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2008年5月17日 (土)

死刑制度・再考

 政治家たちが、刑法に終身刑を創設することなどを目指す「量刑制度を考える超党派の会」を15日に旗揚げしたという。来年の裁判員制度に向けて刑罰のあり方を問うらしい。現行法で、死刑に次いで重い無期懲役刑は10年以上が過ぎれば仮釈放が認められる。そのため極刑との格差が問題視されてきた。死刑という制度を国会議員たちが制度として喋々するのはけっこうなことだが、急所と思われる論議は極悪人といえど、現在の国家の仕組みのなかで国民の一人一人が殺人に加担することの是非と人の生存が絶たれることへの苦しみと悲惨への想像力の届き方という点だ。

 アカショウビンは死刑制度に反対の立場だ。それは「人道的」な立場でも「正義感」からでもない。言ってみれば、存在論的立場から、とでも言えるだろうか。辺見 庸氏は著作の中で戦後のハイデガーの講演の一節を引いていた。それは「乏しき時代の詩人」というタイトルで出版されたリルケ没後20年の講演だ。辺見氏は、そこでハイデガーの述べた次の箇所に刺激されたという。

 「神性の輝きが世界から消えてしまった。(中略) もはや神の欠如を欠如として認めることができなくなっている」(同書p80)。アカショウビンは氏の意外な指摘に刺激されて同書の他にブレーメン講演とフライブルク講演も読み啓発された。そこにはユダヤ人やドイツの知識人たちが絶滅収容所で殺されたり、戦後の中国で何百万人という人々が餓死していった報道に言及する哲学者の「存在と時間」以来の「有る」ということへの、神秘説とも読み取られかねない独特の言説と思索が開陳されている。

 ハイデガーの思想に辿れる人間という生き物にとっての「死」という現象と事実は、存在とは何か?と形而上学的に思索・考察した哲学者にとって根本的な思索を要する急所である。中国・四川省の巨大地震で亡くなった人々の死は人間という生き物が「能く死ぬ」ことではない、とハイデガーは考察する。先の大戦で亡くなった兵士や市民の死も果たして人間が「能く死ぬ」死に方だったか。人間が死ぬということはハイデガーによれば「死を抱えながら、それに耐え抜く」という生き方と覚悟である。その説くところを辿れば死刑制度は幾つかの選択肢を看取しうる考察であることがわかる。

 人の死を制度論的に論議することとは別に、死という生き物すべてに等しく到来する事実を考察することは、共に深い思索が求められる急所である。そのことに鈍感であってはならない。

 次の辺見 庸氏の言説と論説は、そこまで視野に治めたうえでのものである。

  「絞首刑用鉄をそれを知って当惑しつつ、しかし丹精してこしらえているアルチザンとその家族や愛人の眼の不可思議な昏さを、そうした存在をまるで想像できず想像しないことにしている詩人とその家族や愛人たちの顔の明るさよりも、私がはるかに愛してしまうのはなぜであろうか」(「たんば色の覚書 私たちの日常」 毎日新聞社 2007年10月15日 p64~p65)

 この述懐の届く視界と思索の深さを了知すれば存続派の安直な論議には徹底して対抗しなければならない。

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