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2008年5月25日 (日)

マリオ・ジャコメッリの作品

 辺見 庸氏がテレビでジャコメッリの写真作品を語っている。それは実に刺激的な芸術だ。ジャコメッリが故郷のホスピスで死を抱えながら生きる老人たちを撮った写真。それは凄絶としかいいようがない。氏も死と向き合っているから、というのでもない。それは自分が生きている、この世とは何か、ということを作品は突きつけてくる。

 氏が「識閾」という術語で表現しようとする虚実の境というものに我々は時に遭遇する。2004年の脳出血の時に氏はそれを自ら体験している。そこから作家としてジャコメッリがこだわるという「時間」に氏もこだわるのだ。それは、この世に棲むということはどういうことなのか?という、時に遭遇するハッとする問いだ。毎日毎日をしのぎながら生きている我々にもそれは共時的に生ずる。

 ジャコメッリの作品を評して辺見氏が言う「修羅」というものは我が国の詩人が書き付けた作品とも共鳴しているだろう。

 資本との腐れ縁と断絶したところでしか現代の芸術というものはあり得ない、という氏の発言にアカショウビンは同意する。テレビで絵画や作品を見るという事は愚の骨頂という発言や良し。CMの世界が日常となっている現在の文明国の倒錯に対する疑義も。

 人は死すべきものである、というジャコメッリがこだわる言説も、それは古くて新しい時を超えた真実だ。人はいずれそこへ至る。辺見 庸も現在を生きながら、ゆるゆるとそこへ赴いている。それはアカショウビンとて同じだ。

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