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2008年5月31日 (土)

広き廈

 新聞のコラム氏が四川省の大地震に苦しむ人々を思いやり杜甫の詩を引用していた。「茅の屋(いえ)の秋風に破られし歎き」(吉川幸次郎、三好達治共著 岩波新書 昭和49年7月25日版)と訳されている作品の一節だ。大風で屋根が壊れ、雨が漏る家での詩人の嘆きと願望が記されている。観光名所となっている杜甫の草堂も破損したらしい。その博物館内に詩の碑文があるとも。一海知義氏は次のように訳されている。
 安(いず)くにか広き廈(いえ)の千万の間(へや)ありて 大いに天下の寒(まず)しき士を庇(かば)いて倶(とも)に歓(よろこ)ばしき顔し 風雨にも動(ゆる)がずして安らかなること山の如(ごと)きを得(てにい)れん
 コラム氏は、「広いしっかりした家に世の貧しい人々をすべて住まわせたいというのだ。さらに詩人は続ける――もしいつの日か、そんな家が眼前に現れたら、自分の家など壊れ、自分は凍死してもいい」と書いている。
 その詩人は、といえば乞食のような生活をして、近所の悪童共から嘲られ、幾ばくかの所持金品を盗まれる惨澹たる暮らしなのである。詩の全文を引き、時を超えて詩人の作品から読み取られる心境と気概を昧読しよう。
 茅屋為秋風所破歎           茅(かや)の屋(いえ)の秋風に破られし歎き  
 八月秋高風怒       八月 秋は高(た)けて風は怒り号(さけ)び
 卷我屋上三重茅       我が屋(むね)の上なる三重の茅(かや)を卷く
 茅飛度江洒江郊       茅は飛んで江を渡りて江郊に洒(そそ)ぎ
 高者掛長林梢       高き者は長き林の梢(こずえ)に掛かり罥(まと)い
 下者飄沈塘       下き者は飄い転びて塘(いけ)の坳(くぼみ)に沈む
 南村群童欺我老無力    南の村の群童は我が老いて力無きを欺(あなど)り
 忍能対面為盗賊       むごくも能くまのあたりに盗賊をはたらき
 公然抱茅入竹去       公然と茅を抱き竹に入りて去る
 脣焦口燥呼不得       唇は焦(ただ)れ口は燥(かわ)けども呼ぶことかなわず
 帰来倚杖自歎息       帰来 杖に倚りて自ずから嘆息す
 俄頃風定雲黑色       しばらくにして風は定まり雲は黒色に
 秋天漠漠向昏黑       秋のそらは漠漠として昏黑に向う
 布衾多年冷如鉄       布のしとねは多年の間鉄の如く冷かなるに
 驕兒悪臥踏裏裂       驕児は臥ざま悪しくして裏を臥みて裂く
 牀牀屋漏無乾処       床も床も屋漏(やもり)して乾きし処は無く
 雨脚如麻未断絶       雨の脚は麻の如くにして未だ断絶せず
 自経喪乱少睡眠       喪乱を経て自(よ)りは睡眠少なきに
 長夜沾湿何由徹       長き夜に沾湿しては何に由りてかあかさん
 安得廣廈千萬間       安ずこにか得ん広き廈(いえ)の千万間
 大庇天下寒士倶歓顔    大いに天下の寒(まず)しき士を庇いて倶に歓しき顔し
 風雨不動安如山       風雨にも動かずして山の如く安きを得ん
 嗚呼何時眼前突兀見此屋 嗚呼 何の時か眼前に突兀として此の屋を見ば
 吾廬独破受凍死已足    吾が廬は独り破れて凍死を受くともけすもすでに足らえり

    (「新唐詩選」岩波新書 昭和49年 吉川幸次郎・三好達治著 p51~p52)

 この作品には老いた詩人の貧しい暮らしぶりも垣間見られて哀れを感ずる。
 ウサギ小屋と欧米の民草から嘲られようと、われわれ日本人の多くは雨風をしのぐ屋根と温かい部屋のある家屋に住んでいる。この幸を改めて言祝ごうではないか。そして何かできることはないだろうか?詩人の気概の幾ばくかを心に刻むのであれば。周囲は少し静かすぎるのではないか。まさか、チベット弾圧の罰が当ったくらいに受け流しているのではあるまい。
 先日、仕事でT県のA市郊外の鄙びたMという土地を訪れた。創業55年余というガソリン・スタンドの初老の経営者の話を伺うためである。昨今のガソリン価格の高騰は周知のとおり。以前に比べ格段に若者は車に乗らなくなった。庶民も自家用車を使うことをひかえている。今に始まったことではないが、スタンド経営はカツカツですよ、と氏の口は重かった。幸に、といえるかどうか、ご子息が昨年スタンド経営を継いでくれた。しかし、継いだ方の未来は明るく展望が開けているわけではない。父親は「苦しんでいるのは裾野にいるわたしたちですよ。漁業、農業に従事している人々がもっとも苦しんでいる。この国はあとは坂をころがり落ちるだけですよ」とボソリと呟いた。
 「坂をころがり落ちるだけ」。そこには55年間、スタンド経営を続けて、良い時もあっただろうが、今はカツカツで生活をしのいでいる経営者の正直な感慨が込められている。
 昨年、亡くなった小田 実氏も、この国は、どんどん悪い方へ向かっている、と闘病のベッドからテレビキャメラに訴えていた。 
 氏の説く、戦後の日本が大金持ちも極貧の民草も比較的少ない、「中流の人々」を国民として醸成してきた事に対する期待感をアカショウビンも持つ。ただ、それは両刃の刃でもある。氏の警鐘は75年間の人生から生じるものである。そこには過激も逸脱も過ちもあっただろう。氏の遺書とも言える「中流の復興」(2007年5月15日 生活人新書 NHK出版)を興味深く読んだ。 
 小田 実が神戸の大地震の時に国家に対し市民として仕掛けた行動は、杜甫の気概を受け継ぐものである。氏の生涯と行動、思想は、恐らく時を経るごとに輝きを増すものと察する。それは詩人の慨嘆と気概に呼応する姿勢が生涯を一貫しているとアカショウビンは共感するからである。
 「雨の脚は麻の如くにして未だ断絶せず 喪乱を経て自りは睡眠少なきに 長き夜に沾湿しては何に由りてかあかさん 安ずこにか得ん広きいえの千万間 大いに天下のまずしきおのこをかばいて倶に歓しき顔し 風雨にも動かずして山の如く安きを得ん 嗚呼 何の時か眼前に突兀として此の屋を見ば 吾が廬は独り破れて凍死を受くともけすもすでに足れり」
 今や綻びを露呈しながらも、経済大国と諸外国から羨望と時に揶揄の眼差しでも見られているだろう日本人の一人として、決して幸せでもないが、と己の身過ぎ世過ぎを振り返りながら、杜甫の慷慨と気概と、小田 実の「大風呂敷」と時に揶揄もされた構想の幾らかなりを、アカショウビンも引き継ぎたいと思うのである。

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2008年5月25日 (日)

チベットについて

 あるブログに掲載されていた中国の詩人の文章である。失礼して転載させていただく。こういう中国人もいる。そこまで我々の棲む「世界」に視線を届かせることは、ヒト、人間を考えるうえで不可欠だろう。歴史事実の諸相を我々は時に簡略化し短絡する。時の政権や多数派の激情は個を簡単に飲み込む。しかしそれに抵抗する思考と行為も存在する。衆愚にわれわれは、いつの間にか陥る。しかし思考と洞察の眼を怠ってはならない。そう考察することは、中国擁護といった短絡とは無縁であることは一言しておこう。それは中国人や日本人、ドイツ人、アメリカ人、イギリス人、インド人・・・であることと人間であることは不可分であるものの、それを超克する視角に盲目であってはならない、という事だ。

        チベットの苦悩、わが恥

        (中国人詩人によるチベットへの想い)

 唐丹鴻 (タン・タンホン、1965年生まれ) は四川省成都出身の詩人で、ドキュメンタリー映画監督でもある。1990年よりチベットに関する数本のドキュメンタリー映画を製作した。3/21付けで以下のようなエッセイを執筆し、中国国外でホスティングされている自身のブログ上で公開した。以下は、China Digital Timesによる部分英訳 からの翻訳記事である。

 原文(中国語)
 http://blog.dwnews.com/?p=34905

 英訳記事
 http://chinadigitaltimes.net/2008/03/tibet-her-pain-my-shame/

 邦訳
 http://www.tibethouse.jp/news_release/2008/080321_danhong.html


 10年以上にわたって、私は頻繁にチベットに入って長期滞在し、旅をしたり 仕事をしたりしてきた。そして、路上の若者から民芸職人、草原の遊牧民、 山村の呪医、そして省当局の一般職員、ラサの露天商、僧侶、寺院の掃除人、 アーティスト、作家に至るまで、ありとあらゆる種類のチベット人に出会ってきた。

 私が出会ったそのようなチベット人の中には、数十年前にはチベットは独自の政府と宗教指導者、通貨、軍隊を持った小さな一国家であったと率直に私に語る人もいれば、無力感で押し黙る人や、漢人の私との会話を避ける人、気まずい話題だとためらう人もいた。過去に何があったとしても、中国人とチベット人は相互交流の長い歴史を持ち、その関係は両者で注意深く保持されるべきだと考える人もいる。また、鉄道プロジェクトや「北京路」「江_路」「四川-チベット路」といった道路に憤慨する人もいれば喜んで受け入れる人もいる。漢人はチベットに巨額の資金を投じているがそれ以上に欲しいものを得ていると語る人、漢人は開発に資金投入しているが同時に破壊も行っており、漢人が破壊しているものは正に我々チベット人が大切にしているものなのだと語る人…。私がここで言いたいことは、このようにチベット人たちも様々であるにしても、彼らは共通のものを持っているということだ。それは彼ら独自の歴史観であり、深い信仰心なのである。

 チベットを訪れたことのある者なら、チベット人のこのような信仰心を肌で感じ取ったはずだ。実際、多くの旅行者が衝撃を受けるほどなのだ。そういう信仰の態度はチベット人の歴史を通して持ち続けてきたもので、日常の生活に現れている。これは、信仰心もなく今や金銭を崇拝するだけの漢人と比べると、非常に異なる価値観である。この信仰心はチベット人が最も大切にするものだ。彼らはこの信仰心を宗教的人格としてのダライ・ラマに投影する。

 チベットを訪れたことのある者にとって、「よく見かけるチベットの光景」に違和感はないはずだ。ダライ・ラマを崇拝しないチベット人がいるだろうか。自分の所属する寺院にダライ・ラマの写真を掲げたがらないチベット人がいるだろうか。(我々漢人がかつて掲げさせられた毛沢東の肖像写真は政府によって印刷されたものだったが、ダライ・ラマの写真は外国からこっそり持ち込まれ、秘密裏に複写、拡大されるのだ)。ダライ・ラマを言葉で蔑みたいと思うチベット人がいるだろうか。ダライ・ラマに会いたくないチベット人がいるだろうか。ダライ・ラマにカター(儀礼用の白いスカーフ)を捧げたがらないチベット人がいるだろうか。

 支配者が聞きたがる声のほかに、我々はチベット人の完全なる真実の声を聞いたことがあるだろうか。チベットを訪れたことのある漢人は、政府高官であろうが旅行者やビジネスマンであろうが、みなチベット人の真実の声を聞いたではないか。沈黙させられてはいてもそこかしこで響きわたる声を。

 これが、チベット内のすべての寺院がダライ・ラマの写真を掲げることを禁じられている本当の理由なのだろうか。これが、すべての家を調べてダライ・ラマの写真を掲げる者を罰するためにあらゆる労働単位に役人を配置する理由なのだろうか。宗教的な祝日のたびに政府が信者を巡礼路で阻止する理由だろうか。公務員に対し自分の子どもたちをダラムサラで勉強させることを禁じ、これに反した場合は解雇され家屋も没収されるという政策の理由だろうか。微妙な時期にはいつも政府役人が寺院で会議を開いて僧侶に「党のリーダーシップを支持すること」や「分裂主義者のダライとは一切関係はないこと」を強制的に約束させる理由だろうか。これが、我々漢人が交渉の場につくことを拒否し常に非人間的な言葉を使ってダライ・ラマを侮辱する理由だろうか。結局のところ、これは「よく見かけるチベットの光景」を強調し、チベットの国民性のシンボルをより崇高なものにする、まさにその理由となっているのではないだろうか。

 我々漢人は、「独立」の要求を放棄して現在は「中道」を唱導するダライ・ラマと話し合いのテーブルにつき、誠意を持って彼と交渉して、彼を通して「安定」と「調和」をなぜ実現できないのだろうか。

 それは両者の権力の差異が大きすぎるからだろう。我々は人も多過ぎ力も強過ぎる。我々漢人は武力と金、そして文化的破壊と精神的レイプ以外に「調和」を実現する術を知らないのだ。

 仏教を信仰する彼らは、因果と魂の輪廻転生を信ずるが故に、怒りと憎しみに対峙し、漢民族主義者たちが決して理解し得ない哲学を創り上げたのだ。私の友人である何人かのチベット人僧たちは寺院にいる「厄介者の僧侶」の類の僧侶にすぎないが、その彼らが私に「独立」についての彼らの見解を次のように説明してくれた。「実際、前世では私たちも漢民族だったかもしれず、来世で漢民族に生まれ変わるかもしれない。また、漢民族の中にも前世でチベット人だったり来世でチベット人として生まれたりするかもしれない。外国人も中国人も、男も女も、恋人も敵も、魂の世界では終わることなく輪廻する。輪が廻るかのように状態が生じて滅する。したがって独立を求める必要があるのだろうか」と。この種の宗教、この種の信者のことをコントロールしやすいと誰が考えられるだろうか。ここにパラドックスがある。彼らに独立の望みを諦めてほしいと思うなら、彼らの宗教を尊重して保護するべきなのだ。

 最近、私はチベットに関するオンライン・フォーラム上で過激なチベット人による投稿をいくつか読んだ。いずれの投稿も大体は次のように言っている。「我々は仏教を信じないしカルマ(業)も信じないが、チベット人であることを忘れてはいない。我々の祖国を忘れてはいない。今、我々はあなた方、漢人の信念、すなわち"権力は銃身から生まれる"という考えを信じている。あなた方漢人はなぜチベットにやって来たのか。チベットはチベット人のものだ。チベットから出て行け!」

 もちろん、これらの投稿の背景には、漢人「愛国主義者」からの膨大な数にのぼる投稿がある。ほとんど例外なく、漢人の返信には「彼らを殺せ!」「全滅させろ!」「血で洗ってしまえ!」「ダライ・ラマは嘘つきだ!」など、我々漢人がすっかり慣れ親しんだ暴力崇拝者の「激情」の言葉が並ぶ。

 私はこれらの投稿を読むととても悲しくなる。これが業なのか……

 先週、インターネット妨害に起因する情報のブラックホールに直面して通じない電話の受話器を置いた後、新華社が言ったことを私でさえ信じてしまった。すなわち、「チベット人たちが店舗に火を放ち、ただ生活のためにそこにいただけの罪のない漢人を殺した」ということを、奇妙にも私は信じてしまったのだ。そして私は今なおどうしようもなく悲しい。一体いつの日からこのような種が蒔かれていたのか。1959年の動乱のとき? あるいは、文化大革命中の大粛清のとき? 1989年の弾圧のとき? 彼らのパンチェン・ラマを自宅監禁して漢人の操り人形で置き換えたとき? 寺院において政治的な集会と告解が数限りなく行われていた頃? あるいは、壮麗な雪山で、ダライ・ラマに会いたがっていたからというだけで17歳の尼僧が銃殺されたとき? ……

 それはまた、些細なことのようにみえて恥ずかしい思いをした数々の瞬間かもしれない。チベット人が漢人の露天魚売りから生きた魚を買い、その魚をラサ川に放したのを見たときや、ラサの路上に漢人の乞食がどんどん増えるのを見たとき (彼らは漢人地域ではなくチベットで物乞いをするほうが簡単だということを知っているのだ)、さらに朝陽に輝く聖なる山々の山肌に鉱山から出る醜い傷跡を見たとき、私は恥じ入る思いをした。また、漢人エリートたちが、中国政府は莫大な資金をチベットに投じ経済政策はチベット寄りでGDPも急成長しているのに「チベット人たちはほかに何を望むのか」と不平を言うのを聞いたとき、私は恥ずかしくて仕方なかった。

 なぜあなた方は人には様々な価値観があることを理解できないのか。あなた方、漢人は洗脳や武器の力、金の力を信じているが、チベット人の心の中には何千年間にもわたって崇高な信仰があり洗い流すことはできないのだ。あなた方が自分たちのことを「奴隷社会からチベット人を救う救済者」と主張するなら、私はあなた方の傲慢さと妄想が恥ずかしい。銃を携えた軍警察がラサの路上で私の横を通り過ぎるとき、私がラサに行くたびに幾重もの軍事基地が見えるとき……そう、漢人の私は恥じ入るのだ。

 何よりも、私が最も恥ずかしく思うのは「愛国的な大多数」だ。漢人は殺戮による征服しか知らなかった秦の始皇帝の子孫だ。力で弱者を抑え込む狂信的優越主義者だ。銃の後ろに隠れて犠牲者に発砲しろと命じる臆病者だ。ストックホルム症候群 (*1)に苦しむのだ。凌遅刑(*2) や去勢といった「高度な」文化が生み出した残虐な狂人なのだ。「愛国的」旗を振る不健全な人間なのだ。私はあなた方を軽蔑する。あなた方が漢人なら、私は自分があなた方の一員であることに恥じ入る。

 ラサは燃えている。四川省や青海省のチベット地域では銃撃が行われている。私でさえこれを信じる。実際、私はこの事実を信じる。「彼らを殺せ!」「全滅させろ!」「血で洗ってしまえ!」「ダライ・ラマは嘘つきだ!」などと叫ぶ数々の「愛国的」投稿の中に、私は写し鏡のようにチベット人過激派の姿を見るのだ。あえて言うが、あなたたち若者(「愛国的若者」)は漢人とチベット人との間の何千年にもわたる友情の念を破壊する優越主義者の漢人なのだ。民族間の憎しみを増幅させているのはあなた方なのだ。あなた方は当局を「強く支持」しているわけではなく、実際には「チベットの独立」を「大いに支持」しているのだ。

 チベットは消滅しつつある。美しい平和なチベットを作っている精神も消滅しつつある。チベットは中国になりつつある。チベットがそうなりたくないと願うものになりつつあるのである。チベットは疎外される不安に直面したとき、ほかにどのような選択肢があろうか。独自の伝統と文化にすがりついて古の文明を蘇らせるのか? あるいは、漢民族主義者の残忍な恥ずべき栄光を助長するだけの自滅的行動に出るのか?

 そう、私はチベットを愛する。チベットが一国家であれ一地方であれ、チベットが自由意志を持つ限り、私はチベットを愛する漢人だ。個人的には、私は彼ら(チベット人たち)にも私が属している大きな家族の一員であってほしいと思う。私は、管理や強制されるのではなく、自らの選択で対等の立場で生まれる国家間および民族間の関係を尊重する。民族間、国家間で相手を恐れさせ従わせる「強権」感覚には興味がない。そのような感覚の背後にあるものにはまさに吐き気をもよおすからだ。数年前にチベットを後にしたが、惜別の念は私の日々の生活の一部となっている。私は歓迎される漢人としてチベットに戻りたいと痛切に願う。対等な隣人として、あるいは家族の一員として、真の友情を育むために。


 訳注:
 *1. ストックホルム症候群:犯罪被害者が、犯人と一時的に時間や場所を共有することによって、過度の同情さらには好意等の特別な依存感情を抱くこと (Wikipediaより)
 *2. 凌遅刑:清の時代まで中国で行われた処刑の方法のひとつで、生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑 (Wikipediaより)

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マリオ・ジャコメッリの作品

 辺見 庸氏がテレビでジャコメッリの写真作品を語っている。それは実に刺激的な芸術だ。ジャコメッリが故郷のホスピスで死を抱えながら生きる老人たちを撮った写真。それは凄絶としかいいようがない。氏も死と向き合っているから、というのでもない。それは自分が生きている、この世とは何か、ということを作品は突きつけてくる。

 氏が「識閾」という術語で表現しようとする虚実の境というものに我々は時に遭遇する。2004年の脳出血の時に氏はそれを自ら体験している。そこから作家としてジャコメッリがこだわるという「時間」に氏もこだわるのだ。それは、この世に棲むということはどういうことなのか?という、時に遭遇するハッとする問いだ。毎日毎日をしのぎながら生きている我々にもそれは共時的に生ずる。

 ジャコメッリの作品を評して辺見氏が言う「修羅」というものは我が国の詩人が書き付けた作品とも共鳴しているだろう。

 資本との腐れ縁と断絶したところでしか現代の芸術というものはあり得ない、という氏の発言にアカショウビンは同意する。テレビで絵画や作品を見るという事は愚の骨頂という発言や良し。CMの世界が日常となっている現在の文明国の倒錯に対する疑義も。

 人は死すべきものである、というジャコメッリがこだわる言説も、それは古くて新しい時を超えた真実だ。人はいずれそこへ至る。辺見 庸も現在を生きながら、ゆるゆるとそこへ赴いている。それはアカショウビンとて同じだ。

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2008年5月24日 (土)

映画と音楽効果

 以前に少し感想を書いた「靖国YASUKUNI」について、もう少し。この作品と「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の二作品の最後に使っていた音楽が実に効果的だった。アカショウビンには馴染みが薄い作品だが、前者がヘンリク・ミコワイ・グレツキの交響曲第3番 作品36。「悲歌のシンフォニー」と呼びならわされている。後者はブラームスのヴァイオリン協奏曲の終楽章。両作品とも周到に効果を狙って採用されている。余談だがグレツキをドーン・アップショウのソプラノ、デイヴィッド・ジンマン指揮のロンドン・シンフォニエッタで、ブラームスをミルシテインとヨッフム指揮ウィーン・フィルの1974年録音の手持ちのCDで聴き直した。アップショウは良かった。しかしブラームスは、ミルシテインより、少なくとも映画で使われた第3楽章は誰の演奏か確かめていないが、そちらのほうが良かった。

 「靖国~」での音楽効果は作品の内容に対して監督の込める思いが伝わってきた。それは音楽に表現されている「祷り」であり裏に響く「怒り」でもある。それはまた靖国神社という特異な磁場で日本人たちに生じる奇異な行動への好奇心となっても表現されている。グレツキの音楽が使われる作品の最後の映像は李 纓(リ・イン)監督の知的な探究心というべきものも感じられた。そのような作品構成の緻密さと誠実さを看取すれば、あの作品が「反日」だというレベルであげつらう評の杜撰さが知られようというものだ。作品に登場されていた、靖国刀の刀工の方の最近の新聞報道で知ったクレームはともかく、ドキュメンタリー作品として佳作と言える作品だとアカショウビンは評価する。

 原 一男の「ゆきゆきて神軍」(1987年)を李監督は見ているだろうか?神社での模様を執拗にキャメラで追う映像を観ると多分見ているとも思われる。人間達の奇矯な姿を現場でキャメラで追うのは時に身の危険さえ生ずる行為だろう。しかし、そういう過程を経て撮影した映像を「作品」として構成するには知的な作業を要する。李監督は10年かけた。刀工が刀を製作する過程にキャメラを据え監督の質問に答える刀工の問わず語りは、この作品の制作意図を垣間見る思いがした。監督は、ここに日本人の「精神」を見ようと意図しているのだ。それは武士たちが魂として対した「日本刀」であり、三島由紀夫が腹を割き首を落とされた「日本刀」であり、李監督の同胞たちを刺し、斬り殺した「日本刀」であり、サムライたちの「精神」を引き継ぐとされた軍人の魂とされる「日本刀」だからだ。

 そういう視角は現在に生きる多くの日本人たちが気付かないものではないだろうか?それを先の大戦では因縁浅からぬ中国人の李監督が作品として日本人の前に提示した。少なくともアカショウビンには実に興味深い映像だった。刀工の黙々と仕事する姿と朴訥な話ぶり、それにキャメラを据え、訥々とした日本語で問いかける監督。靖国神社での日本人や米国人、神社に激しく抗議する台湾人の姿。軍服姿の時代錯誤。抗議する若者と彼を袋叩きにする輩たち。彼を中国人と間違えて病的な暴言を浴びせる中年男。それは多くの日本人も初めて見る映像ではないのか?さて外国人に日本人の姿はどのように映っただろうか。

 それはともかく、もうひとつ興味深かったのは刀工氏が李監督の問いかけに殆どはぐらかしとしか思えないような応対をするところだ。恐らく、刀工氏は語ってはいけないことを抱えている、と思えた。お歳のせいで耳が遠くなっていることもあるだろう。しかし、そうではなく意志として答えないと思える節もあった。それは何だろうか?亡くなった英霊たちへの配慮か。杜撰な政治家達の差し金か。クレームをつけた詳細は知らないが、ご本人からすれば、そういった遣り取りをする自らの姿を恥じたのかもしれない。しかし黙々と仕事に打ち込む姿は多くの生真面目な日本人の仕事ぶりがそこにも見られて好ましいものだったのだが。

 「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」(ポール・トーマス・アンダーソン監督)はダニエル・デイ=ルイスという俳優の見事な演技が作品全体を通じ強力に作用し支配している作品だ。現在のアメリカという国家を支えていると思しき石油を全米に探し求めた男の半生を描いている。それは西部劇とは異なる開拓史の一齣でもある。ゴールドラッシュと石油。これが、この二百年、この国を今では世界最強の国に押し上げた要因の幾つかだろう。

 映像として強烈な印象に残るカットを一つ。ラストで執事(と思う)が主人の様子をうかがいに二階から降りてくる。ボーリングのピンで男を殴り殺した側で主人公が「終わったよ」と伝え、振り返った表情。その奇怪とも凄絶とも思われる表情。それがダニエル・デイ=ルイスという俳優の持ち味というのか凄みだ。何と大した役者ではないか、と感嘆する。

 この殺した相手との確執が、作品の一つの軸を構成している。それは牧師として土地の信者たちの信頼を集め伝道者となった若い男の偽善に翻弄された主人公の恨みである。神に仕える者が、金に執着し偽物の宗教体験で信者を誑かす。その人間の本質を遠い昔すでに見抜いていたにも関わらず主人公は仕事のために男の主催する教団に入らざるを得なかった。その後悔が物語の最後に殺人となって結末を迎える。

 最後に唐突とも思える間合いでブラームスが鳴り響く。その効果が素晴らしかった。それは物語に或る種の開放感をもたらしていた。映画音楽の効果とはかくあるべし、という見本のような使い方だった。「靖国~」も同様で、そこには両監督の優れた知性がはたらいている。

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2008年5月17日 (土)

死刑制度・再考

 政治家たちが、刑法に終身刑を創設することなどを目指す「量刑制度を考える超党派の会」を15日に旗揚げしたという。来年の裁判員制度に向けて刑罰のあり方を問うらしい。現行法で、死刑に次いで重い無期懲役刑は10年以上が過ぎれば仮釈放が認められる。そのため極刑との格差が問題視されてきた。死刑という制度を国会議員たちが制度として喋々するのはけっこうなことだが、急所と思われる論議は極悪人といえど、現在の国家の仕組みのなかで国民の一人一人が殺人に加担することの是非と人の生存が絶たれることへの苦しみと悲惨への想像力の届き方という点だ。

 アカショウビンは死刑制度に反対の立場だ。それは「人道的」な立場でも「正義感」からでもない。言ってみれば、存在論的立場から、とでも言えるだろうか。辺見 庸氏は著作の中で戦後のハイデガーの講演の一節を引いていた。それは「乏しき時代の詩人」というタイトルで出版されたリルケ没後20年の講演だ。辺見氏は、そこでハイデガーの述べた次の箇所に刺激されたという。

 「神性の輝きが世界から消えてしまった。(中略) もはや神の欠如を欠如として認めることができなくなっている」(同書p80)。アカショウビンは氏の意外な指摘に刺激されて同書の他にブレーメン講演とフライブルク講演も読み啓発された。そこにはユダヤ人やドイツの知識人たちが絶滅収容所で殺されたり、戦後の中国で何百万人という人々が餓死していった報道に言及する哲学者の「存在と時間」以来の「有る」ということへの、神秘説とも読み取られかねない独特の言説と思索が開陳されている。

 ハイデガーの思想に辿れる人間という生き物にとっての「死」という現象と事実は、存在とは何か?と形而上学的に思索・考察した哲学者にとって根本的な思索を要する急所である。中国・四川省の巨大地震で亡くなった人々の死は人間という生き物が「能く死ぬ」ことではない、とハイデガーは考察する。先の大戦で亡くなった兵士や市民の死も果たして人間が「能く死ぬ」死に方だったか。人間が死ぬということはハイデガーによれば「死を抱えながら、それに耐え抜く」という生き方と覚悟である。その説くところを辿れば死刑制度は幾つかの選択肢を看取しうる考察であることがわかる。

 人の死を制度論的に論議することとは別に、死という生き物すべてに等しく到来する事実を考察することは、共に深い思索が求められる急所である。そのことに鈍感であってはならない。

 次の辺見 庸氏の言説と論説は、そこまで視野に治めたうえでのものである。

  「絞首刑用鉄をそれを知って当惑しつつ、しかし丹精してこしらえているアルチザンとその家族や愛人の眼の不可思議な昏さを、そうした存在をまるで想像できず想像しないことにしている詩人とその家族や愛人たちの顔の明るさよりも、私がはるかに愛してしまうのはなぜであろうか」(「たんば色の覚書 私たちの日常」 毎日新聞社 2007年10月15日 p64~p65)

 この述懐の届く視界と思索の深さを了知すれば存続派の安直な論議には徹底して対抗しなければならない。

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2008年5月12日 (月)

「死刑制度」と「靖国 YASUKUNI」

  死刑制度についてミクシイに意見を書き込み遣り取りをしていると、徒労感を感じながらも応答しなければならない責任を柄にもなく負わされる。死刑制度を「因果応報」的な制度として容認する若い人たちの書き込みは或る意味で率直さも感じる。しかし、極悪人といえどアカショウビンは国家が人を殺すことに賛同するわけにはいかない。

 それは欧米的な「人権」という概念に依拠するわけではないことは熟考すべきではないかと思うからだ。ミクシイでの遣り取りでも、死刑にすべき極悪人を無期にして彼らを税金で養う余裕は私にはない、といった論説を受け取った。しかし、果たしてそうであろうか?人を殺すことを、そのような金銭的な論拠で済ましてよいものだろうか?死刑制度に賛成する論調の多くは殺された者たちへの恨みを遺族たちに代わってはらすのが国家の役割だ、とする者と死刑に相当する罪科を犯した者を税金で養う必要はない、といった理由が大半だ。

 しかし、と思うのである。賛成する殆どの人々は、その当事者ではない。それを国家に託し軽々しく国家の殺人に国民が安直に加担してよろしいものだろうか?

 先の辺見 庸の死刑制度廃止の論拠は冤罪にされた人々を含む囚人を含めて、広く人を殺すことの是非を問う言説である。それは経済概念を駆使するだけでは済まないことを了知して言うべき事と思うのだが如何なものだろうか。

 ミクシイの応酬でアカショウビンは、退廃の様を呈している現今の日本人ではあるけれども、たかだか百数十年の歴史を閲しただけで短絡してはいけない、という主張をし次のような反論があったので引用する。

 >日本の心底に受け継がれている優れた精神・・・・ですか?あの戦争をした精神が、ですか?あのバブルに踊り狂った精神が、ですか?今、また昔の右翼的愛国心に踊っている精神が、ですか?何処を見て、優れた、と言わしめるのでしょうか?

 それについては返信したけれども、関連して書いておきたいことがある。話題の「靖国 YASUKUNI」を先日渋谷のミニシアターで観てきた。それが物議を醸したのは、この作品に「反日」の意図を見て取った国会議員たちの言説である。しかしアカショウビンは、それを疑う。果たして、この作品を「反日映画」と観る短絡には慎重であるべきと思うが如何なものだろうか?。

 それはむしろ日本という国が歩んできた軍国日本の帰趨を問う作品である。この作品を論じるときに「ゆきゆきて神軍」(1987年 原 一男監督)という作品を思い起こさずにはいられない。そこには苛酷な戦争を経験した日本兵士の奇矯というか狂的な言動にキャメラを回し続けた監督の深い視線が視て取られるからだ。その比較を経ずしては、この作品の内容を安直に論ずることはできないと思う。

 追記 そのようなアレコレを思案しながらNHKラジオで「新日曜名作座」を途中からだが、たまたま聞き、聴き入った。何と西田敏行氏と竹下景子さんに話者が代わっているではないか。森繁久彌氏から引き継がれたのがいつか知らない。しかし音だけで聴く「語り」の素晴らしさに感服した。原作は宮部みゆきの「弧宿の人」(2005年)。途中から聴いていて山本周五郎か藤沢周平かと思いながら聴いていたら宮部氏である。アカショウビンは宮部ファンというわけではない。しかし現今の作家で優れた書き手であることは彼女のファンや書評で聞き読んでいる。その耳で聴く作品にはアカショウビンのいう「日本人の精神」の伝統というものが継承されている事を看取した。昨夜が第6回だが、是非多くの皆さんに聴いて頂きたい見事な朗読である。声の力というのは、このように日本人の中で伝達される事にアカショウビンは感嘆したことを書き添えておきたい。

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