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2008年8月 5日 (火)

大拙とエックハルト

 鈴木大拙の著作をアカショウビンは集中して読んできたわけではない。笑われてもしかたがないが、振り返ると10年に一冊くらいのペースであろうか。物心ついてから40年。ということは4冊しか読んでいないことになる(笑)。もっとも「日本的霊性」は8~9年前に一度読み直しているから、もう少しは大拙の文章に接していることにはなるかもしれない。先日はたまたま晩年にラジオ番組に出演し人生を振り返ったテープを聴いた。アカショウビンはそれくらいの読者であることは先ずお断りしておく。

 というのも前回書いた上田氏の著作は大拙との親交を本の入り口にしているからだ。写真付きで大拙が米国人たちと交流しながら禅が米国にも普及していった過程が確認できる。またエックハルト理解についてもドミニコ会派の布教家で説教家が教団に属しながら教団や伝統的な教典理解を超えた言説の真意に迫ろうとする氏の学問的熱意がひしひしと伝わる。読者は大拙や西田幾多郎、西谷啓治といった碩学たちとも接した文章を読むことで氏が言語的に禅に接近する苦闘も辿れると共に西洋近代哲学の底流ともなっているキリスト教神秘思想の興味深い例のひとつに出会うことができる。

 この著作を簡単に概括することはアカショウビンの力量では無理というものだ。弁解するわけではないが概括する、という事は、この著作に限らず原著の持つ魅力というより磁力とでも言うほうがしっくりする力を無化することでもある。著者の文章を辿ることが核心に出会うことであり、この著作の場合は上田氏の禅解釈に出会うことであり、大拙や西田の学問の源の一端にも触れることである。

 この編纂し直された文庫で上田氏は、ご自身の仕事を多くの後学の者達に伝えようと周到にまた誠実に配慮されておられる。異端とされキリスト教神秘主義と見なされたエックハルトの思想を読み解くことで禅の祖師たちや足跡が改めて光を放つようにも読めた。それは実に精緻で卓抜、難解だが理解を促す努力の楽しみも微かに覚える論説とでも言えるだろうか。晦渋な言い方で申しわけない。

 大拙の人となりに関心を持たざるをえないのは或る米国人が大拙に送った次の手紙に率直に述べられている。

 「(前略)無駄な言葉を重ねるよりも単純に言わせていただきますと、私にとって禅はまさに福音書の空気そのものです。福音書は禅ではち切れんばかりです。禅はどのような修道士にとっても修道士固有のふさわしい風土です。もし禅の空気を吸うことができなければ、私はおそらく精神的に窒息死するでしょう。(以下略)」(p58)

 欧米人の禅理解に応え大拙が試みたように上田氏もエックハルトの言説を精緻に紙背を読み取っていく。そこに辿られるエックハルトの福音書理解の独自さは、深さと好意的に理解してもよいものだ。それはルカ伝の中に伝えられるマルタとマリアの姉妹の話の解釈に見られる。エックハルトの真骨頂は恐らくそこにあると上田氏は見ている。残念だがその内容をアカショウビンが概括しても上田氏によるエックハルトの真意や上田氏の説明の巧みさは伝えられない。実際に氏の文章を辿っていただくしかないのである。このブログではアカショウビンなりの禅や仏教やキリスト教に対する考えはこれまでもしてきたし、氏に挑発されてこれからも更に展開していくつもりである。

 この著書の乱暴な結論のようなものをひとつ出しておくとすれば、タイトルからすれば身も蓋もないが、エックハルトも禅も禅の祖師たちも、神秘思想は含んでいても神秘主義ではない、ということだろうか。アカショウビンとしては、道元によればただ座れ、と静かに一喝される行によって悟りを開くという禅が上田氏の説明する言葉により、言語により周到に接近され感嘆、賛嘆すべき成果を挙げた、と先ずは言祝ぎたい。

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