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2008年3月 9日 (日)

世に棲む日々と別れ

 NHKでチョン・ミュンフンがマーラーの交響曲第9番を振っている。このマーラーの最後の交響曲は、かつて小澤征爾氏がウィーンの国立歌劇場の音楽監督に就任するためホーム・グラウンドのボストンを去る時に選んだ作品だ。その模様をアカショウビンはテレビで観た。小澤氏は万感迫る表情で汗と涙で指揮した。曲が終わりヴァイオリンのパートの女性がそっと涙を拭っていた姿が忘れられない。アカショウビンにとって別れの曲として、こんなに哀切な曲は幾つもない。

 先日、或るブログで、ガンで余命あと二ヵ月と宣告された知り合いの人と会って・・・という感想を読んだ。お歳は存じないが、その方にとって、この二ヵ月は人生でもっとも大事な時間を過ごすことになるだろう。もしかしたら半年、一年生き延びるかもしれない。しかし余命は医学的に予測される。ここで私たちは科学的な予測と一人の人間として最後を全うする科学的ではない覚悟を求められる立場に自分が立った場合、どのように振る舞うだろうか、という思いに向き合う。

  マーラーの最後の交響曲は洋の東西を問わぬと感じる哀切がある。人が死にゆく時に音楽は必要ないかもしれない。死とは現世でのあらゆる感情を超越して人を掬い取る出来事かもしれないからだ。しかし残された者たちは、哀切な音楽を奏して死んだ者たちを悼む。マーラーの晩年は不幸だった。しかし彼は何と深い哀切な作品を生んで世を去ったことだろう。そのことに心からの感謝を込めて作品に聴き入るしかない。

 その後は、昨年亡くなった小田 実の特集番組だ。そうか、小田さんが亡くなって半年以上もたつのだ。アカショウビンは若い頃に小田 実の著作と行動に触発された。その後、ベトナム戦争も終結し反戦運動と不可分に結びついていた小田 実の名もかつてほど聞かなくなった。アカショウビンも氏の著作とは次第に縁遠くなっていった。西宮に住んでいて阪神・淡路大震災では自らも危うく死ぬところだったと話し、これは天災でなく人災だ、と熱く語る小田 実の姿を久しぶりにテレビで見た。バイタリティは健在だった。その後が昨年はじめ頃の末期ガンで余命半年という新聞記事だった。医師の予測通り夏に小田 実は逝った。

 あの大柄な体躯が痩せ衰えて妻と娘に看護される姿が痛ましい。テレビ・キャメラに弱々しく語りかける姿が哀れではある。しかし話す内容は往年の熱情と激しさに満ちている。半生の行動を共にした鶴見俊輔氏が絶句しながら小田を語る。ナレーターは在日の舞台女優・李麗仙だ。病床で妻に未完の仕事を口述する姿は壮絶としかいいようがない。その映像を魂に刻みつけよう。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番のアダージョが美しく死を弔うように響く。小田さんよ、死もまた一定だ。人は死ぬ。たとえ心残りでも。あなたの「難死の思想」は若い頃にアカショウビンを挑発した。それは、その後、反対者や同調者を触発し、揉まれ揉まれて現在に至っている。後に続く人々は、そのあなたの思想の骨組みの一つを思索の縁にするだろう。

  愛妻や愛嬢はじめ、あなたには多くの同行者たちがいる。というより日本や世界にはあなたに続く多くの人々がいる。アカショウビンも既読と未読の著作に眼を通していこう。改めて、あなたの晩年の著作に参入し生きる力を得たいと心から思う。番組に流れるベートーヴェンが力強く美しい。小田さんよ、75年生きられてよかったではないか。ベートーヴェンより長く生きられ、書き続け、行動し続けてきたのだから。

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