニューマンが亡くなった。享年、83歳.。最後はガンとの闘病だったようだが長寿をまっとうしたと思う。若い頃はスターの陰に隠れて目立たなかったと聞くが、アカショウビンが学生時代に観た「スティング」(1973年)は面白かった。音楽のスコット・ジョプリンの「エンターテイナー」も実に効果的に使われていた。サウンド・トラックをテープに録音し繰り返し聴いたものだ。ロバート・レッドフォードとのコンビは「明日に向かって撃て」(1969年)が良かった。男達の粋と哀れに心を打たれた。晩年は「ロード・トゥ・パーディション」(2002年)の悪役が素晴らしかった。

 その報を新聞で知ったあとに我らが新藤兼人監督の新作「石内尋常高等小学校 花は散れども」を有楽町の劇場で観た。96歳の監督の創作意欲に頭が下がる。監督が子供のころに、かけがえのない影響を受けた恩師を描き実に美しい作品に仕上げた。音楽は「裸の島」(1960年)以来の林 光。感傷に溺れず、とぼけた味も出していてナカナカだった。

 90歳を過ぎカクシャクたる監督の生き様に魂消る。主役の柄本 明も熱演。脇をかためる子役、俳優陣も主役を盛り立て好演だ。それもこれも新藤監督の映画にかける烈々たる気迫と眼差し、また誠実に応えようとする気持ちの為せる演技と思われた。巨匠の次回作を心から待ち望む。

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2008年9月21日 (日)

骨を食べる

 本日の毎日新聞で「小高(おだか)へ 父 島尾敏雄への旅」(島尾伸三著 河出書房新社)の書評を興味深く読んだ。評者の堀江敏幸氏は「写真家・島尾伸三は、自身が撮影した映像に浮遊感のある詩的な言葉を焼きつけながら、作家・島尾伸三として仕事を重ねてきた」と書いている。

 アカショウビンは島尾敏雄の長男が写真家になっている、という知らせや長女のマヤさんが亡くなったという事を風の便りのような島尾関連の文章を通じて知った。そして島尾夫人のミホさんが時に文芸誌に書かれている文章が専門家にも評価されて出版されていることも。

 一昨年の夏に「島ノ唄」(伊藤 憲監督)というミホさんが登場するドキュメンタリー作品で初めてミホさんの姿を見た。詩人の吉増剛造氏とミホさんが敏雄氏と出会った海辺で並んで坐り、お母さんから教わった子守唄を歌っていた姿を想い出す。夫の死後に着続けている黒い衣装で未だに夫の喪に服していると伝えられる姿が印象に残った。そのミホさんも昨年3月に奄美で一人逝かれた。

 島尾敏雄の「死の棘」は夫婦と家族の壮絶な葛藤が戦争の死と隣り合わせの現実を介して結ばれた夫婦の業を刻んだ作品である。まだ少年の伸三氏が両親の凄絶な夫婦喧嘩の狭間で発する「カテイノジジョウをしないでね」という言葉は作品のなかで痛切に響く。

 伸三氏の母への愛憎はアカショウビンは未読だが堀江氏の文章によると「東京~奄美 損なわれた時を求めて」という作品の中で綴られているらしい。母の郷里、奄美の加計呂麻島への旅の思い出に触発されたものであろう。「小高(おだか)へ 父 島尾敏雄への旅」は一家が戦後、神戸から東京の小岩に移り住んだ1948年から1954年の記憶を想起しつつ父の故郷、福島県の相馬郡小高への旅で親族を訪ねる思い出を主軸にしたものであるらしい。そこには昨年3月に亡くなられた母親ミホさんのことも書かれているようだ。母に先立ち既に1986年に亡くなっている、父・島尾敏雄の死までの親子の愛憎がそこには刻まれていると思われる。ミホさんが夫の葬儀で「芝居じみた泣き声と、彼女のかん高い歌声は~」と書く伸三氏の文章は親子の愛憎を文字にして痛烈だ。

 父親の葬儀を終え妻と娘を東京に帰したあと、伸三氏とマヤさんとミホさんは雨戸を閉じ、新聞紙を敷いて、骨壷に入っていた骨をひろげる。伸三氏は「おかあさんの顔を見つめながら、私は悲しいふりをして、大きな骨をガリガリと食べて見せました」と書く。「妹は、迷わずに泣いて食べだしました。ギクッとした表情で慌てて吹き消すと、おかあさんは嫌そうに、小さな骨を捜しだし、それを食べました」。伸三氏の父母への愛憎は「死の棘」を読めば一組の家族の苛烈な姿として活写されている。父が聖書から引用しタイトルに用いた「死の棘」は父と母と息子と娘にも刺さっていたはずだ。伸三氏にとって子供時代から長ずるにしたがい彼にも刺さっているであろう棘は果たして抜くことができたのであろうか?

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2008年9月18日 (木)

森田童子の世界

 何年ぶりだろうか、残っている童子の一枚のレコードを引っ張り出して聴いた。「GOOD BYE グッドバイ」というアルバムだ。学生時代に友人のA君が持ってきた曲は、このアルバムの「まぶしい夏」という曲だった。

 玉川上水沿いに歩くと

 君の小さなアパートがあった

 夏には窓に竹の葉がゆれて

 太宰の好きな君は 睡眠薬飲んだ

 暑い陽だまりの中 君はいつまでも

 汗をかいて眠った

 あじさいの花よりもあざやかに

 季節の終わりの蝉が鳴いた

 君から借りた 太宰の本は

 淋しいかたみになりました

 ぼくは汗ばんだ なつかしい頃の

 景色を覚えている。

 「君から借りた 太宰の本は 淋しいかたみになりました」という歌詞に太宰ファンだったA君は反応したのだろう。久しぶりに童子の声を聴きながら当時を思い出す。A君は中野に住んでいたアカショウビンの三畳の下宿に来て将棋を指して語らいながら、そう話した。あの頃に聴いて心に沁みた北原ミレイや八代亜紀、谷山浩子の歌と共に童子の声と歌詞はポエジーとなって心で反響した。

 童子が、ボクという男の子の立場に成り代わり少年の抒情を歌うのに、学生運動の余波を感じながら私たちは同時代を生きていたのだ。それは、あの世からの声のようにアカショウビンは聴いた。黄泉の國からの声のように、またオリオン座の暗黒星雲からの幽かなメッセージのように聴こえたのだ。今は記憶の彼方を手繰り寄せるしかない。童子の傷つきやすい幽かな声は彼岸からの声に見まごう思いがした。それはまたフランスのダミアの暗いシャンソンとも呼応してアカショウビンは聴いた。それは暗さと明るさの混ざった淡い水彩画のようなものだった。青春の喧騒とロマンとセンチメンタリズムは青春の特権でもあった。

 このアルバムの第一曲は、「早春にて」。

 君の好きな強い酒

 あびるほどに 飲み明かした

 長い夜があった

 淋しく二人眠った 始発の電車

 ただ陽射しだけが まぶしく

 話す言葉もなかった

 悲しく 色あせてゆく 青春たち

 と童子は歌う。その彼が去る姿を彼女は見ていた。青春は悲しみとともに色褪せてゆく。

 何年ぶりかでレコードから聴こえてくる童子の声に耳傾けていると記憶は当時の光景がフラッシュバックされて脳裏を過ぎる。それはまた中島みゆき、井上陽水の歌や、既に斃れた高田 渡、また今も不気味な(笑)元気さを維持する泉谷しげるの声は、あの当時の学生運動の余韻のなかでシュプレヒコールの声と共に想い起こされるのだ。

 

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2008年9月11日 (木)

暗黒星雲的森田童子

  先日、ミクシイ・サーフィン(という術語が流通しているのか知らないけれども)「森田童子」のコミュに遭遇した。さっそく加入。先日も立ち寄ったら次の書き込みを発見した。真偽はともかく彼女は、なかにし礼氏の姪っ子である、という。これは熱心なファンには周知のことかもしれない。事実かどうかウラを取る気はない。しかし森田童子の歌は学生時代に少しそそられた。というより驚愕し、ナルホド、かつての学生運動のシュプレヒコールは今やこのような抒情としてメッセージされているのか、と共感した。それは井上陽水や中島みゆき、他の人気シンガーたちとは異なる感性である。当時のアカショウビンにとって、森田童子という個性は、人気歌手たちとは異なる暗黒星雲の如き存在だった。
 大袈裟な、と呆れるなかれ。歌い手と聴き手の出会いは、そういうものなのではないだろうか。書物との出会いも人との出会いも、それが奇遇で何か決定的な閃光のようなものであれば、それは衝撃であり運命のようなものだ。そして、その経験は人の生涯を貫き間欠泉のように噴出する。それが多くの人々に噴出すれば世代を超えて波及し感性の共同体となる。
 今から想い起こせば60年代から70年代は坩堝のなかの水のように沸き立っていた。それは学生運動のなかで三島由紀夫や幾人かの右翼思想家が対峙し、三島は敢えていえばピエロのように、或いはトリックスターのように振る舞い、若い左翼世代から冷笑された。しかし自らの死をもって思想を表現する苛烈さに若者達や国民の多くは動転し白けた。それから時代は潮が退くように沈静化し日本人は金儲けに狂奔し始めた。
 そのころ太宰好きの友人が井上陽水や岡林信康のフォークに心酔していた小生に、聴け、とばかりに持ってきたカセットテープが童子だった。いかにも太宰好きを狂喜させる旋律と歌詞にホホウと挑発された。アカショウビンは友人の感性に共感しレコードを買った。売買で失った多くのレコードの中で今も残っている。
 当時は今や伝説のキャンディーズの全盛時代。テレビは天地真理か彼女達の踊りと歌が食卓を賑わしていた。アカショウビンはといえば大学の授業をサボり、アルバイトで得た金で名画座、将棋道場通い。そこが学校のようなものだった。レコードで聴く童子の声と歌詞は暗黒星雲から発される幽かな電波のように暗く切なかった。しかし深夜放送で聴く北原ミレイや八代亜紀、谷山浩子と同じように童子の歌はアカショウビンの心に沁みた。
 アカショウビンの記憶の中で「森田童子」はノスタルジーの世界の点景だが時に間欠泉のように声と歌詞が脳の奥で響く。「もの思えば澤の蛍もわが身よりあくがれ出づるたまかとぞみる」。保田與重郎が和泉式部の絶唱と激賞する平安の宮廷歌人の熱情とそれは異なる。しかし童子のか細い声はこの国の女たちの呪詛や哀切のように強い磁場を発する声とも聴こえる。

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2008年9月 9日 (火)

この世の悲苦

英国のケン・ローチ監督の新作「この自由な世界で」(2007年)を渋谷の劇場で観てきた。劇場に入って気付いたのだが、ここは今年春に大きな話題になった映画「靖国YASUKUNI」(李 監督)を上映した気骨ある劇場ではないか。その時は、ほぼ満員の盛況。ところが、右翼の妨害を警戒してスクリーンの右側には屈強でもない中年の警官がいる。彼は何で俺はこんな役回りなのだろう、といった風情。警戒の警官が劇場にいるという経験はアカショウビンも初めてだった。しかし本日は、がらがら。ここのところ評判になっていると思しき作品に足繁く通っているが平日の昼間が多いこともあるだろう。例外は新宿で上映している「西の魔女が死んだ」(長崎俊一監督)。確かに佳作だったが女性が殆どなのにも驚いた。

ケン・ローチの本作は社会派と称される監督が自国の深刻な移民問題に視角を開いた佳作。ストーリーは東欧からの移民である一人息子をもつシングルマザーの生き方を描く。彼女は移民の仕事を世話する、仕事にありつけない多くの移民からすれば恵まれた職業についている。ところが上司のセクハラに憤り酒場で喧嘩してクビになる。しかしタダでは起き上がらない。職場で得たノウハウを活用し職業紹介会社を起業する。彼女の生き方を通して英国の現実に存在する移民たちの姿が描かれる。いわばドキュメンタリータッチの手法。監督の問題提起はこちらの心身をヒリヒリさせる。ドイツや英国の対応とはかけはなれた日本国で多くの日本人に切迫感はないだろう。アカショウビンとて同様だ。しかし将来の日本国が、この狭い国土で世界の先進国に倣い責務を担おうとしたときにどうするか、どうなるか、この作品を通して考えることはできる。それは、言葉の壁であり、親子の関係であり、教育問題であり、労働格差であり、恋愛であり、民族問題であり、人種差別であり、暴力であり、国家間の国力差であり、もろもろである。

それはまた西尾幹二氏が警告を発したドイツの現実でもあるだろう。 貧しい国から富める国に希望を持って海を越え、渡ってきた移民たちは底辺の仕事にありつき、綱渡りのような生活で糊口をしのぐ。仕事があるのはまだましだ。しかしそこで人は恥も外聞も捨てて工場や工事現場で働き消耗する。

「何の故に、こんな不平等で、悲苦の連続である世界を造ったか」。スウェーデンの或る作家は作品の中で、ユダヤ系ではない「神」という役回りの一老樵夫に別な者がこう訊ねたのに対し、「これが自分の精一杯なのだ」と答えさせている。大拙が先の著書で紹介している話(「新編 東洋的な見方」 1997年 岩波文庫 p200)だ。この世は釈迦の時代も現在も、スウェーデンでも、英国でも、ロシアや東欧でも、富める國である筈のこの日本でも、人々は皆、苦の支配に歯を剥き出し、違和を述べ、宥和し、拮抗し凌いでいるのだ。

夕刊紙に草柳文恵が首吊り自殺の報。54歳。かつての夫である将棋棋士の真部一男八段(没後 追贈九段)が病で早世したのは昨年、1124日だった。突然の訃報に驚き、アカショウビンは、このブログで真部との今生での幽かな関わりを想い起こした。文恵さんは父の大蔵氏が既に亡くなり、お母上と同居されていたと夕刊紙は報じている。真部の死も何か関係していたのであろうか。アカショウビンは、それもまた、この世での悲苦との相克によるものではなかったか、と邪推するのである。  (以上、敬称略)

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