« 長野での出来事 | トップページ | 死刑制度・再考 »

2008年5月12日 (月)

「死刑制度」と「靖国 YASUKUNI」

  死刑制度についてミクシイに意見を書き込み遣り取りをしていると、徒労感を感じながらも応答しなければならない責任を柄にもなく負わされる。死刑制度を「因果応報」的な制度として容認する若い人たちの書き込みは或る意味で率直さも感じる。しかし、極悪人といえどアカショウビンは国家が人を殺すことに賛同するわけにはいかない。

 それは欧米的な「人権」という概念に依拠するわけではないことは熟考すべきではないかと思うからだ。ミクシイでの遣り取りでも、死刑にすべき極悪人を無期にして彼らを税金で養う余裕は私にはない、といった論説を受け取った。しかし、果たしてそうであろうか?人を殺すことを、そのような金銭的な論拠で済ましてよいものだろうか?死刑制度に賛成する論調の多くは殺された者たちへの恨みを遺族たちに代わってはらすのが国家の役割だ、とする者と死刑に相当する罪科を犯した者を税金で養う必要はない、といった理由が大半だ。

 しかし、と思うのである。賛成する殆どの人々は、その当事者ではない。それを国家に託し軽々しく国家の殺人に国民が安直に加担してよろしいものだろうか?

 先の辺見 庸の死刑制度廃止の論拠は冤罪にされた人々を含む囚人を含めて、広く人を殺すことの是非を問う言説である。それは経済概念を駆使するだけでは済まないことを了知して言うべき事と思うのだが如何なものだろうか。

 ミクシイの応酬でアカショウビンは、退廃の様を呈している現今の日本人ではあるけれども、たかだか百数十年の歴史を閲しただけで短絡してはいけない、という主張をし次のような反論があったので引用する。

 >日本の心底に受け継がれている優れた精神・・・・ですか?あの戦争をした精神が、ですか?あのバブルに踊り狂った精神が、ですか?今、また昔の右翼的愛国心に踊っている精神が、ですか?何処を見て、優れた、と言わしめるのでしょうか?

 それについては返信したけれども、関連して書いておきたいことがある。話題の「靖国 YASUKUNI」を先日渋谷のミニシアターで観てきた。それが物議を醸したのは、この作品に「反日」の意図を見て取った国会議員たちの言説である。しかしアカショウビンは、それを疑う。果たして、この作品を「反日映画」と観る短絡には慎重であるべきと思うが如何なものだろうか?。

 それはむしろ日本という国が歩んできた軍国日本の帰趨を問う作品である。この作品を論じるときに「ゆきゆきて神軍」(1987年 原 一男監督)という作品を思い起こさずにはいられない。そこには苛酷な戦争を経験した日本兵士の奇矯というか狂的な言動にキャメラを回し続けた監督の深い視線が視て取られるからだ。その比較を経ずしては、この作品の内容を安直に論ずることはできないと思う。

 追記 そのようなアレコレを思案しながらNHKラジオで「新日曜名作座」を途中からだが、たまたま聞き、聴き入った。何と西田敏行氏と竹下景子さんに話者が代わっているではないか。森繁久彌氏から引き継がれたのがいつか知らない。しかし音だけで聴く「語り」の素晴らしさに感服した。原作は宮部みゆきの「弧宿の人」(2005年)。途中から聴いていて山本周五郎か藤沢周平かと思いながら聴いていたら宮部氏である。アカショウビンは宮部ファンというわけではない。しかし現今の作家で優れた書き手であることは彼女のファンや書評で聞き読んでいる。その耳で聴く作品にはアカショウビンのいう「日本人の精神」の伝統というものが継承されている事を看取した。昨夜が第6回だが、是非多くの皆さんに聴いて頂きたい見事な朗読である。声の力というのは、このように日本人の中で伝達される事にアカショウビンは感嘆したことを書き添えておきたい。

|

« 長野での出来事 | トップページ | 死刑制度・再考 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/41176941

この記事へのトラックバック一覧です: 「死刑制度」と「靖国 YASUKUNI」:

« 長野での出来事 | トップページ | 死刑制度・再考 »