« 死刑制度・再考 | トップページ | マリオ・ジャコメッリの作品 »

2008年5月24日 (土)

映画と音楽効果

 以前に少し感想を書いた「靖国YASUKUNI」について、もう少し。この作品と「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の二作品の最後に使っていた音楽が実に効果的だった。アカショウビンには馴染みが薄い作品だが、前者がヘンリク・ミコワイ・グレツキの交響曲第3番 作品36。「悲歌のシンフォニー」と呼びならわされている。後者はブラームスのヴァイオリン協奏曲の終楽章。両作品とも周到に効果を狙って採用されている。余談だがグレツキをドーン・アップショウのソプラノ、デイヴィッド・ジンマン指揮のロンドン・シンフォニエッタで、ブラームスをミルシテインとヨッフム指揮ウィーン・フィルの1974年録音の手持ちのCDで聴き直した。アップショウは良かった。しかしブラームスは、ミルシテインより、少なくとも映画で使われた第3楽章は誰の演奏か確かめていないが、そちらのほうが良かった。

 「靖国~」での音楽効果は作品の内容に対して監督の込める思いが伝わってきた。それは音楽に表現されている「祷り」であり裏に響く「怒り」でもある。それはまた靖国神社という特異な磁場で日本人たちに生じる奇異な行動への好奇心となっても表現されている。グレツキの音楽が使われる作品の最後の映像は李 纓(リ・イン)監督の知的な探究心というべきものも感じられた。そのような作品構成の緻密さと誠実さを看取すれば、あの作品が「反日」だというレベルであげつらう評の杜撰さが知られようというものだ。作品に登場されていた、靖国刀の刀工の方の最近の新聞報道で知ったクレームはともかく、ドキュメンタリー作品として佳作と言える作品だとアカショウビンは評価する。

 原 一男の「ゆきゆきて神軍」(1987年)を李監督は見ているだろうか?神社での模様を執拗にキャメラで追う映像を観ると多分見ているとも思われる。人間達の奇矯な姿を現場でキャメラで追うのは時に身の危険さえ生ずる行為だろう。しかし、そういう過程を経て撮影した映像を「作品」として構成するには知的な作業を要する。李監督は10年かけた。刀工が刀を製作する過程にキャメラを据え監督の質問に答える刀工の問わず語りは、この作品の制作意図を垣間見る思いがした。監督は、ここに日本人の「精神」を見ようと意図しているのだ。それは武士たちが魂として対した「日本刀」であり、三島由紀夫が腹を割き首を落とされた「日本刀」であり、李監督の同胞たちを刺し、斬り殺した「日本刀」であり、サムライたちの「精神」を引き継ぐとされた軍人の魂とされる「日本刀」だからだ。

 そういう視角は現在に生きる多くの日本人たちが気付かないものではないだろうか?それを先の大戦では因縁浅からぬ中国人の李監督が作品として日本人の前に提示した。少なくともアカショウビンには実に興味深い映像だった。刀工の黙々と仕事する姿と朴訥な話ぶり、それにキャメラを据え、訥々とした日本語で問いかける監督。靖国神社での日本人や米国人、神社に激しく抗議する台湾人の姿。軍服姿の時代錯誤。抗議する若者と彼を袋叩きにする輩たち。彼を中国人と間違えて病的な暴言を浴びせる中年男。それは多くの日本人も初めて見る映像ではないのか?さて外国人に日本人の姿はどのように映っただろうか。

 それはともかく、もうひとつ興味深かったのは刀工氏が李監督の問いかけに殆どはぐらかしとしか思えないような応対をするところだ。恐らく、刀工氏は語ってはいけないことを抱えている、と思えた。お歳のせいで耳が遠くなっていることもあるだろう。しかし、そうではなく意志として答えないと思える節もあった。それは何だろうか?亡くなった英霊たちへの配慮か。杜撰な政治家達の差し金か。クレームをつけた詳細は知らないが、ご本人からすれば、そういった遣り取りをする自らの姿を恥じたのかもしれない。しかし黙々と仕事に打ち込む姿は多くの生真面目な日本人の仕事ぶりがそこにも見られて好ましいものだったのだが。

 「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」(ポール・トーマス・アンダーソン監督)はダニエル・デイ=ルイスという俳優の見事な演技が作品全体を通じ強力に作用し支配している作品だ。現在のアメリカという国家を支えていると思しき石油を全米に探し求めた男の半生を描いている。それは西部劇とは異なる開拓史の一齣でもある。ゴールドラッシュと石油。これが、この二百年、この国を今では世界最強の国に押し上げた要因の幾つかだろう。

 映像として強烈な印象に残るカットを一つ。ラストで執事(と思う)が主人の様子をうかがいに二階から降りてくる。ボーリングのピンで男を殴り殺した側で主人公が「終わったよ」と伝え、振り返った表情。その奇怪とも凄絶とも思われる表情。それがダニエル・デイ=ルイスという俳優の持ち味というのか凄みだ。何と大した役者ではないか、と感嘆する。

 この殺した相手との確執が、作品の一つの軸を構成している。それは牧師として土地の信者たちの信頼を集め伝道者となった若い男の偽善に翻弄された主人公の恨みである。神に仕える者が、金に執着し偽物の宗教体験で信者を誑かす。その人間の本質を遠い昔すでに見抜いていたにも関わらず主人公は仕事のために男の主催する教団に入らざるを得なかった。その後悔が物語の最後に殺人となって結末を迎える。

 最後に唐突とも思える間合いでブラームスが鳴り響く。その効果が素晴らしかった。それは物語に或る種の開放感をもたらしていた。映画音楽の効果とはかくあるべし、という見本のような使い方だった。「靖国~」も同様で、そこには両監督の優れた知性がはたらいている。

|

« 死刑制度・再考 | トップページ | マリオ・ジャコメッリの作品 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/41301380

この記事へのトラックバック一覧です: 映画と音楽効果:

« 死刑制度・再考 | トップページ | マリオ・ジャコメッリの作品 »