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2008年8月23日 (土)

異質なものとの遭遇

 大拙や禅者の説く禅の悟りの境地は座禅することから始まるのであろうが怠惰なアカショウビンは禅寺まで出かけるのが億劫で、という罰当たりである。禅語録や道元を読むのは気合が要るが大拙のエッセイは暇つぶしというと叱られるだろうが肩肘張る必要もなく電車で読んで面白い。

 「近頃の日本人は、欧米思想の跡を追いかけて、『自然』を征服するとか、克服したとかいうが、これほど馬鹿げたことはない」と書き出している文章である。この一文が書かれたのは1963年だが現在でも、というより現在でこそ光を放つ。

 そして言う。「この有限の世界に居て、無限を見るだけの創造的想像力を持つようにしなくてはならぬ。この想像力を、自分は詩といって居る」。 詩といっても言葉ではない。「この詩があると、地球をまわるなどということは、朝飯前だ。また、仏教がいう三千大千世界は勿論、今日の天文学者のいう星雲(ギャラクシイ)で充ち充ちて居る無限の空間そのものをも、この片手の中に握りしめて、無限のまた向こうの無限の先へ投げ出すことも、可能になるのである」。そして一喝。「荒唐無稽だと嘲けることを止めよ、頂門に一隻眼を具えないものにとりては、とてもこの『詩』の世界はわからぬ」。

 或る種の音楽を聴いているとき瞑想に浸る時がある。正確には音楽を聴いているのであるからそれは瞑想にはならない。そのような音楽は人から退屈だと一蹴もされる。確かに退屈といえないこともない。実際に少しウトウトする(笑)。ところが、おやぁ、これはもしかすると悟りの境地ではないか、と罰当たりな感懐も閃く。或る意味でそれは異質なものとの遭遇である。崇高なものとの瞬間の出会いとも言える。それは昼間に仕事で時間を盗られている間には経験できないものだ。いや大拙の境地になると逆に日常が悟りの場である。しかし凡夫の身にはそういったオーディオ機器を用いて音楽に浸るときに何やら神妙な気分になるのである。

 楽器を演奏するとかコンサートで聴く経験からするとそれは邪道のような音楽体験ではあろう。しかし、その時に少しは作用(はたらいた)したかもしれない意識は想像力というものだろうか?私は「崇高」という言葉を通してその経験を覚知した。それは瞑想ではなく意識がはたらいている領域での経験である。大拙でなくとも禅者からすれば悟りは座るという行為から始まる。音楽なんぞに頼ることは外道というものであろう。

 大拙が言うように詩があれば人間は自在な境地に到達できるとすれば宇宙船や飛行機と同様、近代技術の産物であるオーディオ機器を用いて音楽を聴くという経験は、音楽を本来的に経験するという行為からすると邪道である。しかし私たちの生活は近代技術にすっかり包囲されている。ここは熟考を要するところである。金銭的なゆとりがあれば、あるいはなくとも、都会の喧騒を離れて自然に囲まれた田舎暮らしで近代技術から逃れることはできる。山荘の一つも所有して実際に実践されている御仁もおられよう。しかし、それで問題が片付くとも思われない。人間は社会的動物である。田舎に住んでも、お隣さんとは世間話もしなければならないだろう。病気になれば医者の世話にもならねばならない。われわれは他人を通して彼らが享受している近代技術を受け取らざるをえない。ではどうしたらいいいのか。

 大拙は先の一文で「現代人の悩みは、有限と無限の隔たりが、日に増し遠ざかり行くところに在り」と言ったというフランスの詩人の言葉を引用し「一顧すべきである」と一文を終えている。すると悩みを解消するには、有限と無限の隔たりを日に増して近づければよい事になる。なるほど。しかしどうやって?座るか。座りましょうよ。やはり座るのか。座るのでしょうな。座りますか。

 何やら小津映画の会話みたいになってきた(笑)。大拙の一文は「新編 東洋的な見方」(岩波文庫 2007年2月23日第16刷所収の「『詩』の世界を見るべし」p238 ~p239)。聴いた音楽はCDでブルックナーの交響曲第5番。チェリビダッケ指揮シュトゥットガルト放送交響楽団 1981年11月26日の録音。

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