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2008年8月31日 (日)

久しぶりの「朝まで討論」

途中からだが、久しぶりに「朝まで討論」という番組を見た。見たくて見たわけではない。テーマは皇室問題で西尾幹二氏や猪瀬直樹氏らが出ていたので興味半分だった。特に西尾氏の発言で気になったことを二~三、思い出しながらピックアップしてみよう。

 番組の最後あたりに氏は顔を少し強ばらせながら、ここでこんな事を言うのは憚られるが(正確ではないが)、天皇陛下の病状(前立腺ガンの病後だろう)が決して順調ではない、と漏らした。また雅子皇太子妃は病気などではなく、この一年の間にケロリと復帰するであろう、確かな裏付けを自分は掴んでいる、と話した。氏の語調は、この番組で氏に向けられた批判に対抗するように、自分が書いたものが皇太子から好意をもって受け取られたことをも明かしながら、自負も込めて皇室サイドの情報に私は自信を持っている、と少しムキになった話し方だった。

 驚いたのは論戦の最中に自分は日本の国はアマテラスの血統をもつという神話を信じると広言したことだ。

 ほーぅ、そうなんだ、と思った。このニーチェ研究者で右派の論客として近年話題にもなる人は、そこまで踏み込む言説を吐くようになったのだ、というのが意外。なぜなら幾つか読んだ氏の著作は聡明なニーチェ学者でドイツの実情にも詳しく移民問題でも説得力のある提案をしていたことには共感を持っていたからだ。しかし、その後、教科書問題などで同調者たちと少しく過激な政治的立場に依拠している事をマスコミ情報やネットで伝え聞いた。そのような氏の言論活動は、学者が奇妙な隘路に入り込み自縄自縛に陥ったのではないか、と思えるものだった。氏は通常の大学教授というより有能な学者であり、文学批評や社会発言も積極的に行う「思想家」というのが業界での肩書きだろう。しかし、テレビでの話しぶりを見ていると、そういった高みにあって融通無碍という境地には程遠い、自説に拘泥する頑なで硬直した皇室のご意見番でしかない。ニーチェ学者にして天皇制の鵺にがんじがらめになっているのではないか、というのがアカショウビンの感想だった。

 この番組が先頃から話題になっている女帝の是非論と雅子妃の病気をめぐる甲論乙駁の巷のマスコミの言論とリンクしたものであることは明らかだ。番組を最後まで見ることになったのは最近読んだ保阪正康氏の「戦争と天皇と三島由紀夫」(朝日文庫 2008年8月30日)で氏と半藤一利氏、松本健一氏らとの対談等で話されている話が思い出されたからだ。 今や北一輝研究の第一人者として左右の論壇で発言力を高めている松本氏の論説はアカショウビンも長らく興味を持ち続けている。

 それはともかく。番組では司会者の田原氏も含め左右の論客たちの頓珍漢な言説を含め自由な論議が交わされている風情もあったが、喫緊で最重要な論点とは何だろうか、ということも問われている。それは天皇制の行方であるし国際情勢の中での国家の行方でもある。

 

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2008年8月27日 (水)

四方界

 上田氏や大拙の禅仏教を通じた西洋哲学や仏教哲学の論説を読んでいて、それと深く関連しながら西洋哲学の中でも意外な展開を見せたのが後期ハイデガーの「四方界」という思索である。先の大戦前に瞠目すべき主著「存在と時間」(別訳では「有と時」)を著し西田幾多郎、田辺 元など京都学派と称される哲学者達に鋭い影響を与えたドイツの哲学教師は戦中を自国の軍事政権と実に危うい関係を取り結び戦後も独自の思索を続けた。上田氏が留学中に打ち込まれたエックハルトの研究も同時代のハイデガーの思索が大きな影を落としている。当時のハイデガーはライバルのヤスパースやマスコミからも異様な眼で見られながら「神秘思想」と看做されたであろう領域に踏み込んで思索を続けている。

  「四方界」とは、後期ハイデガーの独特の思索であり、天空と大地と神聖なる者たちと我々人間、死すべき者たちの四界である。これは西洋という風土の中でキリスト教・ユダヤ教の一神教に対する異論でもある。それは上田氏や大拙の説く、西洋からは「神秘主義」と看做されがちな禅に関する異論として展開される論説と呼応しながら辿ると実に面白い思索である。

 禅は果たして「神秘主義」なのか?という問いに対する上田氏の回答は先の著作を読むと西洋の研究者たちの理解と奇跡的に呼応しているようにも推察される。敢えてキリスト教・ユダヤ教と併置するけれども、デカルト、カント以来の西洋近代哲学を、西洋を貫く宗教史と絡めて「存在の忘却」と見なし解体しようとするハイデガーの生涯の思索は上田氏や大拙の禅観を通じて新たな光を放っているようにも思われる。更に、その足跡を辿っていきたい。

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2008年8月23日 (土)

異質なものとの遭遇

 大拙や禅者の説く禅の悟りの境地は座禅することから始まるのであろうが怠惰なアカショウビンは禅寺まで出かけるのが億劫で、という罰当たりである。禅語録や道元を読むのは気合が要るが大拙のエッセイは暇つぶしというと叱られるだろうが肩肘張る必要もなく電車で読んで面白い。

 「近頃の日本人は、欧米思想の跡を追いかけて、『自然』を征服するとか、克服したとかいうが、これほど馬鹿げたことはない」と書き出している文章である。この一文が書かれたのは1963年だが現在でも、というより現在でこそ光を放つ。

 そして言う。「この有限の世界に居て、無限を見るだけの創造的想像力を持つようにしなくてはならぬ。この想像力を、自分は詩といって居る」。 詩といっても言葉ではない。「この詩があると、地球をまわるなどということは、朝飯前だ。また、仏教がいう三千大千世界は勿論、今日の天文学者のいう星雲(ギャラクシイ)で充ち充ちて居る無限の空間そのものをも、この片手の中に握りしめて、無限のまた向こうの無限の先へ投げ出すことも、可能になるのである」。そして一喝。「荒唐無稽だと嘲けることを止めよ、頂門に一隻眼を具えないものにとりては、とてもこの『詩』の世界はわからぬ」。

 或る種の音楽を聴いているとき瞑想に浸る時がある。正確には音楽を聴いているのであるからそれは瞑想にはならない。そのような音楽は人から退屈だと一蹴もされる。確かに退屈といえないこともない。実際に少しウトウトする(笑)。ところが、おやぁ、これはもしかすると悟りの境地ではないか、と罰当たりな感懐も閃く。或る意味でそれは異質なものとの遭遇である。崇高なものとの瞬間の出会いとも言える。それは昼間に仕事で時間を盗られている間には経験できないものだ。いや大拙の境地になると逆に日常が悟りの場である。しかし凡夫の身にはそういったオーディオ機器を用いて音楽に浸るときに何やら神妙な気分になるのである。

 楽器を演奏するとかコンサートで聴く経験からするとそれは邪道のような音楽体験ではあろう。しかし、その時に少しは作用(はたらいた)したかもしれない意識は想像力というものだろうか?私は「崇高」という言葉を通してその経験を覚知した。それは瞑想ではなく意識がはたらいている領域での経験である。大拙でなくとも禅者からすれば悟りは座るという行為から始まる。音楽なんぞに頼ることは外道というものであろう。

 大拙が言うように詩があれば人間は自在な境地に到達できるとすれば宇宙船や飛行機と同様、近代技術の産物であるオーディオ機器を用いて音楽を聴くという経験は、音楽を本来的に経験するという行為からすると邪道である。しかし私たちの生活は近代技術にすっかり包囲されている。ここは熟考を要するところである。金銭的なゆとりがあれば、あるいはなくとも、都会の喧騒を離れて自然に囲まれた田舎暮らしで近代技術から逃れることはできる。山荘の一つも所有して実際に実践されている御仁もおられよう。しかし、それで問題が片付くとも思われない。人間は社会的動物である。田舎に住んでも、お隣さんとは世間話もしなければならないだろう。病気になれば医者の世話にもならねばならない。われわれは他人を通して彼らが享受している近代技術を受け取らざるをえない。ではどうしたらいいいのか。

 大拙は先の一文で「現代人の悩みは、有限と無限の隔たりが、日に増し遠ざかり行くところに在り」と言ったというフランスの詩人の言葉を引用し「一顧すべきである」と一文を終えている。すると悩みを解消するには、有限と無限の隔たりを日に増して近づければよい事になる。なるほど。しかしどうやって?座るか。座りましょうよ。やはり座るのか。座るのでしょうな。座りますか。

 何やら小津映画の会話みたいになってきた(笑)。大拙の一文は「新編 東洋的な見方」(岩波文庫 2007年2月23日第16刷所収の「『詩』の世界を見るべし」p238 ~p239)。聴いた音楽はCDでブルックナーの交響曲第5番。チェリビダッケ指揮シュトゥットガルト放送交響楽団 1981年11月26日の録音。

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2008年8月17日 (日)

日本美術の巨匠たちと禅

 先日、上野で開催されていた「対決 巨匠たちの日本美術」展を観てきた。先般のフェルメール展の雷雨の時とは打って変わって猛暑。あの時と同様に駅近くの焼肉屋で腹ごしらえ。暑熱の中を坂を登り公園へ。フェルメール展が30分の待ち時間というので、まさかこちらも?と思いながら東京国立博物館・平成館に辿り着くと、何と!ここも20分待ち。それでも待つこと約15分で入場できたのはさいわい。

 この企画は対決と銘打つように二人の画家を並置し作風の違いを見せる。アカショウビンのお目当ては応挙VS芦雪、若冲VS蕭白、鉄斎VS大観。他に雪村と並べられた雪舟の水墨や「慧可断臂図」もあったのは日頃の行いの陰徳というものであろう(笑)。意外な収穫はあまり馴染みのない蕪村。大作も幾つかあり面白かった。彫刻では円空と木喰もあり、とてもじゃないが全てを楽しむには半日では無理。目当ての作品に集中した。応挙の屏風絵の虎が素晴らしい。隣には墨で弟子の芦雪の巨大な虎が並べられている。これもいいが師の金屏風に描かれた金と白の虎の毛は生けるが如し。弟子の個性と対照せられて企画者の狙いは了としよう。

 改めて驚嘆したのは蕭白だ。その鬼才は描くところの竜に神品のオーラを発している。春に観た大観展の竜も素晴らしかったが、こちらには不気味さと凄みがある。対する若冲の華麗も目を瞠らせる。その構図と色彩感覚は日本画の真骨頂のようにも思う。

 久しぶりに雪舟も観られて思うのは鉄斎の作品などにも感得される禅味というものである。先日読んだ上田閑照氏の禅理解などが想い起こされ江戸期の画家達に通底する禅仏教の影響にも興味尽きない。

 上田氏が鈴木大拙を呼び水に展開されている、エックハルトや禅の神秘主義から非神秘主義へ、という考察は精緻でスリリングとも言える。日本美術の傑作を観ながら、その考察の断片も脳裏に明滅した。禅の何たるかはアカショウビンには道元を通じて登攀しなければならない大いなる課題でもある。氏が「非神秘主義 禅とエックハルト」所収の「座禅論-道元『普勧座禅儀』をめぐって(p180~229)」で考察する論説は面白かった。消えたテクストと残されたテクストをめぐっての氏の考察は宗門の道元理解と在野の道元理解の異同が対照されている。「正法眼蔵」の注釈者である入谷義高氏との晩年の会話も心に沁みた。エックハルトや大拙、道元を介して渾身の執念の如き観を呈する同書に於ける思索は啓発というより挑発であり思考を辿る者の全身にも厳しく問いを発する。

 それはまた日本画の巨匠達の実践でもあったと推察される。本展に展示されていた鉄斎の「富士山頂図屏風」(1898年)は禅者たちの兀兀とした禅の風味も漂っている。それは画集には収まりきれない景色だ。鉄斎の仕事は寺田 透によれば「国粋主義者のパトス」(昭和49年11月 平凡社ギャラリー28「鉄斎」所収『鉄斎の一つの見方』)である。また「皇学と儒学の間に生まれた画業」(同・正宗得三郎)というのも肯かれる。儒学者を自認していた鉄斎だが、そこには禅のオーラも強烈に看取されるのだ。

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2008年8月13日 (水)

夏を往く

朝夕に夏は終盤の気配も感じる。既に秋は忍び寄っている。長崎、広島の慰霊も過ぎ15日に向けて若い日本国民のどれくらいが国の歴史を振り返るだろうか。かく言うアカショウビンも多くの国民と同様にテレビのオリンピック漬けの毎日だ。張 藝謀の開会式の演出は日記に書いたので繰り返さない。

先月、昨年の3月の退職以来1年ぶりで再就職した会社を或る事情で辞めた。新たに就職活動をしながら迎える8月である。2年続けて無職の8月は社会人になって初めてではないか。人生の節目と見なしリセットするのに慌てることもないとも思う。自由な時間は楽しむにしかずだが無給の不安にも晒される。テレビを見ながら時間は過ぎる。買い溜めて読まず、聴かず、観ず、の本やCD、DVDも山積み。少しずつ蚕が桑を食べるように読み、聴き、観ていこう。そのうち繭も作らなければならない。

一昨年は映画監督の黒木和雄が逝き、遺作や「父と暮らせば」の旧作を観直して改めて新鮮な8月を過ごした。今年はいつのまにか過ぎて行ってしまっている。それにしてもオリンピックの狂熱には知らず染まってしまう。思えば東京オリンピックは小学5年生の時。故郷の奄美では少し前にやっとNHKテレビが見られるようになった頃だった。オリンピックは授業時間に見せてくれてクラス中がオリンピック熱に感染。休み時間は廊下でレスリング。水泳は米国のエース、ショランダーの目を瞠る美しい泳ぎに感動しプールや海で真似た。遊びで棒高飛びを真似て足を折った奴もいた。その頃が人生の絶頂期だった、と再三繰り返しているのは蝶採集に熱中したからだけでなくオリンピックの影響が色濃く影を落としていることにあらためて気づく。

長じて本来なら老後へ向けて金銭的な余裕も持ちながら準備し充実した時間を過ごしている筈が無職の不安に領されるのは不徳のいたすところ。しかし、それでもオリンピックを楽しむ。そういう時間は人生でそれほど多くもないと思うからだ。

先日NHKテレビで「帽子」というドラマを途中からだが観た。広島の原爆で人生を狂わせられた男女の物語だ。主演の緒方 拳と田中裕子が戦争の悲哀を味わい深くゆったりと演じていた。今年の夏の収穫は今のところ、これくらいだ。

大好きなマラソンに期待の野口みずきが欠場なのにガッカリ。野球はまさか初戦でこけるのではないだろうな、と気にもする。

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2008年8月 7日 (木)

フェルメール展

フェルメール展の感想を記憶が薄れる前に記しておこう。

今回の展示会では同時代の巨匠達の作品も閲覧できる。会場を回ると当時のデルフトの街と人々の生活までが再現されたような錯覚に陥る。そして今回の展示作品に共通するキーワードがあるとするとアカショウビンは「白」という色ではないかと思う。同時代のヘラルト・ハウクヘーストが描く「ウィレム沈黙公の廟墓があるデルフトの新教会」(1651年)の巨大な柱廊の何と鮮やかな白!その白はフェルメールの作品では「手紙を書く婦人と召し使い」(1670年頃)の婦人の頭巾と上着の白に思わず息を飲むような色として留められている。それは複製でも、ましてや写真では実感できない。

福音書のルカ伝による「マルタとマリアの家のキリスト」は1901年に作品を所蔵しているロンドンの画商が洗浄したところフェルメールの署名が現れ真作であることが認められたそうである。この作品はサイズ(160cm×142㎝)の大きさと構図はともかく色合いが中期から晩年の作品に見られる絵の具の照り返りがない。それは画家の狙いとも思えない。「洗浄した」時に原画の絵の具の一部は溶けてしまったのではないかとも疑われる。しかし近くで見ても素人眼にそれは定かにわからない。それほど「手紙を書く~」や去年の「牛乳を注ぐ女」の素晴らしさは神品とも思える見事さなのだ。「手紙を書く~」の光線の玄妙さは婦人の上着に反射する光量が奇跡的な白として画布に留められている。

「リュートを調弦する女」(1662年~1663年)の色調は今回出品されなかった「レースを編む女」(16691670年)に見られる暈(ぼか)しの色調が共通しているように思える。ただアカショウビンは本物を視ていない。画集で見ているだけであることはお断りする。

7作品を視て改めて確認したのは「小路」(1658年~1660年)に描かれる小さな人間たちの動きや白で表現された絶妙で不可思議とも思われる存在感である。これが画家の天稟であると確信されるほどの見事さだ。椅子に腰掛けて編み物をしていると見えるその女性は壁として最初は塗りつぶされたらしい。それが見事な存在感を持って配置され顔さえ見分けがつかないがデルフトの街の或る日の午後に、それはまた先日視たコローの作品とも共通する空の景色と共に確かに存在していたように永遠に留め置かれた。17世紀の優れた画家の作品群の中を周遊していると確かにその時代の或る時間が画布に確かに留め置かれたと実感する。それは錯覚だろうか?そうだろう。しかしその錯覚を楽しもう。それをあの世まで持って行きたいと妄想するのである。 

「ヴァージナルの前に座る若い女」(1670年頃)は思ったより小さめだ。髪形が1670年頃に流行した髪型であるらしい。確かに「レースを編む女」の女性と同じ髪型だ。フェルメールの作品の中でも「心をこめて構想した小品のうちの1点である」(ピーター・C・サットン)との評にも同感だ。女性の微笑みには画家の視線に対するあどけなさが絶妙に現れているからだ。フェルメールの視線の深さがそこに感嘆と共に看取できる。

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2008年8月 6日 (水)

奇妙な符合

 昨日、上野の東京都美術館で開催されている「フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち」を観て来た。昨年は「牛乳を注ぐ女」の1点に圧倒されたが、今年は7点も!その中では「牛乳~」と同じように画面左側の窓から光が射す画家得意の構図の「手紙を書く婦人と召使い」が絶品だ。

 それにしても不思議な縁というものだろうか、奇妙な符合である。前回エックハルトの福音書説教録でルカ伝のマルタとマリア姉妹の評価の仕方が通常とは逆でエックハルトの真骨頂は・・・と上田閑照氏の論説を興味深く読んだばかりだが、何と今回の展示会にフェルメール初期の大作「マルタとマリアの家のキリスト」(1655年頃)が展示されていたのである。それはユングの説く<共時性>という概念で説明されるものかもしれない。あるいはハイデガーが説く<世界・内・存在>として世界に頽落しているアカショウビンという現存在が無意識を介して出会った表象に過ぎないとも。

 それはともかく。ルカ伝ではイエスの足元で話に夢中になっている妹のマリアこそイエスの意を汲むよき娘で、家事にかまけ姉を手伝わない妹に不満を言う姉マルタはイエスを理解しない平凡な女というのがルカの記述を解釈した大方の理解だ。しかしエックハルトは独特の直感と言説でマルタこそイエスの意を体現した女なのだ、と説く。エックハルトの教説の解釈が奇を衒ったものでなく、眼を洗われるような論理説明が可能であることは上田氏の禅に対する洞察と西洋哲学の深い学識による。本家のドイツではどうなのだろうか?恐らく研究者の間ではともかく一般的にエックハルトは中世の異端の神秘主義者として黙殺されているのではなかろうか。

 ルカの記述はフェルメールも熟読しているだろうが、エックハルトの教説を読んでいたのかどうか?興味あるところである。フェルメール描くキリストと向き合う姉のマルタの表情には何やらエックハルト説を知っている気配がなくもない。解説を読むと、イタリアなどで伝統的に多いこの画題の殆どがマルタを背を向けて描いているのに対しフェルメールは伝統に逆らうようにマルタを正面に描き、しかもキリストを覗き込むように話しかけ、キリストも優しい表情でマルタに顔を向けているからだ。

 異教徒にはどうでもよいことのようなのだが、エックハルトという説教師の福音書読解の複雑さと深さというものを上田氏によって知らされるとアレコレ考えながら愚考を走らすことにもなる。しかし作品の仕上がりとしては、若い頃にイタリアの巨匠たちの構図を学びつつある画家という制約内の作品として円熟期の作品ほどの感銘は残念ながらアカショウビンにはなかった。それよりも、例えば「リュートを調弦する女」の表情の生命感と、くすんだ全体のトーンの渋さは正にフェルメールの神技であり、神韻縹渺の趣を呈している。

 アカショウビンのように過激でなくとも世にフェルメール・ファンは多い。日本にも世界の美術館に散在している作品を求めて大金を費やし旅したという少し羨ましくもなる熱烈なファンや評論家もいる。会場ロビーのパンフレットを読むと秋にフェルメール・ツアーが企画されているらしい。ヨーロッパと米国でそれぞれ数十万の費用がかかるようだ。それくらいの金なら両方参加するというお金持ちもいらっしゃるであろう。アカショウビンにそんな余裕はない。それからすると同展は12月14日までやっているのだから、閉展までに2~3回、訪れるなら安いものだ。

 それにしても二年続けて向こうから作品がやってきてくれる日本という国は何と幸なるかな。

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2008年8月 5日 (火)

大拙とエックハルト

 鈴木大拙の著作をアカショウビンは集中して読んできたわけではない。笑われてもしかたがないが、振り返ると10年に一冊くらいのペースであろうか。物心ついてから40年。ということは4冊しか読んでいないことになる(笑)。もっとも「日本的霊性」は8~9年前に一度読み直しているから、もう少しは大拙の文章に接していることにはなるかもしれない。先日はたまたま晩年にラジオ番組に出演し人生を振り返ったテープを聴いた。アカショウビンはそれくらいの読者であることは先ずお断りしておく。

 というのも前回書いた上田氏の著作は大拙との親交を本の入り口にしているからだ。写真付きで大拙が米国人たちと交流しながら禅が米国にも普及していった過程が確認できる。またエックハルト理解についてもドミニコ会派の布教家で説教家が教団に属しながら教団や伝統的な教典理解を超えた言説の真意に迫ろうとする氏の学問的熱意がひしひしと伝わる。読者は大拙や西田幾多郎、西谷啓治といった碩学たちとも接した文章を読むことで氏が言語的に禅に接近する苦闘も辿れると共に西洋近代哲学の底流ともなっているキリスト教神秘思想の興味深い例のひとつに出会うことができる。

 この著作を簡単に概括することはアカショウビンの力量では無理というものだ。弁解するわけではないが概括する、という事は、この著作に限らず原著の持つ魅力というより磁力とでも言うほうがしっくりする力を無化することでもある。著者の文章を辿ることが核心に出会うことであり、この著作の場合は上田氏の禅解釈に出会うことであり、大拙や西田の学問の源の一端にも触れることである。

 この編纂し直された文庫で上田氏は、ご自身の仕事を多くの後学の者達に伝えようと周到にまた誠実に配慮されておられる。異端とされキリスト教神秘主義と見なされたエックハルトの思想を読み解くことで禅の祖師たちや足跡が改めて光を放つようにも読めた。それは実に精緻で卓抜、難解だが理解を促す努力の楽しみも微かに覚える論説とでも言えるだろうか。晦渋な言い方で申しわけない。

 大拙の人となりに関心を持たざるをえないのは或る米国人が大拙に送った次の手紙に率直に述べられている。

 「(前略)無駄な言葉を重ねるよりも単純に言わせていただきますと、私にとって禅はまさに福音書の空気そのものです。福音書は禅ではち切れんばかりです。禅はどのような修道士にとっても修道士固有のふさわしい風土です。もし禅の空気を吸うことができなければ、私はおそらく精神的に窒息死するでしょう。(以下略)」(p58)

 欧米人の禅理解に応え大拙が試みたように上田氏もエックハルトの言説を精緻に紙背を読み取っていく。そこに辿られるエックハルトの福音書理解の独自さは、深さと好意的に理解してもよいものだ。それはルカ伝の中に伝えられるマルタとマリアの姉妹の話の解釈に見られる。エックハルトの真骨頂は恐らくそこにあると上田氏は見ている。残念だがその内容をアカショウビンが概括しても上田氏によるエックハルトの真意や上田氏の説明の巧みさは伝えられない。実際に氏の文章を辿っていただくしかないのである。このブログではアカショウビンなりの禅や仏教やキリスト教に対する考えはこれまでもしてきたし、氏に挑発されてこれからも更に展開していくつもりである。

 この著書の乱暴な結論のようなものをひとつ出しておくとすれば、タイトルからすれば身も蓋もないが、エックハルトも禅も禅の祖師たちも、神秘思想は含んでいても神秘主義ではない、ということだろうか。アカショウビンとしては、道元によればただ座れ、と静かに一喝される行によって悟りを開くという禅が上田氏の説明する言葉により、言語により周到に接近され感嘆、賛嘆すべき成果を挙げた、と先ずは言祝ぎたい。

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2008年8月 1日 (金)

禅と西洋神秘思想

 上田閑照氏の「非神秘主義 禅とエックハルト」(2008年 4月16日 岩波現代文庫)は神秘家として貶められもし、教会からは異端のレッテルも貼られた中世ドイツのキリスト教説教家マイスター・エックハルトの言説・論説を禅を通じて読み解いた労作である。

アカショウビンが興味を抱いたのは戦後のハイデガーの講演や著作にエックハルトの影響が見られるため。それは戦前からのものかもしれないが詳らかにしない。上田氏の用語にはハイデガーの影響も強い。氏が駆使する独特の用語はハイデガーらの存在論と鈴木大拙や西田幾多郎の影響を受けた禅への深い造詣が裏打ちしている。

「哲学コレクション」と題されたシリーズは上田氏のこれまでの研究を主題によって吟味、補筆し周到に並べ替えたものだ。高齢の氏が生涯の研鑽を集大成し後に続く者たちに継承を促す意図は明らか。上田氏の著作にはアカショウビンも関心を持続している禅者たちの論説が興味深く再現され論じられている。精読し夏を超えていきたい。

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