« 画鬼 | トップページ | 「死刑制度」と「靖国 YASUKUNI」 »

2008年4月29日 (火)

長野での出来事

 先ほどミクシイで先日の長野での聖火リレーのデモ(チベット側)に参加した日本の若者が撮影した動画画像を観た。無表情な日本の警官諸氏と反対側の中国人たちとの怒鳴りあいが映像の中で鮮明に録画されている。当日の模様はテレビ番組で少しは見た。しかし恐らく、このような画像とコメントは公にはされていないだろう。ここには参加者のコメントだけをコピーしアカショウビンのコメントを添える。転載は自由ということだからお言葉に従う。

>日本は最低な国だ。
平和だ、人権だと騒ぐ割には、
中国の圧力に負けて平気でこういう事をする。
警察を使って。

 ★警察も使うし、政党も篭絡するし、外国の政治家たちとも通じている。国家はありとあらゆる手管を使う。恐らく中国の圧力に負けてではない。それは辺見 庸のいう日本の「世間様」だろうし中国の圧力だけでなく間接的には米国の圧力でもある。総じては「国家権力」、「権力」だ。

>帰りに携帯でニュースを見た。
「聖火リレーは無事終了。沿道は大歓迎ムード。」
「聖火リレーで日本人5人逮捕。中国人留学生に怪我。」

僕は愕然とした。
この国のマスコミは終わったと感じた。

 ★辺見 庸は既にマスコミを「糞蝿」と唾棄している。

>あの怒号は、
僕らが受けた痛みは、
彼らの悲痛な叫びは、
どこに反映されたのだろう。

 ★それは長野や何かイベントのある地方都市、市町村選挙が行われる場所で、金や権威といった幻想に塗れながら自宅に帰ればコロッと忘れてしまう日常の片隅で。

>警察によって意図的に中国人のみの沿道を作り、
そこをマスコミは撮影し、
中国人の暴力を黙認して、日本人を逮捕する。
これが日本のやることか?
ここは本当に日本なのか?
中国の旗を持たないと歩けない沿道って何なんだ?

 ★それが現実で、あなた達や私が快適な住まいに戻り、温かい風呂に入り、馬鹿テレビに大口を開け笑い呆け、贅沢な食事やポテトチップスや脂っこい獣の肉を賞味する同じ日本なのではないのか?

>この国は最低な国です。
チベット人は泣きながらありがとうと言っていたけれど、
僕は彼らに謝りたかった。
初めて日本人であることを恥じた。

 ★それは、温かいご飯が食べられ、夜のお笑い番組に呵呵大笑し、一家団欒でチラリと画像に視線を向ける間にも持続しているのだろうか?もちろん、そのことは私自身にも問いかけているのだが。

>帰り道、僕らは泣いた。

 ★その涙は自宅に戻りテレビを観たあと一晩眠ったあとにも意味を持ち継続して考察されるのだろうか?

>これが真実です。
僕は日本政府は中国以下だと思った。
弾圧にNOを言えずに、言いなりになって彼らの叫びを封殺したこの国は、もう民主主義国家ではない。

 ★でも、あなた達は、かりそめにも温かい食事とお風呂に入りコロンを振りかけ出勤の満員電車の中で新聞や文庫本を読むこともできない状況でも、仕事があれば食べていかれる。しかしイラクやアフガンやスーダンの現状をテレビやネットの画像で見て更に考究し、その言葉の重みはどれほどあるものなのだろうか?

4/26日長野。
そこには言論の自由はなかった。
歩行の自由すらなかった。
中国人を除いて。

 ★これは既に辺見 庸が身を賭して繰り返していた言説の若者達のナマの声だ。彼らは国家の非情さと「国家」の<姿>に対面したのだ。辺見氏も、この現実を自らの眼と耳と嗅いと舌と肌と頭で、かつて、この世界のどこかで経験したのだ。いや、もっと恐らく苛酷な現実を。泣いても駄目なのだ。民主主義国家でない、と言っても、或る現実を視た人たちは、その甘いか塩辛いかの涙に「共感し」涙を流さないだろう。むしろ、そこに生じ、追求すべきなのは「怒り」であり、それに対応して化学反応のように生じて来る「諦め」と「赦し」といった現象と概念であり、我々が一歩も二歩も踏み込まなければならないのは、その事実の何たるかを究めようとする知的考察への意志だろう。

 どこかに希望はあるのだろうか?それを考え抜かなければならない。

|

« 画鬼 | トップページ | 「死刑制度」と「靖国 YASUKUNI」 »

コメント

こんばんは
ザッコです。久しぶりです。
アカショウビンさん、これこそが私も共感する、情報というものへの私たちの距離の取り方だろうと思います。無自覚に、ただ問題意識だけで自分のブログやミクシイにのせるのは、どうかと常に思っていました。
もっと内省してもっと内省して。それが今この日本に住み生活している私たちがやるべき事だろうと思うのです。無自覚に掲載するのではなく、自分の意見をいえるかどうか。ただ反響を知るためだけなら他でもできます。それは足跡を求めるためだけなら他でできます。しかし、私たちはキーボードを打ち文字を入力します。なぜか。私自身のメッセージを打ち込むためです。
私はこのような使い方を求めます。悲惨な体験を語っておいて他人に読ませておいて最後には、足跡を残すように、拍手のボタンを押してね、なんて嘘っぱちです。
ここを読み納得しました。もっと自分の行動の深淵を動かすもの。そこが大事です。

投稿: | 2008年5月 3日 (土) 午前 12時46分

 ザッコさん ありがとうございます。

投稿: アカショウビン | 2008年5月15日 (木) 午後 11時31分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/41036574

この記事へのトラックバック一覧です: 長野での出来事:

« 画鬼 | トップページ | 「死刑制度」と「靖国 YASUKUNI」 »