« 十年撮りためた映像 | トップページ | 辺見 庸氏の講演(続き) »

2008年4月 6日 (日)

辺見 庸氏の講演

昨日、辺見 庸氏の講演会が都内千代田区の「九段会館」大ホールで行われ足を運んだ。以下は講演内容のメモをもとに遂次的にアカショウビンのコメントも交え再現したもの。講演内容を含めて本題のテーマに関する辺見氏の考えに更に踏み込んだ要約・分析・批判は近くあらためて試みるつもりだ。

大病を患っておられるのに、言葉は一語、一語、明瞭に発音されて、時に激するところは、静養などしていられる世相ではない、という気迫が伝わり喜ばしかった。氏の依頼でチェリストの海野幹雄氏が講演前に演奏した。バッハとカザルスの「鳥の歌」が心に沁みた。

講演のテーマは「死刑と日常――闇の声あるいは想像の射程について」。重いテーマである。最新刊の「たんば色の覚書 私たちの日常」(2007 1030 毎日新聞社)から継続している氏の思索が肉声を通して聴けたことをよく記憶しておきたい。

先ず、愛について語りたい、と切り出し、「辺見のことだから、愛欲の間違いではないか、と思われる方もいらっしゃるかしれませんが」と笑いも誘い本題へ。

マザー・テレサのことから氏は語り始めた。4年前の脳出血による半身不随、その後の大腸ガンと闘病を続けている体験を踏まえ、氏はマザー・テレサの厳しい言説に呼応し、愛と死と痛みについて語る。愛するということは自分に都合の良い愛を注ぐ事ではない、と。愛犬や愛猫のペットを愛するように、飼い主の都合で愛を注ぐ事は果たして愛だろうか?と問いかける。愛とは自分に不都合な対象に対しても注ぐ事が出来るかどうかで試されるのではないか?それはマザー・テレサがインドのもっとも貧しい地区の人々を見て果たして神は存在するのか、と問いかけたことを氏は重く受けとめ、彼女の行動は、その問いの後に継続したものであることに注意を呼びかける。

死刑が執行された死刑囚たちの思いに寄り添い、氏は時の法務大臣の暴言に激しく違和を発する。それは、国家とは人を殺す装置であり戦争になれば国民を死へ狩り出すことへの是非を問いかける思索とも重なっていく。死刑だけでなく戦争にも言及し、国家の可否を問うことはアカショウビンの問いでもある。

死刑とは誰が行うのか、と自問し執行の手順と作業を説明する。そこで国家は後ろに隠れるように刑は執行される。それは、どういうことなのか?そして、それは「ノーバディ」だと答える。死刑囚を吊るすに至るボタンは5つあり、そのボタンを誰が押したのかは、わからなくしてあるらしい。しかしその主体は国家であろう、と氏は回答する。正しくその通りである、とアカショウビンは同意する。

氏は死刑囚が刑死したことを聞いても泣きはしなかったが、取材で犬を殺すのを視た時に犬の叫びと断末魔の声を聴いて涙が止まらなかったと告白もする。人間たちは自分の都合で犬たちを殺す。その可否を人間は問わなければならない、と語る。それは実に真っ当な問いではないか。それを敷衍すれば人間に魚を殺し食らう正当性はあるのか?牛を殺し食らう正当性はあるのか?羊を殺し食らう正当性はあるのか?という問いにも導かれるだろう。愛とは人間の都合良くあるのではない。不都合なことにも注ぐことが出来るかどうか、で試される。

2月に死刑を執行した鳩山法務大臣は、死刑執行の「システム」を、大臣が命令を下すのでなく、自動的に機械がベルトコンベヤーのように死刑を執行する「システム」にすればよい、とコメントした。これに辺見 庸は激しく異議を唱える。人を殺す事が犬を殺すのと同じような「システム」として行われる、ということの是非について。ポメラニアンに囲まれて犬を愛するという大臣は自分が何を言っているのか、という発言の軽薄さに思い至っているのか?大臣のオツムは正常なのか?それは殆どパラノイアなのではないか、と氏は声を荒げ告発する。しかし国民はそのような政治家の発言に声をあげることもなく「日常」は小さな漣を立てただけで実に手強く「復元し」ていく。

氏が言う「日常」とは、このような我が国民の日常に対する異議なのだ。それは氏の言説を辿れば戦後も継続して連綿と維持されてきた天皇制の是非にも言及される。それは、この国の日常の底にある感性とも縛りとでも言うしかない無意識層の独特さであろう。恐らく日本国民と有識者たちの言説と言動が別れる、そこが急所なのだ、とアカショウビンも考察を継続する言説である。

そこから発する氏の問いは哲学的様相を帯びる。

日常とは何を起源とするものなのか?

我が国が欧米や諸外国と異なるのは、馴れ合い的な「内部」は持っていても「他者」という「外部」を持たない事ではないか?と氏は説明する。それは先の大戦の後に知識人たちが侃々諤々の議論をし続けてきて未だに明確な解答がされていない問題でもある。もちろん個々の識者たちに答えはあるだろう、しかし国民として、国家の他国への姿勢として果たしてそれがあるのか?という問いに「世界」で諒解される回答を日本国がしているとは思われない。それは先の大戦で沖縄の渡嘉敷島、座間味島での集団自決に対する大江健三郎氏を告発する裁判の経緯を見聞きしていても、「靖国 YASUKUNI」という映画の上映中止に至る経緯を見ても実感する事だ。

氏の舌鋒は返す刀で市民運動にまでも及ぶ。米国のアフガン空爆やイラク戦争に反対するデモに氏も参加したが、それは仲良しクラブの行動だと幻滅した、と著作で書いていた。そこには「私」がないではないか、と氏は語る。

KYという氏が大嫌いな言葉から、この国の多くの人々に共通する「世間様」という暗黙の了解に同調する心性はいつから醸成されたのか?それは、あらかじめ設えられたファシズムではないのか?生まれついてのファシズムが、この国にはある、という指摘は熟考すべき言説である、とアカショウビンは同意する。非言語的な主体のない鵺のような動物が、この国には徘徊していると氏は語る。

私とは誰か?主体とは何か?という問いの答えを、氏は都立高で君が代を歌うのを拒否した女性教師の言動に見る。多くの教師達が、事なかれ主義で、せいぜい口パクくらいで抵抗する現状はファシズムの実態がどこまで侵入しているのかを伝える現実であると氏は都知事の所業を唾棄する如く声を荒げる。

半身は反対、半身は同意する、それは鵺のようなものだ、という比喩は正確であろう。女性教師が戦っているのは、そのような不気味な「日常」であり「世間」であろう、という言説にアカショウビンは共感する。そのような器用な使い分けが、この国で遊泳し生き延びていく不可欠の渡世の要諦だ、という事だろう。

戦後民主主義は、その間に醸成された「世間」を超克できなかった、というのが辺見 庸の慨嘆である。その言説は聴衆である私達に問いかけられる問いでもある。

氏はまた欧米で言う「公共空間」という概念と我が国の「世間」が如何に相違するかに注意を喚起した。「今ここに在ることの恥」(2006年7月15 毎日新聞社)の注釈(p123)によれば次の通りである。

公共空間を重視した現代の政治哲学者にハンナ・アーレントやユルゲン・ハーバーマスがいる。前者は個人の自由が表現される場として後者は、どちらかと言えば世論の合意が形成される場として公共空間をとらえるが、両者には強制収容所の歴史を二度と繰り返してはならないという問題意識が共通する。

|

« 十年撮りためた映像 | トップページ | 辺見 庸氏の講演(続き) »

コメント

ザッコです。こんばんは。
昨日は残念でした。
さて、ほとんどは私も辺見氏に同意するものとしてお聞き下さい。
私は、彼の以前の本など読み、硬派のまた説得力のある言説が心地よく、読める著者である、と思っていました。
昨日も、ほとんどそうでしたが、しかし一点だけ私は異を唱えたいことがあります。
それは時間が長すぎることです。もし、あれだけの時間を要すると言うことであれば、最初からアナウンスして欲しかった。そうであれば、私はもう少し心の準備というか、聞き方もあったと思うのです。
あの中の聴衆はほとんどがそれを容認していました。みなさんご存じだったのですね。知らなかったのは私だけだったのでしょうか。
長時間お話を聞けたというのは本当にありがたいのです。が、講演もまたなんでもそうですが、いかに設定された時間と空間で行うかということが要諦ではないかと思います。
ただし、アカショウビンさんのこの記事を読み、それも諾なるかな、とも考えます。
つまりこれだけ重要なことを考えさせるには時間の概念はある意味取り払う必要があるのかと。
しかし、本来は個個が時間の管理もして考えるべきですがいかがでしょう。

投稿: | 2008年4月 6日 (日) 午後 10時49分

 ザッコさん
 
 ご返事が遅れて恐縮です。逆に私には時間が足りず、もっと聞きたかったくらいでした。入場券を予約した時に私は終了時間を確認しましたので腰を据えていました。
 それにしても脳出血のリハビリと大腸ガンの放射線治療で辺見氏の肉体は消耗し疲弊しているはずです。にも関わらずドスのきいた声で聴衆さえ疲れる長丁場を予定時間を超えて話し続けました。私はとても刺激されました。

投稿: アカショウビン | 2008年4月11日 (金) 午後 11時16分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/40790775

この記事へのトラックバック一覧です: 辺見 庸氏の講演:

« 十年撮りためた映像 | トップページ | 辺見 庸氏の講演(続き) »