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2008年8月17日 (日)

日本美術の巨匠たちと禅

 先日、上野で開催されていた「対決 巨匠たちの日本美術」展を観てきた。先般のフェルメール展の雷雨の時とは打って変わって猛暑。あの時と同様に駅近くの焼肉屋で腹ごしらえ。暑熱の中を坂を登り公園へ。フェルメール展が30分の待ち時間というので、まさかこちらも?と思いながら東京国立博物館・平成館に辿り着くと、何と!ここも20分待ち。それでも待つこと約15分で入場できたのはさいわい。

 この企画は対決と銘打つように二人の画家を並置し作風の違いを見せる。アカショウビンのお目当ては応挙VS芦雪、若冲VS蕭白、鉄斎VS大観。他に雪村と並べられた雪舟の水墨や「慧可断臂図」もあったのは日頃の行いの陰徳というものであろう(笑)。意外な収穫はあまり馴染みのない蕪村。大作も幾つかあり面白かった。彫刻では円空と木喰もあり、とてもじゃないが全てを楽しむには半日では無理。目当ての作品に集中した。応挙の屏風絵の虎が素晴らしい。隣には墨で弟子の芦雪の巨大な虎が並べられている。これもいいが師の金屏風に描かれた金と白の虎の毛は生けるが如し。弟子の個性と対照せられて企画者の狙いは了としよう。

 改めて驚嘆したのは蕭白だ。その鬼才は描くところの竜に神品のオーラを発している。春に観た大観展の竜も素晴らしかったが、こちらには不気味さと凄みがある。対する若冲の華麗も目を瞠らせる。その構図と色彩感覚は日本画の真骨頂のようにも思う。

 久しぶりに雪舟も観られて思うのは鉄斎の作品などにも感得される禅味というものである。先日読んだ上田閑照氏の禅理解などが想い起こされ江戸期の画家達に通底する禅仏教の影響にも興味尽きない。

 上田氏が鈴木大拙を呼び水に展開されている、エックハルトや禅の神秘主義から非神秘主義へ、という考察は精緻でスリリングとも言える。日本美術の傑作を観ながら、その考察の断片も脳裏に明滅した。禅の何たるかはアカショウビンには道元を通じて登攀しなければならない大いなる課題でもある。氏が「非神秘主義 禅とエックハルト」所収の「座禅論-道元『普勧座禅儀』をめぐって(p180~229)」で考察する論説は面白かった。消えたテクストと残されたテクストをめぐっての氏の考察は宗門の道元理解と在野の道元理解の異同が対照されている。「正法眼蔵」の注釈者である入谷義高氏との晩年の会話も心に沁みた。エックハルトや大拙、道元を介して渾身の執念の如き観を呈する同書に於ける思索は啓発というより挑発であり思考を辿る者の全身にも厳しく問いを発する。

 それはまた日本画の巨匠達の実践でもあったと推察される。本展に展示されていた鉄斎の「富士山頂図屏風」(1898年)は禅者たちの兀兀とした禅の風味も漂っている。それは画集には収まりきれない景色だ。鉄斎の仕事は寺田 透によれば「国粋主義者のパトス」(昭和49年11月 平凡社ギャラリー28「鉄斎」所収『鉄斎の一つの見方』)である。また「皇学と儒学の間に生まれた画業」(同・正宗得三郎)というのも肯かれる。儒学者を自認していた鉄斎だが、そこには禅のオーラも強烈に看取されるのだ。

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