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2008年7月17日 (木)

叫び呻き怒る唄者

 叫び、というしかない声を里 国隆という盲目の歌い手のCDで聴いた。「奄美の哭きうた」というアルバムだ。LPの復刻でLPには収録されていない未発表曲も3曲入っている。

 最近の奄美の唄者(ウタシャ)達の美しい裏声とは対蹠に立つ凄みが漲る声だ。1975年8月9日、杉並区のテイチク・スタジオで収録されたもの。里は愛用の竪琴をかき鳴らし歌う。伝統的な蛇皮線でないのに最初は違和感を覚えたが、それによって唄は何やら奄美の島唄という先入観を超えて響く。その声はほとんど叫びであり、呻きであり、怒りである。歌とは血を吐くような叫びであることを里の声と歌は伝える。この録音には今では本土でも名高い沖縄の面子も参加している。「ちじん」という島太鼓を叩くのは照屋林助氏、六調には嘉手苅林昌氏の名も見える。

 昭和のはじめに奄美の島々には「薬売り、ナベカマの修理、傘の張り替え、あめ売り、浅漬け売り、ヤギ肉売り、アイスキャンディー売り、ウズラ豆売り」の行商人がたくさんいた。(解説を書いている南海日日新聞記者、亀山昌道氏)。12歳の少年の頃、防虫剤(ナフタリン)売りで手製の竪琴をかき鳴らす老人のあとをついて歩き里は琴の作り方や弾き方を学んだという。

 1972年、沖縄が日本に返還されたときに里は奄美にいたが、三線と竪琴を背負って沖縄に渡り、那覇・宜野湾・コザ・金武といった基地の街をひたすら歩いた、と亀山氏は記している。

 1975年、8月14日午前2時前、東京・新宿コマ劇場で里は島唄の「くるだんど節」を絶叫した。

 ハーレー 戦や負きて 勝ちゅんど思うたる 大東亜戦争や 日本の負きて

 ヨーハーレー  勝ちゅんど思うたる  大東亜戦争や 日本の負きて

 ハーレー負けたや当たり前 科学の戦に竹やり持っちょて 負けたんや当たり前

 時は過ぎ、1985年6月22日、里は那覇市のライブハウス「ジァン・ジァン」に招かれ出演した。体調は悪かったがステージはこなし聴衆は熱狂したという。ところが二日後、知人の特別養護ホームで不調を訴え検査入院。容態は急変し五日後の27日逝去。享年66歳。親族の話では、やつれた感じはなく人生に満足したように安らかな死に顔だった、と亀山氏は記している。

 竹中 労の解説も、その思い入れが伝わる。アカショウビンは「琉球共和国 汝、花を武器とせよ!」(ちくま文庫 2002年6月10日)を少し読み返してみた。過激なライターではある。大江健三郎氏もケチョン、ケチョン。復帰前後の沖縄へのこだわりは尋常ではない。竹中は1991年に肝臓ガンで逝った。

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