« 奇妙な符合 | トップページ | 夏を往く »

2008年8月 7日 (木)

フェルメール展

フェルメール展の感想を記憶が薄れる前に記しておこう。

今回の展示会では同時代の巨匠達の作品も閲覧できる。会場を回ると当時のデルフトの街と人々の生活までが再現されたような錯覚に陥る。そして今回の展示作品に共通するキーワードがあるとするとアカショウビンは「白」という色ではないかと思う。同時代のヘラルト・ハウクヘーストが描く「ウィレム沈黙公の廟墓があるデルフトの新教会」(1651年)の巨大な柱廊の何と鮮やかな白!その白はフェルメールの作品では「手紙を書く婦人と召し使い」(1670年頃)の婦人の頭巾と上着の白に思わず息を飲むような色として留められている。それは複製でも、ましてや写真では実感できない。

福音書のルカ伝による「マルタとマリアの家のキリスト」は1901年に作品を所蔵しているロンドンの画商が洗浄したところフェルメールの署名が現れ真作であることが認められたそうである。この作品はサイズ(160cm×142㎝)の大きさと構図はともかく色合いが中期から晩年の作品に見られる絵の具の照り返りがない。それは画家の狙いとも思えない。「洗浄した」時に原画の絵の具の一部は溶けてしまったのではないかとも疑われる。しかし近くで見ても素人眼にそれは定かにわからない。それほど「手紙を書く~」や去年の「牛乳を注ぐ女」の素晴らしさは神品とも思える見事さなのだ。「手紙を書く~」の光線の玄妙さは婦人の上着に反射する光量が奇跡的な白として画布に留められている。

「リュートを調弦する女」(1662年~1663年)の色調は今回出品されなかった「レースを編む女」(16691670年)に見られる暈(ぼか)しの色調が共通しているように思える。ただアカショウビンは本物を視ていない。画集で見ているだけであることはお断りする。

7作品を視て改めて確認したのは「小路」(1658年~1660年)に描かれる小さな人間たちの動きや白で表現された絶妙で不可思議とも思われる存在感である。これが画家の天稟であると確信されるほどの見事さだ。椅子に腰掛けて編み物をしていると見えるその女性は壁として最初は塗りつぶされたらしい。それが見事な存在感を持って配置され顔さえ見分けがつかないがデルフトの街の或る日の午後に、それはまた先日視たコローの作品とも共通する空の景色と共に確かに存在していたように永遠に留め置かれた。17世紀の優れた画家の作品群の中を周遊していると確かにその時代の或る時間が画布に確かに留め置かれたと実感する。それは錯覚だろうか?そうだろう。しかしその錯覚を楽しもう。それをあの世まで持って行きたいと妄想するのである。 

「ヴァージナルの前に座る若い女」(1670年頃)は思ったより小さめだ。髪形が1670年頃に流行した髪型であるらしい。確かに「レースを編む女」の女性と同じ髪型だ。フェルメールの作品の中でも「心をこめて構想した小品のうちの1点である」(ピーター・C・サットン)との評にも同感だ。女性の微笑みには画家の視線に対するあどけなさが絶妙に現れているからだ。フェルメールの視線の深さがそこに感嘆と共に看取できる。

|

« 奇妙な符合 | トップページ | 夏を往く »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/42094317

この記事へのトラックバック一覧です: フェルメール展:

« 奇妙な符合 | トップページ | 夏を往く »