« 2008年5月 | トップページ | 2008年7月 »

2008年6月29日 (日)

歴史の彼方

 毎日新聞の「おちおち死んではいられない」というシリーズの最終回(27日金曜・夕刊)は澤地久枝さんだった。近著では「琉球布紀行」(新潮文庫 平成16年)を興味深く読んだ。アカショウビンは御著作の読者というより、テレビに登場されるときの話や人柄に興味を持ってきたファンである。

 「琉球布紀行」では奄美大島紬にも一章を割かれておられる。アカショウビンの故郷の名瀬には二度、沖縄から飛行機で訪れられたという。64歳で亡くなられた、お母様の最後の衣装が大島紬だったとも書かれている。先の大戦での奄美出身の戦死者資料も持たれておられ、彼らが帰り得なかったふるさとを紬の特性をたしかめる目的で歩いた、とも。

 インタビューの前にインタビュアーへ新著が送られ、その帯には「いま、あなたに伝えたいことがある――」とあり、「希望と勇気、この一つのもの」(岩波ブックレット)には次の決意が書かれているという。

 「わたしの立場は、自衛隊を憲法違反の存在とし、日米安全保障条約の平和条約への変更、全在日米軍の撤退。つまり憲法本来の原点へかえしたい、というもの。実現不能の理想論とか、女書生の夢などと言われることは覚悟の上だ。今や世界有数の強大な軍事力をもつ自衛隊は、有権者によって正当に認知されたことがあるのか。わたしたちは諾否を問われたことがあるのか。答は、否でしかない」。

 その言や良し。昨年他界した小田 実とは40数年来の付き合いだった、という。

 今、小林多喜二の「蟹工船」がブームらしい。それに対するコメントも澤地さんらしい。「読むことはいいことだけど、かつて日本の歴史に何があったのか、今とどう違うのかは勉強しないと、小林多喜二が可哀そう」。また「黙っていたら破滅への道しかないわね」という言葉も。

 確実に世代交代は進んでいる。先の大戦の記憶もいつか歴史の彼方へと押しやられていく。戦争の砲声は、この惑星で止むことはあるのだろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月22日 (日)

朝比奈 隆の音楽

 今宵のN響アワーは朝比奈 隆の特集だ。久しぶりに、われらが巨匠の勇姿を映像と音楽で楽しんだ。日本人の演奏するベートーヴェンとブルックナーが、この境地にまで達したことを訝る西洋人は多いだろう。しかし「音楽に国境はない」という断言を身をもって示した例のひとつが朝比奈という指揮者の生涯である。

 好みの違いはあろうが、朝比奈が生涯かけて指揮したブルックナーやベートーヴェンは傾聴するに値する演奏とアカショウビンは確信する。大阪フィルとのヨーロッパツアーでブルックナーゆかりの聖フローリアン教会で演奏した第7交響曲のレコードは宇野功芳氏のライナーノートと共に繰り返し聴いた。長寿を生き抜かれた巨匠の姿と音楽に再会できる幸を言祝ごう。

 ブルックナーとベートーヴェンの音楽はアカショウビンも生涯かけて聴く音楽である。朝比奈の録音と共に楽しめる幸を重ねて言祝ぎ感謝しよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月19日 (木)

シド・チャリシー追悼

 シド・チャリシーの訃報を知った。86歳のご長寿である。若き頃のミュージカルの素晴らしい踊りを楽しませていただいた者として、この世での縁を心から感謝する。昨年は、新文芸座で未見の「暗黒街の女」(ニコラス・レイ監督、1959年)も観られた。先日はマイ・フェイヴァリット・アクトレス&アクターという思い付きで少し書いたばかりで、彼女もその一人に欠かすことのできない女優だ。フレッド・アステアとの絶品の踊りが堪能できる「絹の靴下」(ルーベン・マムーリアン監督、1957年)のDVDを観ながら追悼しよう。音楽はコール・ポーター、アンドレ・プレヴィン。何度観ても飽きない作品だ。

 昨日の「休暇」のあとで、エンターテインメント・ミュージカルを観るのは後ろめたさがなくもない。しかしアカショウビンは米国製傑作ミュージカルを賛嘆する映画ファンでもある。

 これもまた娑婆に棲む苦しみと哀しみと楽しさなのだ。アステアという稀代の天才との華麗なダンスを楽しませていただき心からご冥福をお祈りする。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年6月18日 (水)

映画「休暇」

 死刑執行官を主人公にした「休暇」という作品を観てきた。佳作と言える仕上がりを興味深く視た。役者の演技に過不足はあるが全体の静謐なトーンが観る者の想像力を駆り立てる。説明をできるだけ削った脚本と、敢えて言えば「退屈」を恐れないキャメラ映像と音楽のバランスが手柄と思う。

 若い死刑囚の刑が執行される直前に所属宗教であるキリスト教の教誨師が旧約の創世記を朗読する。仏教徒であれば僧侶が仏典を読むのだろう。その聖書の文言が声に出されても死刑囚の恐怖は安らうことはない。それでも刑は淡々と執行される。

 原作は吉村 昭。これは未読。しかし映画作品を観る者は十分に個々に対し、それぞれの問いが突きつけられる筈だ。それは簡単に答えを出せば済むという態の問いではない。死刑制度の是非を問うということを超えて、私達がこの世に棲むということは、どういうことなのか?といったことでもある。また制度が人を殺すということは具体的にどのようなことなのか?という事でもある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月14日 (土)

秋葉原という磁場

 秋葉原の殺傷事件については遅まきながら書いておきたいことがある。というのも20年前に犯行現場近くの電器店がアカショウビンの職場だったからだ。その頃はバブルが崩壊する前後。会社は退社したあと数年後に倒産した。建物は今も残っているが経営者は替わった。都内では池袋、新宿などに大型電器店が出現し、電化製品のメッカという「秋葉原神話」は崩壊しかかっていた頃だ。

 その頃からパソコンが普及し始める。主要電器店は家電からパソコンへシフトしていく。しかし戦後のドサクサから「電器の街」に特化し繁栄してきた姿は急には変えられない。「電器のことなら何でも揃う」というキャッチフレーズで衆目を集めてきたのだから。駅下のジャンク店は今も旧態のまま。ところが、この10年の変化は実に急激だ。大型電器店が時代の変化に対応できず倒産・縮小していく。この10年のアキハバラの変化は「異常」とも言える。

 アカショウビンが転職した会社は偶然にも秋葉原の近くだった。その頃はレコードからCDへ移り変わる頃で音楽オタクのアカショウビンはI丸電器の売場には足しげく通っていた。だから街の変化はしっかり目の当たりにしている。まぁ、アカショウビンはこの20年、アキバウォッチャーみたいな者だ。

 その秋葉原は更に姿を変え現在のアニメの「メッカ」に変貌した。

 Yカメラ店が2~3年前に秋葉原のメインストリートとは反対側に出店した。それが秋葉原の客の流れに決定的な変化をもたらす。犯行現場周辺の電器店、パソコンの大型店がアニメ関連店に取って代わる変化は目を瞠るばかりだ。アカショウビンの買い物のCDも本もオーディオ製品も家電もYカメラ店で済むようになった。自ずとメインストリートに足は遠のく。

 その場で驚愕する事件が生じた。それはアキバという磁場がもたらしたものとも言えるだろう。25歳の男は己の鬱憤とも怒りともつかぬものを晴らす場をアキバに決めた。それは現在の日本の抱える政治・経済・文化の現状も反映する犯罪となった。それにしても理不尽な犯罪といえる。しかし少なくとも戦後の犯罪史を辿れば類似の犯罪や動機には思い当たる。同じ県出身の永山則夫の犯罪動機にも相通じるものがある。犯人の家庭の中流とも見える環境は永山の貧しさとは対照的だ。しかし両親の躾と教育観や己の現状、世相への反発・憎しみ・不満・怒りは通底しているとも見える。それが屈折、錯綜し暴発した。

 それは社会の「病理」が噴き出たとも言えよう。国民はいつでも被害者から加害者に転じる可能性を持っている筈だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月10日 (火)

マイ・フェイヴァリット・アクトレス&アクター

 好きな映画監督は?と訊ねられれば即座に○○○、△△△、□□□と出てくる。いや▲▲▲も棄てがたい、■■■は?となって、それは楽しい。しかし、女優は?俳優は?となると暫し考えこむ。

 アカショウビンは、これまで俳優で映画を観ることがないイビツな映画鑑賞者なのであることにハタと気付いた。(以下の文中、敬称は略させていただく)

 とりあえず記憶の糸を手繰ってみる。このブログで以前に書いたけれども黒澤 明の「赤ひげ」は監督生涯の傑作であり、三船敏郎にとっても生涯の名演と確信する。また根岸明美が素晴らしい。そういえば先週の土曜日に池袋の「新文芸座」で“香川京子特集”の「杏っ子」(1958年)と「驟雨」(1956年)を観て来た。成瀬巳喜男の未見の作品だったので。「驟雨」に根岸明美が出ていた。タイトルから想像する内容とは勝手の違う、成瀬にしては珍しいコメディタッチの作品だが香川京子は前半に少し出演するだけ。佐野周二と原 節子の子供のない夫婦の姿を成瀬にしてはめずらしく乾いたタッチで演出している。根岸明美は「赤ひげ」の中での役とは雲泥の違いの“アプレゲール”(今や死語か)のわがままな人妻役だった。亭主役は小林桂樹。

 アカショウビンは香川京子の熱烈なファンというわけではない。しかし最近、たまにテレビや映画の予告で拝見する御姿には神々しいオーラを感受する。俳優もそうだが、人間の不可思議さは「品性」という言葉に、人間の持つ「可能性」の一端が現れる、と思うのである。何やら妙な言い方で恐縮。それは同様に駅の広告ポスターで拝見する吉永小百合にも感受することである。彼女らは、そのオーラを発している。まぁ、アカショウビンの妄想の類かもしれないが。

 ところで女優と男優である。

 その香川京子の名演は「赤ひげ」の狂女役であると確信する。若い頃は市井のお嬢さん役がぴったり、というのが常識的な意見であろう。小津安二郎監督の「東京物語」にしても、そういう扱いだ。しかし黒澤 明は、そんな常識などに捉われる才能ではなかった。あの作品では加山雄三が何とも血の通わぬ大根役者に見えたのは錯覚だろうか?

 今や世界の大監督になった張 藝謀の「初恋のきた道」のチャン・ツィイーも今や大女優だが、この作品での初々しさは本当に可憐で素晴らしかった。それは以前にこのブログで書いたので繰り返さない。

  こうしてアレコレ記憶を手繰り寄せると次から次ときりがなさそうだ。しかし、映画は監督で観る、というアカショウビンのイビツな姿勢が、俳優に視角を据えることで映画作品のもつ異なる姿が現れることも期待できそうだ。さらに記憶を辿ってみよう。

   黒沢の「生きる」の志村喬は賛じ尽くされた感があるので割愛。「切腹」(小林正樹監督)の仲代達矢は素晴らしかった。時代劇としても出色の作品だ。監督と俳優が力と技と智慧を絞りに絞った作品であることがひしひしと伝わる。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年6月 5日 (木)

晩年の巨匠と名ドラマー

  オーケストラのリハーサルのナマを何十年ぶりかで体験したのは昨年7月。売り出し中の若手(でもないか)パーヴォ・ヤルヴィ指揮するドイツ・カンマーフィルの公開リハーサルを幸にも無料で聴けた。曲目はベートーヴェンのトリプル・コンチェルト。この第3楽章をアカショウビンは偏愛する。しかもソリストはわれらが諏訪内晶子。ストラディヴァリだか何かの名器の、何年製か知らぬが名器を名手が奏でる楽音は実に芳醇な響に満ちていた。

 そんな事も思い出させたのは先日購入したDVDのせいである。往年のコンサートの模様と晩年のデューク・エリントンの姿が映像に留められている。後者のタイトルが「デューク・ザ・ラスト・ジャム・セッション」。4人の名手が紡ぎだす演奏は音の神とでもいうものが生み出される瞬間に立ち会う悦びと言っても差し支えない。

 2枚組DVDの1枚は、かつてレーザー・ディスク(!)で発売されていたもの。アカショウビンも大枚をはたいて購入した。デュークがフランスのコート・ダジュールで手兵のオーケストラを率いて行ったコンサートとエラ・フィッツジェラルドのコンサートが収められている。他にもホアン・ミロを訪れたデュークと仲間がミロのために庭で演奏するシーンもある。

  もう一枚がデューク・ファンならずとも必見の記録だ。デュークのピアノにギターのジョー・パス、バスのレイ・ブラウン、ドラムスのルイ・ベルソンの4人の名手がリハーサルをかねて音楽を作っていくプロセスが実に面白い。名手たちの阿吽の呼吸とでもいう丁々発止の音楽は「音楽の誕生」とも、何やら不可思議な素晴らしきものの生成に立ち会っている思いに浸らされる。デューク・エリントンのピアノ良し。若いレイ・ブラウンの勢い楽し。ジョー・パスの自在なギターも格別。しかし、唸るしかないのはルイ・ベルソンの姿とドラムスである。

 アカショウビンは不覚にもルイ・ベルソンというドラマーを知らなかった。このDVDで初めて知る。「何だルイ・ベルソンも知らないのかよ~。それで恥ずかしくもなくジャズファンだと言えるよな~」という御仁もおられよう。しかし新たな発見というのは嬉しいもの。その喜びを諸氏諸淑女にお伝えしたいのである。

   このDVDでは老齢に至り悟りの境地のような巨匠の融通無碍が拝見できる。それに名ドラマーが実に表情豊かに絶妙の呼吸で合わせていく。それは巨匠への尊崇とともに、熟練したプレーヤーの到達した境地を垣間見る思いだ。正に至芸である。この106分の映像は巨匠の晩年の円熟と自在を記録すると共にルイ・ベルソンという名手が巨匠と共に生み出す稀有のプレイを見事に残している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年5月 | トップページ | 2008年7月 »